じめついた梅雨は嫌いだが、本格的な日本の夏は もっと嫌。 梅雨が明けた この時季に 蒸し暑い日本を脱出して聖域に来るのは、アテナの聖闘士たちの恒例。 というより、氷雪の聖闘士である氷河のために、彼の仲間たちが恒例にした、いわゆる一つの年中行事だった。 だというのに、聖域に来てから ずっと、氷河は元気がない。 否、氷河は、今年最後の梅雨前線が関東を立ち去ろうとしていた頃から 既に、梅雨明けの予感に恐れおののくアジサイの花のように しおれていた。 暑いことは暑いが、湿気がないせいで爽やかさが勝つ聖域に来ても、氷河だけは 相変わらず どんよりと じめついたまま。 これでは せっかくギリシャまで避暑ならぬ避湿のために やってきた意味がない。 いったい白鳥座の聖闘士に何があったのだと問い質した星矢に返ってきた答え。 それが、 「瞬に振られた〜 !? 」 だった。 「いちいち復唱するな。それでなくても傷心の俺を、貴様は再起不能にしたいのか」 氷河は、星矢の叫びを責める声にも覇気がない。 氷河が その傷心の事実を しぶしぶながらでも仲間たちに告げる気になったのは、その場に瞬がいなかったからだったらしい。 星矢や紫龍が これまでに幾度か 氷河に元気のない理由を訪ねても、氷河が言を左右にして その理由を語らずにいたのは、その場に必ず瞬が居合わせていたからだったのだろう。 瞬は、今日は、考古学博物館に調べものがあるというアテナのお供で、アテネの街に出掛けていた。 「俺は もう駄目だ。生きていても無意味だ。戦う気力も湧いてこない。地上世界なぞ、どうなってもいい。瞬が俺のものになってくれないのに、世界があったって 何にもならない」 アテナ不在とはいえ、アテナ神殿のファサードで、アテナの聖闘士が 堂々と言ってくれるものである。 白大理石の階段に 全く緊張感なく だらけた様子で腰を下ろしている氷河は、今にも その場で ふて寝を始めてしまいそうな勢いだった。 だらしなく弛緩しきった格好はともかく、その発言は、同じアテナの聖闘士として聞き捨てならない。 気持ちよく晴れ渡った聖域の上の青空の下に、星矢は 更なる大声を響かせた。 「アテナの聖闘士が、失恋くらいのことで、なに、ふざけたこと言ってんだよ! おまえの個人的事情で、この世界が滅んでもいいってのかよ。この地上世界には、何十億人もの人間が――」 「他の聖闘士は いざ知らず、俺が地上の平和を守るために戦うのは、そうして守り抜いた地上で、すべての人間が幸福になることを望んでいるからだ。すべての人間の中には、この地上に生きる数十億の人間と俺自身が含まれる。むしろ、数十億の人間は、俺のついでだ。だが、地上の平和が守られても、俺はもう幸福になれない。戦う気力や意欲が湧いてくるはずがないだろう」 「……」 氷河の言い草は、アテナの聖闘士にあるまじきもの。 確かに それは、アテナの聖闘士が口にしていい言葉ではなかった。 が、所詮 アテナの聖闘士も一人の人間。アテナの聖闘士全員が、瞬のような利他主義者なわけではないのだ。 否、事実は むしろ逆。 誰もが利他主義者ではないからこそ、我が身より 他者の利益と幸福優先の瞬の利他主義が あえて取沙汰されるのだ。 “俺のついで”でも、自分以外の数十億の人間のことを考える氷河は、かなり良心的な方である。 その人生観、世界観、価値観は 人間的でもあり、アテナの聖闘士としては標準的姿勢といっていいものである――のかもしれなかった。 だが、『どうでもいい』は、アテナの聖闘士には禁句。 それを言ってしまう人間は、アテナの聖闘士失格。 その失格行為を、だが 氷河は堂々とやらかしてくれた。 聖闘士失格の氷河に、ここで『おまえの力なんて 必要ねーよ』と言ってしまえたなら問題はないのだが、聖域と地上世界の現状は、その言葉を口にすることを 星矢に許してくれなかった。 どれほど動機不純でも、どれほど その価値観に難があろうとも、氷河は歴戦の勇士。 武器で倒すことのできない邪神と その邪神に従う者たちとの戦いにおいては、氷河は 普通の人間数万人に匹敵する力を有する男。かつ、小宇宙最高燃焼時には 神聖衣を現出することで黄金聖闘士をも凌駕する力の持ち主なのだ。 その上、幾多の戦いで多くの犠牲を払ってきた聖域は、現在 深刻な人材不足状態にあった。 アテナの陣営から 氷河一人が欠けることは、聖域とアテナの聖闘士の勝利の可能性が大きく減ずることと同義。 そして、それは、地上世界が邪神の手に落ちることと ほぼ同義なのだ。 アテナの聖闘士たちの主たる敵は、人間に持てる力を超越した強大な力を有する神々である。 いかに強大な小宇宙を備えていても、所詮は人間にすぎないアテナの聖闘士たちが神に勝てる可能性は無に等しい。 五人が、人間の持てる力の限界を超えて小宇宙を燃やしても、勝利の可能性は やっと1パーセントに届くかどうかという程度のものだろう。 だが、これまでアテナの聖闘士たちは、その1パーセントを諦めないことで奇跡を起こし、戦いに勝利することを続けてきた。 そして、その奇跡は 邪神に立ち向かうアテナの聖闘士が五人だったからこそ起こすことができていたのだという意識が、星矢の中にはあった。 つまり、一人でも欠けたら、奇跡に至るための1パーセントをすら形成できない――という思いが。 失恋ごときで、氷河に戦線離脱されては たまったものではなかった。 「瞬との仲がうまくいったら、おまえは これまで通りに 戦い続けることができるのかよ」 「これまで通りどころか、これまでの10倍頑張る。瞬にカッコいいところを見せたいからな。だが、瞬に受け入れてもらえないなら、そのせいで傷心消沈していることを示すために、俺はいっそ 瞬の目の前で敵に ずたずたにされて 無残な最期を遂げてしまいたい――」 「当てつけで死ぬなんて、みっともないことすんなよ、この馬鹿!」 「どうせ、俺は馬鹿だ」 氷河が いつになく 素直――むしろ、卑屈である。 氷河は こんな男だっただろうかと、星矢は 氷河の そんな様子に奇異の念を抱いてしまったのである。 氷河は これまで なぜか、常に根拠のない自信に満ちている男だった――ような気がして。 すぐに、氷河の卑屈の訳は わかったが。 「瞬はいつも俺に優しかったから、てっきり瞬も俺を好きでいてくれるのだと信じていたのに」 「瞬は誰にでも優しいだろ」 「俺には、特に優しかったんだ!」 「それは 希望的観測というやつだな。自分に都合のいい思い込みだ」 それまで氷河の繰り言を黙って聞いていた――というより、呆れ果てていた――義の男 紫龍が、冷酷に言い放つ。 氷河の青く白い小宇宙は、途端に、陽光の届かない冥界の空のように重い灰色のそれに変わった。 氷河は、要するに、自分に都合のいい思い込みで、瞬も自分に気があるのだと信じ込み、例によって例のごとく自信満々でいたのだ。 その得意の鼻を へし折られたために、謙虚を通り越して卑屈になってしまっているらしい。 氷河が卑屈になるのは構わないが、それで自暴自棄になられては、地上の平和が 覚束ない。 やはり この事態は、聖域にとっても、地上世界にとっても、地上世界の平和のために戦うアテナの聖闘士たちにとっても、放っておくことのできない重大かつ深刻な事態だった。 「困ったなー。瞬に、地上の平和のために我慢して 氷河とそういう仲になってくれって頼んでみるか?」 「それはいくら何でも卑怯だろう。地上に生きる数十億人の人間を人質にとる行為だ」 「どっかに 惚れ薬でも売ってればいいんだけど」 「ないものねだりは しても無駄だ。惚れ薬など 非現実の極み。そもそも、薬で心を操る行為に問題があるだろう」 「なら、現実的なところで、サガの幻朧魔皇拳でどうにかならないかな。目の前で 人が一人 死なない限り、瞬が氷河に惚れてるようにしてもらうとか」 「次のバトルが始まったら、速攻で 術は解けるだろうな。それ以前に、死んだ者の力を仰ぐことの どこが現実的なんだ」 「ほんじゃ、涅槃からでも飛んでこれるシャカはどうだ? シャカにさ、五感を剥奪するみたいに、瞬から“氷河を何とも思っていない気持ち”を奪ってもらうんだよ」 「あの男に、そんな器用なことができるとは思えんな。できたとしても、力を貸してくれるとは思えん。そもそもシャカは、乙女座の黄金聖衣を瞬に継がせたがっている男だぞ。そして、氷河は 奇天烈な踊りの件ばかりが知れ渡って、その実力や人品については まともに評価されていない男。こう言ってはなんだが、自分の後継者が氷河ごときと くっつくことを、シャカが喜ぶとは思えん」 “奇天烈な踊りの件ばかりが知れ渡って、その実力や人品については まともに評価されていない男”の前で、紫龍が、“奇天烈な踊りの件ばかりが知れ渡って、その実力や人品については まともに評価されていない事実”を、忌憚なく述べ立てる。 紫龍は もしかしたら、その発言に対する氷河の反発を期待していたのかもしれなかった。 否、紫龍は 期待していたわけではなく――彼は、自分が そんなことを口にしたなら、当然 氷河から その発言に対する反発があるものと信じていたのだ。 奇天烈な踊りだけの男と断じられたにもかかわらず、氷河が一言も言い返してこないことに、彼は少なからず 驚き、そして初めて 本気で現状を憂慮し始めたのである。 たかが失恋ごときで、今 地上世界は 確かに危機に瀕しているのだ――と。 氷河だけを酷評していては 氷河の落ち込みが ひどくなるばかりと、それを案じた星矢が、非難の矛先を 黄金聖闘士の方に向け直す。 「改めて考えてみると、黄金聖闘士って、どいつも こいつも使えない奴ばっかだったんだなー」 最後の審判の思想がなく、“死ねば 皆、仏”な文化圏生まれにもかかわらず、死者に対して言いたい放題なのは、星矢が 生と死の境界が曖昧すぎる古代ギリシャ世界に親しみ過ぎていたせいだったかもしれない。 だが、生と死の境界が曖昧すぎる世界で死者に鞭打つ行為は せずにいた方が無難である。 無難だったと、星矢は思った。 「我等がどうしたと?」 と、きんきらきんの鎧を身に着けた一人の男に尋ねられた時に。 |