「では、まず、瞬が本当に面食いなのかどうかを、本腰を入れて確認してみてはどうだ」
唇を一直線に引き結び、これが不機嫌でなかったら 何が不機嫌なのかという顔をしている瞬の兄に、紫龍が そう提案したのは、彼が そんな一輝の心情を きっちり把握しているからだったろう。
仮説を立てて、実験し、その実験の結果を検証し、分析・解釈し、結論に至る。
『やってみなくちゃ、わからない』と、細野晴臣某も言っているではないか。

「確認? どうやってだよ。瞬に訊いたって、違うって言われるだけだろ」
一輝への提案に、星矢が脇から口を挟んでくる。
沈黙を守っているから一輝が乗り気でないというわけではないことを知っている紫龍は、一輝の無反応に 機嫌を損ねた様子もなく、星矢に頷いた。
「瞬自身は そう思っているだろうからな。だが、本当にそうなのかどうかは わからない。意識していなくても、瞬は 無意識下で外見の美しさに惹かれているのかもしれない。そこを確認して、もし瞬が面食いなら、一輝は氷河の鼻の骨を へし折ってやればいいし、言葉通りに面食いでなかったら、一輝は 氷河と瞬の件を諦めるなり、氷河の顔以外の美点探しに取り組むなりすればいいんだ」
「一輝も自分の顔にコンプレックスを感じる必要がなくなって、一石二鳥だな。で、どうやって、それを確かめるんだよ? どっかから 美形と不細工を連れてきて 瞬の前に並べてみても、瞬は態度を変えたりしねーぜ」
「そこは背理法で―― 一輝の幻魔拳で、瞬を面食いでなくし、氷河への態度の変化を観察してみればいい」
「なにっ?」

やはり一輝は乗り気でなかった わけではなかったらしい。
紫龍の提案に、瞬の兄が初めて、言動で反応を示してくる。
素知らぬ顔で、紫龍は 彼の実験計画の説明を続けた。
「幻魔拳で 瞬を面食いでなくす? 一輝の幻魔拳って、そんなこともできるのか?」
「あれは、人間の感情をコントロールする前頭葉と記憶を司る側頭葉、視覚情報を司る後頭葉を刺激して、特定の人間に恐怖を誘う幻影を見せる技だろう。それだけのことができる技に できないことなどあるわけがない」
「まあ、考えてみれば、すげー技だよな」
「相貌失認という病気がある。目、鼻、口といった個々の顔のパーツや輪郭を知覚することはできるんだが、それを一つの顔として認識できなくなる病気だ。失顔症ともいうな。一輝なら、一時的に、その系統の症状を作り出すことができるだろう。つまり、顔の各部位の認識はできるが、それらの情報を統合して 認識できなくなる状況を。顔の統合認識ができなくなれば、人は、人の顔を 美しいとも醜いとも判断できなくなる。それで瞬が 氷河への好意を感じなくなり、態度が変われば、瞬は外見の美醜に囚われていることになるだろう」

「ふえーっ。一輝、おまえ、ほんとに すげーことができるんだな。なんで、これまで瞬に その技をかけずにいたんだよ」
思いつきで正鵠を射る男の面目躍如。
星矢の無邪気な疑念に、一輝は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「瞬の脳を どうこうするような真似ができるか! それに、俺の幻魔拳の有効時間は せいぜい1時間だ」
星矢が、『氷河には遠慮なく、お見舞いしたくせに』というコメントは口にせず、
「1時間だけ瞬が氷河に何も感じなくなっても、あんまり意味ないもんなー」
とだけ、呟く。
思いつきだけで発言することを身上にしているとはいえ、一輝が仲間たちに敵対していた頃の出来事には言及しないでいてやる程度の気配り(?)は、星矢にもできるのである。
もっとも、仲間として共に戦うようになった今でも、氷河に幻魔拳を見舞ったことを 一輝が後悔しているとは、星矢には到底 思えなかったのだが。
もし一輝が後悔しているとしたら、その後悔の内容は『あと 2、30発、見舞ってやればよかった』であるに違いなかった。

「瞬が面食いなのかどうかを確かめるには、1時間あれば十分だ。1時間で効力が消えるということは、むしろ 瞬の安全を保障することでもある」
「……」
星矢よりは慎重な紫龍に そこまで言われても、一輝は、最愛の弟の脳に小細工をするような真似はできない――したくないらしい。
たとえ その拳を弟に見舞うことで、瞬が面食いなのか否かという問題の答えが はっきりし、自分自身の苛立ちの要因が一つ消滅することになるのだとしても。

またしても唇を真一文字に引き結んでしまった一輝を見やり、星矢は 改めて、殺生谷で ためらうことなく二度までも氷河に幻魔拳を放った一輝の姿を思い出してしまったのである。
あの時 一輝を突き動かしていたものは、大切な少女を失うことになった運命の苛酷や無慈悲への憤りや憎悪だけでなく、本来 瞬の兄がいるべき場所を ちゃっかり かすめ取り、敵となった瞬の兄から瞬を庇おうとした男への嫉妬の感情もあったのだろう。
瞬の面食いなどより 一輝のブラコンの方が よほど深刻な病だと、星矢は――紫龍も――思ったのである。
一輝の放浪癖も やむなし。
常時 最愛の弟の側にいたら、一輝は 早晩、お得意の カッコつけができない男になる(= 氷河と大差ない男になってしまう)に違いなかった。

「んじゃさ。その変則幻魔拳、俺にかけてみてくれよ。そろそろ氷河と瞬も帰ってくるだろうし、美形か不細工かの判断ができなくなった目で あの二人を見たら、どんなことになるのか、俺、試してみたいからさ」
「それはいい。効力と安全性の確認にもなるな」
星矢が、またしても思いつきで ものを言い、紫龍が その思いつきの後押しをする。
それが最愛の弟の脳でさえなければ、無理な力で人の脳を操作することに躊躇を覚えることもないのか、あるいは、一輝自身、変則幻魔拳の効果に興味があったのか。
一輝は、面倒臭そうにではあったが、星矢の その要望は 至極あっさり叶えてくれたのである。
まるで弦楽器の弦を弾くように軽く、指を弾く。
そうしてから、一輝は、詰まらない子供向け遊戯に興じてしまったことを後悔する大人のような声音で、
「かけたぞ」
と、作業の完了を星矢に報告してきた。

いつも敵に示している大仰な前振り口上とオーバーアクションは何だったのかと問い詰めたくなるほど、簡潔で地味な技の執行。
しかし、その技の効果は覿面だった。
人間の顔の美醜の判断ができなくなった状態で 仲間たちの顔に視線を投じた星矢は、仲間たちの見慣れた顔の変わりよう(?)に派手な歓声をあげた。
「すげーっ。一輝、おまえのツラ、全然 暑苦しくねーぞ! こってり豚骨ラーメンがソーメンになったみたいなツラになってる。紫龍、おまえは、満漢全席が 塩抜きの白粥になった感じ。不味くも美味くもなさそう――っていうか、味がなくて、害もなさそうで、滅茶苦茶 詰まんねーツラ!」
仲間たちの“詰まらないツラ”について語る星矢は、異様なほど興奮気味。
してみると、“詰まらなくないもの”が“詰まらないもの”に変わる現象は、結構な大事件なのかもしれなかった。

「俺、別に面食いのつもりはねーだけど、綺麗とも汚いとも感じられないツラって、まじで 詰まんねーぜ。ほんとに、ただ そこにあるだけって感じでさ。氷河や瞬でも こんなふうになんのかなー。なんか 俺、どきどきしてきた」
人は“詰まらないもの”を期待して胸を高鳴らせることもあるらしい。
塩抜きの白粥にされてしまった紫龍が、アイスクリームを買いに出ていた氷河と瞬の帰還に気付いたのは、ちょうど その時だった。
「いいタイミングで、氷河と瞬が帰ってきたようだ」
氷河がドライアイスの代わりを務めさせられているらしく、白鳥座の聖闘士の小宇宙が近付いてくる。
星矢の目が どういうことになっているのかを知らない氷河と瞬が、仲間たちのいるラウンジに入ってきたのは、それから まもなくのことだった。






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