「黄金のおっさんたちには好きにやらせとくとしてさあ。なんで、あの薬、瞬には効かなかったんだ? アフロディーテが鼻高々で自慢するだけあって、確かに超強力。つーか、劇薬なのに」 さすがに アテナ神殿を損壊するわけにはいかないと考えたのか、黄金聖闘士たちの追いかけっこは、いわゆる十二宮を競技会場と定め、熾烈かつ激烈に継続中。 結局 黄金聖闘士たちの登場は 外野の騒ぎを増やしただけで、氷河が生きる気力と戦う意欲を取り戻すことには、いかなる貢献もしてくれなかった。 黄金聖闘士たちが恋のバトルの場所を移動してくれたおかげで、元の静けさを取り戻したアテナ神殿のファサードで、下界の騒ぎを見おろしながら、星矢は 首をかしげ、ぼやいたのである。 「運命が 俺に生きるなと言っているんだ。俺はもう駄目だ」 結局、ふりだしに戻って、氷河が また鬱々とし始める。 黄金聖闘士登場前と違っていたのは、その場に瞬が戻っていること。 じめついている氷河を見やり、瞬は氷河に 心配顔を向けた。 「氷河、元気を出して。どうしたの。何か悲しいことがあったの」 「俺を好きでないのなら、優しくしないでくれ」 恋をしている男は愚かかもしれないが、恋を失った男は 更に愚かである。 気遣わしげに瞬が差しのべた手を、氷河は 素っ気なく振り払った。 氷河の振舞いに驚き 戸惑った瞬が、他の仲間たちに当惑の目を投じる。 「ぼ……僕、何か氷河の気に障るようなことをしちゃった……?」 振られた男と その男を振った人間が、これまで通りに わだかまりなく仲間や友人として接することは、不可能なことではないが困難なことだろう。 その困難なことをするつもりでいるらしい瞬に、さすがに星矢は難しい顔になったのである。 「気に障ることも何も……。おまえ、氷河を振ったんだろ。そりゃあ、氷河でも傷付くぜ。少しは氷河の気持ちを察してやれよ」 大雑把・無神経を身上にしている自分が、まさか繊細を売りにしている瞬に そんな忠告を垂れることになろうとは。 これは天変地異の前触れなのではないかと、そんなことを思いつつ、星矢は瞬に 氷河の傷心の理由を教えてやったのである。 『恋人になれないから、お友だちで』は、極めて実現の難しい行為――絵空事と ほぼ同義なのだと。 そんな星矢に、瞬が 思いがけない答えを返してくる。 「僕が氷河を振る? どうして? いつ? 僕、そんなことしてないよ?」 と、瞬は答えてきたのだ。 その答えを聞いた星矢の眉間に、縦皺が2本ほど出現する。 「でも、氷河は そう主張してるぞ。おまえに振られたから、生きてる甲斐もないし、地上の平和を守るために戦うのも嫌になったって」 まさか、瞬に振られたことが、氷河の妄想であるはずがない。 妄想行為に耽るなら、氷河は もっと楽しく いかがわしい妄想に耽るはず。 そう決めつけていた星矢に、しかし、瞬は、 「僕、そんなことしてないよ」 と、同じ答えを繰り返してきた。 「けど、氷河は――」 氷河当人が そう言っていたのだ。 そして 氷河が そんな嘘をついても、誰にも どんな益もない。 理解不能状態に陥った星矢の代わりに、氷河が――氷河も 少々 理解不能気味の表情で、瞬に反駁してきた。 「俺が デートに誘ったら、おまえは 光速で断ってくれたじゃないか。俺は そこでおまえに告白するつもりでいたのに、そんなところには行きたくないと、素っ気なく――」 「え……」 どうやら瞬には、光速で 素っ気なく氷河のデートの誘いを断った記憶がなかったらしい。 しばし何やら考え込む素振りを見せて――やがて瞬は、困惑したように氷河の顔を見上げ、見詰めることをした。 「もしかして――本格的な夏が来る前に、鎌倉の東慶寺に紫陽花を見に行こうって誘ってくれたのが そうだったの?」 「そうとも。俺は、絶対に星矢たちに邪魔されないところで、おまえが喜んでくれそうな花の名所を調べて、それこそ 俺の人生を賭けるつもりで、おまえにデートを申し込んだのに、おまえは――」 瞬は、氷河の人生を賭けたデートの誘いを光速で素っ気なく断った。 それが氷河の認識だったらしい。 氷河の認識は、もちろん事実だったろう。 だが 瞬が、氷河の人生を賭けたデートの誘いを光速で素っ気なく断ったのは、どうしても氷河の人生を賭けたデートの誘いを光速で素っ気なく断らざるを得ない事情が、瞬にあったから――だったらしい。 そして、その事情は、瞬が氷河を疎んじているからではなく、むしろ その逆だったからこその事情だったのだ。 「それは……だって……。鎌倉の東慶寺って、紫陽花で有名で、あじさい寺っていう別名があるけど、その他に縁切寺っていう別名もあるんだよ」 「縁切寺?」 「そうだよ。東慶寺は、江戸時代に 離婚したい女性が逃げ込んだ お寺で――それに、紫陽花の花言葉は 移り気とか変節とか無情とか、あんまり楽しいものじゃないし。僕、そんなところに氷河と行きたくなかったんだもの。紫陽花の名所の縁切寺でなかったら、僕、どこにだって氷河と一緒に行ったよ」 「移り気で縁切寺……」 それは確かに、恋の告白場所としては 最悪の場所である。 それ以前に、デートの場所の候補地から 真っ先に除外されるべき場所だった。 いったい どこの世界に、熱愛する恋人を『プロポーズしたいから、離婚相談所に行こう』と誘う男がいるだろう。 だが、氷河がしようとしたことは、つまりは そういうことだったのだ。 「そ……そうか! おまえが俺の誘いを断ったのは、俺が嫌いだからじゃなくて、場所がよくなかったからだったのか!」 「僕が氷河を嫌いなわけないでしょう」 「そ……そうだな。うん、それは そうだ。おまえが俺を嫌いだなんて、なぜ 俺は そんなあり得ないことを あり得ると思ってしまったんだ。我ながら、全く 正気の沙汰とは思えん」 つい さっきまで、『生きる気力も 戦う意欲もない。地上世界など滅んでしまえ』と騒いでいた男が、突然の急浮上。 “正気”が人生に絶望し 世をはかなんでしまいそうことを 自信満々で言い募りだした白鳥座の聖闘士に、彼の仲間たちは 呆れ果ててしまったのである。 「なんだよ、氷河。おまえ、失恋どころか 告白もしてなかったのかよ?」 「例によって、思い込みによる誤解だったようだな。アフロディーテの薬が瞬に効かなかったのは、あの薬の匂いを嗅ぐ前から、瞬が氷河を好きでいたからだったんだ」 「思い込みで、世界を滅ぼされたんじゃ、たまんないぜ。それじゃあ、世界も死ぬに死にきれないだろ」 「だが、まあ、これで氷河も 生きる気力と戦う意欲を取り戻してくれるだろうから」 「地上の平和は守られるし、瞬がついてれば、氷河の奇行も少しは減るだろうし、いいことづくめだな。めでたしめでたしじゃん」 ――といった調子で、事態が急転直下で 大団円に雪崩れ込んでいく。 そうとなったら、午後のお茶でも飲みながら 今後の世界平和維持計画についてのディスカッションでも始めようかと、星矢が考え始めた時。 「なにが めでたしめでたしですって」 地上世界崩壊の危機が回避されたことを喜ぶ青銅聖闘士たちの許に届けられたのは、この聖域の統治者にして地上世界の守護者たる女神アテナの威厳ある声だった。 知恵と戦いの女神の端正な顔には、こころなしか 険のようなものが浮かんでいる。 「あ、沙織さん。おかえり。今さあ、氷河と瞬がめでたく――」 「おめでたい話は、あとで結構。この状況は いったいどういうことなのか、私に説明してちょうだい。事情はだいたい察しがつくけれど――黄金聖闘士たちは、自分の恋が叶わないなら、地上の平和のために戦うのをやめると、この私を脅迫してきたわ」 「うへ」 どう見ても、アテナの機嫌は よろしくない。 アテナの怒りの報告は、能天気で名を売っている星矢の顔をも、激しく引きつらせてくれた。 恋に狂っている者たちは、恐れを知らない。 アテナに盾突くなどという行為は、理性と正しい判断力を備えた者のすることではなかった。 が、理性と正しい判断力を備えていない黄金聖闘士たちは、その恐れ知らずなことを、恐れ知らずに やらかしてくれたらしい。 アテナ神殿のファサードから眼下を見おろした青銅聖闘士たちは、十二宮の あちこちで閃光が生まれては消え、宮の柱が倒れ、宮と宮を結ぶ大理石の階段が 見る間に崩れていく様を認めることになった。 アルデバランを争って、デスマスクとミロが熾烈なバトルを繰り広げている。 そんな二人を尻目に、アルデバランはシュラを追いかけ、シュラはシャカを追いかけ、シャカは童虎を、童虎はカミュを、カミュはアイオリアを、アイオリアはサガを、サガはムウを、ムウはアフロディーテを追いかけ――アフロディーテは解毒剤ならぬ中和剤作りの作業に取りかかることもできずにいるらしい。 「だから、解毒剤のない毒薬は欠陥品だと言ったのに……」 適切な忠告は、その忠告を受ける者が “聞く耳”を持っていないと、全く役に立たないもの。 アフロディーテは、他者の忠告を聞き入れるには、あまりにも謙虚さを欠いた男だった。 「あー……うん、沙織さんが おっさんたちの言い草に腹を立てる気持ちは わかるんだけどさ。そんな 目くじら立てないでおいてやれよ。おっさんたちは どうせ死んでるんだし、千日も放っておけば、そのうち消えるだろ」 「星矢の言う通りです、アテナ。大事なことは、死んだ者たちではなく生きている氷河が戦闘意欲を取り戻し、地上の平和を守るために戦う気になったということでしょう」 死んだ黄金聖闘士12人と アテナのどちらが より恐ろしいかといえば、それは考えるまでもなく後者である。 星矢と紫龍は、アテナの怒りを静めるべく、彼女の意識を 恋する黄金聖闘士たちの上から別方向に逸らそうとした。 そして、幸いなことに、アテナは、紫龍の提出した別件に興味を示してくれたのだ。 「まあ、氷河が? いったい どういう心境の変化なの」 「もとより、俺は地上の平和を守るために戦う気満々だったんだ。愛が俺に 更なる戦う力を与えてくれたということか」 氷河自身には、アテナの気に入る話をしようという意図はなく、それは単なる のろけ話だったのだが、氷河にとっても 氷河の仲間たちにとっても幸運なことに、それは大いにアテナの気に入る のろけ話になっていた。 氷河の のろけ話を聞いたアテナの機嫌が上昇し、その口許に笑みが刻まれる。 「それは とても素晴らしいことだわ。期待していてよ、氷河」 氷河の成長振りに感動し、瞳を明るく輝かせたアテナ。 そうしてから 彼女は、常の彼女らしくなく しんみりした口調になった。 「そうね……。黄金聖闘士たちは地上の平和を守るために、自らの命を燃やし尽くして死んでいった。その務めを果たした彼等が、その命を終えた今、アテナそっちのけで恋を楽しむことを始めたとしても、彼等を責めることは、私にもできないわ」 『アテナそっちのけ』のフレーズに 少々 嫌味めいた響きはあったが、地上の平和を守るためとなれば容赦のないアテナにしては、それは破格の優しさだった。 氷河が、あくまでもアテナの機嫌を取るためではなく、のろけるために、だが、アテナの気に入る言葉を口にする。 「地上の平和を守るのは、生き残った者たちの務めだ。黄金聖闘士12人分くらい、この俺が一人でも戦ってみせる。愛が 俺に その力を与えてくれる」 翻訳すれば、『瞬にカッコいいところを見せるために、ボク頑張るよ、マーマ!』である。 自分勝手なようにも聞こえるが、おそらく氷河の考え方は正しい。 地上の平和は、地上に生きる者たちが己れの手で守り抜かなければならないものなのだ。 それが 生き残った者たちの務め、地上の平和を守るために死んでいった者たちへの唯一の鎮魂にして報恩なのだから。 「どこに逃げようと、おまえ( or 君 or あんた or 貴様)は俺( or 私 or わし)のものだぞーっ!」 「俺( or 私 or わし)に近寄るな〜っ!」 聖域の上には、抜けるように晴れあがった青い空。 その空の下には、恋に命をかける男たちの咆哮が響き渡っている。 地球を救うかもしれない愛は、戦いに傷付き 乾いた黄金聖闘士たちの心をも、優しく癒し 潤してくれるだろう。 多分、おそらく、きっと。 Fin.
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