「ええ。そういうことになっているようです」 澄んで涼やかな声は、例の豪奢な輿の中から響いてきます。 輿の脇に控えていた従者が二人、輿の左右から御簾を掲げ上げますと、その中から 一人の人間が姿を現わしました。 途端に、その場にいた幾百人もの見物人たちが一斉に地に膝をつき、額を地に押しつけます。 彼等がひれ伏した相手は、一人の少女でした。 東春国の身分の高い女性は、上衣下裳――上は 襟のある上着、下は 丈が長く裾の広がった裳――をまとうのですが、その少女は 男子が着る薄い緑色の絹の直裾袍を その身にまとっていました。 相当に高い身分の者なのでしょうが、東春国の貴族たちが――身分が高ければ高い者ほど じゃらじゃらとぶら下げる宝玉の類は一切 身につけていません。 代わりに、大粒の宝玉を千個 集めても敵わないほど美しい瞳が、その人を飾っていました。 もしかしたら、氷河も その場に叩頭すべきだったのかもしれません。 けれど 氷河は、貴人の美しい瞳に、その視線に、自分の目を射抜かれて、そうすることができなかったのです。 子供と見紛うほど 貴人の肢体は華奢でしたが、その人が子供でないことは、その目を見れば一目瞭然でした。 澄み、落ち着き、聡明の輝きを宿した瞳、眼差し。 東春国の者にしては、淡い色の髪。 肌も白く、髪同様に瞳も漆黒ではありませんでした。 全体的に色素が薄く――氷河は、この少女には 北冬国の血が入っているのではないかと思ったのです。 事実がどうなのかは わかりませんし、その推察が正鵠を射たものかどうかを確かめることには、どんな益もないことだったでしょう。 彼女は誰とも違っていました。 誰にも似ていませんでした。 彼女は、ただ彼女。 何にも分類できない人でした。 そして、とにかく 美形でした。 美しく、清楚。 瞳が大きく 可愛らしい面立ちをしているのですが、まさに その瞳の清澄と緊張感が その印象を損ね、可愛らしさより美しさの方が際立っているように見えます。 美しい瞳は、悲しんでいるような、当惑しているような――それでいて、喜んでいるようにも見える不思議なきらめきを宿していました。 氷河が自分の空腹を忘れるほどの美形。 その佇まい、印象は、滅茶苦茶 氷河の好みでした。 少女が姿を現わすまでは あれほど騒がしかった見物人たちが、今は しんと静まりかえっているのは、皆が彼女の言葉を待っているからなのでしょう。 その場に立っているのは、氷河と その少女のみ。 魂を吸い取られでもしたかのように ぽけっと その場に突っ立っていた氷河の前で、少女の美しい唇が 再び 美しい音を奏で始めます。 「この試みに 千を下らない方々が挑戦してきました。あなたが初めて成功された方です。そして、二人目はいらない」 これだけの距離を置いて 孔雀の目という小さな的を射抜くことは、並の人間には無理なことだろうと、氷河は思いました。 それから、自分以外に それができそうなのは 星矢と紫龍くらいのものだと、本当なら 今頃 この都のどこかで落ち合っていたはずの二人の友人の名と顔を思い浮かべました。 少女が『二人目はいらない』と言っていましたから、氷河は あえて、それができそうな友人たちの存在を 彼女に知らせるようなことはしませんでしたけれど。 少女が知りたいことも、この試みに成功しそうな氷河の友人の名ではなく、この試みに成功した氷河自身の名だったようでした。 「お名前は」 この澄んだ瞳の持ち主に、自分の名を知ってもらえるなんて、本当に素晴らしいことです。 氷河は感動に打ち震えながら、自らの名を その人に告げようとしました。 なのに。 その感動的な一瞬を ぶち壊してくれた者がいたのです。 氷河が少女に告げようとしていた名を、氷河より先に その場に響かせるという不粋な真似をしてくれた者が。 「氷河っ!」 それは、今日 ここではない場所で氷河が会うことになっていた人間――氷河の友人であるところの星矢でした。 氷河が美しい姫君に恭しく告げるはずだった名を叫んで、星矢が氷河の横に駆けてきます。 こんなに美しい目をした人の前で、何という無礼でしょう。 思わず むっとした氷河に、礼儀知らずの星矢が責めるように――いいえ、星矢は はっきり氷河を責めてきました。 「氷河、まさか、おまえ、孔雀の目を射たのか !? 」 「まさか? 射ちゃ悪いのか? 射ろと言われたから射たんだ」 『射ろ』と言われたから、射た。 氷河には ただそれだけのことだったのに、ただ それだけのことへの星矢のコメントは、 「この馬鹿!」 でした。 「なんてこと してくれたんだよ、この大馬鹿!」 ただの『馬鹿』でも腹が立つのに、重ねて『大馬鹿』とは。 美しい人の前で あまり見苦しいことはしたくありませんでしたが、さすがに黙っていられなくて、氷河は 星矢に噛みついていったのです。 「馬鹿とは何だ、馬鹿とは! 自分を賢い人間だとは思わんが、俺は おまえに馬鹿と言われるほどの馬鹿ではないぞ!」 「馬鹿だから馬鹿と言ったんだよ! いいから、今すぐ、この場から とんずらするぞ」 「なにっ」 星矢は何を言っているのでしょう。 氷河はまだ 孔雀の目を射抜いた褒美をもらっていませんでしたし、それ以前に、滅茶苦茶 自分好みの姫君の名前さえ まだ聞いていませんでした。 「なぜ とんずらしなければならないんだ。あの美形は誰だ」 「東春国の公主様だよっ」 「なにっ !? 」 星矢の言には、氷河も さすがに驚きました。 相当 高い身分の貴人なのだろうとは思っていましたけれど、まさか一国の公主が 平民でごった返している場所に姿を見せるなんて、普通では考えられないことでしたから。 とても驚いて――驚きはしても、とんずらなどしたくはなかったのに――氷河が 結局 美しい姫君の前から逃げ出すことになったのは、その場に いつのまにか 紫龍までが やってきていたからでした。 星矢と紫龍が 氷河の両脇を抱え、氷河に否やと言う隙も与えず、大きく跳躍。 次の瞬間、氷河の身体は 館の外庭の外に運ばれてしまっていたのです。 氷河は まだまだ――いいえ、いつまでも――あの澄んだ瞳の中の住人でいたかったのに。 ですが、さすがの氷河も、星矢と紫龍の二人が相手では 抵抗のしようがありません。 あの美しい少女が 自分を無礼な男だと思わずにいてくれればいいが――と、それを願いながら、氷河は その場から拉致されることになってしまったのです。 「おい、星矢。公主というのは――」 星矢と紫龍によって 氷河が運ばれたのは、最初に氷河が迷子になった都大路の雑踏の中。 氷河には、自分が まずいことをしたという認識はなかったのですが、それは星矢には 大いにまずいことだったらしく、雑踏の中を行く星矢の足取りは 怒りに突き動かされているかのように かなり早足。 声も、これ以上はないくらいに苛立っていました。 「公主ってのは、皇帝の娘のことだよ! そんなことも知らないのか!」 それくらいのことは、氷河だって知っています。 氷河が知りたいのは、そういうことではありませんでした。 「ただし、今生帝の娘ではなく、前帝の娘だ。名は瞬――瞬公主」 氷河が知りたいことを、氷河に教えてくれたのは紫龍で、 「ったく、なんてことしてくれたんだよ、この馬鹿!」 星矢は、いつまでも しつこく、それこそ馬鹿の一つ覚えのように『馬鹿』を繰り返すばかりでした。 |