Justice of Sanctuary






天秤座の黄金聖闘士は、聖闘士の善悪を判断する要の聖闘士と言われている。
それは、平生は武器を用いず素手で戦うことを旨とする聖闘士が、天秤座の黄金聖闘士の許しを得られた時にのみ、天秤座の武器を使用することができる――ということになっているからである。
ちなみに、当代の天秤座の黄金聖闘士の名は 童虎。
前聖戦の生き残りで、先代アテナよりミソペサメノスなる仮死の法を受けたため、年齢は260歳超。もちろん、聖闘士 最高齢。
戦いの経験、知識、まとう聖衣の性質。
双子座ジェミニのサガが偽りの教皇として聖域を支配していた際、彼に追従しなかったこと(倒そうともしなかったが)。
アテナの聖域来臨を妨げなかったこと(積極的に力を貸すこともしなかったが)。
そういった諸々の事情によって、彼は 聖闘士たちの尊敬を集めており、聖域の ご意見番的立場にある男だった。

その童虎が守護する天秤宮を 氷河が訪ねたのは、聖闘士の善悪を判断する天秤座の黄金聖闘士に 善悪の判断を為してもらう必要が生じたから――ではなかった。
では、聖域の ご意見番の意見を聞きたいと思ったからかというと、そういうわけでもない。
もし 氷河が善悪の判断や他人の意見を必要とすることがあったなら、彼は、何を置いても まず、彼の仲間たちに それを求めることをしていただろう。
嘆きや迷い、悲しみ、苦しみ、悩みや愚痴さえ、氷河は、これまで 常に仲間たちに訴え、仲間たちに癒し解消してもらってきたのだから。
今回に限って、彼が そうしなかったのは、今 現在 氷河が抱えている悩み事が 仲間たちに相談できるようなものではなかったから。
氷河が抱えている悩みというのが、そもそも 彼の仲間たちの是非に関することだから――だった。

――のだが。
天秤宮で氷河を迎えた童虎は、今は 18歳の青年の姿をしている。
ミソペサメノスの法を受け 老人の姿をしていた時には、聖闘士たちの最長老として、それなりの重厚さをたたえていたのだが、ミソペサメノスからの脱皮を果たした現在の童虎の佇まいには、 今一つ 威厳や慎重さというものが感じられない。
その様子を見た氷河は、中身はともかく 外見は ただの青二才にすぎない童虎に 自らの悩みを告げることに、少しばかり――否、大いに――躊躇を覚えたのである。

「俺は、童虎ではなく、老師に相談事があるんだ。縮むことはできないか」
「無理を言うものではない。一度 伸びてしまったゴムや蕎麦は、再び 縮むことはできないものじゃ」
氷河の要望を、『実に全く、ごもっとも』と応じるしかない理屈で、童虎が拒否してくる。
仕方がないので、氷河は、
「しおれたレタスは ぬるま湯につけると 新鮮さを取り戻すと、紫龍が言っていたが」
と、およそ どうでもいいことを口の中で呟いて、現状を受け入れることにした。
氷河の呟きを聞いて、童虎が珍妙な顔を作る。

「紫龍から、おかしな男だとは聞いていたが……。おぬしの相談事とは何じゃ」
青銅聖闘士が どれほど“おかしく”ても、黄金聖闘士ほどではないだろう――という言葉を、氷河は無理に喉の奥に押し戻した。
一応 自分は 悩みを相談するために天秤座の黄金聖闘士の許にやってきたわけで、その悩みを打ち明ける前に 彼の機嫌を損ねるのは、どう考えても賢い振舞いではない。
そう判断して、氷河は童虎の言を聞かなかったことにし、彼の天秤宮訪問の目的を果たすための作業に取りかかったのである。

「俺の相談事は、あなたの弟子、紫龍にも関わることだ」
「紫龍に? 紫龍が何か しおったか。あれは、我が弟子ながら、少々 生真面目に過ぎ、かなり頑固で融通のきかないところがあっての。一度 こうと決めたら、滅多に その考えを変えんので、わしも困っておった」
「……」

もし弟子に欠点があるのなら、そして、仮にも その弟子の師匠なら、呑気に困っていないで 弟子の欠点を直すよう指導すればいいではないかと、氷河は思ったのである。
氷河も融通の利かない師匠を持ち、そのために とんでもない目に会わされていたが、弟子の身で 師を指導するわけにはいかないので、忍の一字で その状況に耐えてきた。
指導矯正できる立場にあるにもかかわらず、それをしないのは単なる怠惰だろう――というのが、氷河の率直な意見だった。
無論、言葉にはしなかったが。

とはいえ 氷河は、青銅聖闘士の身で黄金聖闘士に意見するなど おこがましい――などということを、謙虚かつ殊勝に考えたわけではない。
彼は ただ、そんなことをすると 面倒な事態が現出することを知っていたのだ。
どれほど “おかしい”男でも、童虎は黄金聖闘士。その小宇宙は強大。
迂闊なことを言って、臍を曲げられても困る。
氷河は、面倒事を相談にきて、新しい面倒事を 背負い込む愚は犯したくなかった。
そんな氷河の沈黙に乗じて、童虎が 彼の不満を洩らし始める。

「紫龍は、酢豚にパイナップルを入れるのじゃ。なんでも、パイナップルには、プロなんとかという 肉をやわらかくする酵素が含まれているとかでの。その酵素が酢豚の肉を やわらかくするのだと言って、紫龍は必ず酢豚にパイナップルを入れる。だが、わしは 酢豚のパイナップルが大嫌いなのじゃ。だから何度もやめろと言ったのだが、紫龍は どうあっても聞き入れない。あの頑固さには、わしも ほとほと手を焼いておる」
「……」

そんなに嫌なら、紫龍に作らせず、自分で作ればいいのに。
そもそも黄金聖闘士が酢豚のパイナップルごときで ぐだぐだ言うな。
――と、もちろん、氷河は言葉にはしなかった。
どれほど “おかしい”男でも、童虎は黄金聖闘士。その小宇宙は強大。
迂闊なことを言って、臍を曲げられても困るのだ。
氷河は、面倒事を相談にきて、新しい面倒事を 背負い込む愚は犯したくなかった。
が、あいにく 氷河は もともと自分の感情を隠すのが苦手な男。
言葉にしなかった思いが、もろに 顔に出てしまったらしい。
そして、光速の拳を見切る目を持つ黄金聖闘士は、それを見逃さなかった。

「何じゃ、氷河。その顔は」
「いや……。酢豚のパイナップルね。それは確かに重大な問題だ」
それでも 氷河は、年長者を立てる儒教精神を発揮すべく、努力はしたのである。
しかし、どうしても、その声音、眼差しに、侮りの響きと色が にじんでしまう。
童虎が 僅かに眉をひそめる様を見て、氷河は慌てて、だが さりげなく、話を逸らした。

「我が師カミュも、一度 こうと決めたら、意地でも節を曲げない男だ。だから老師の苦衷は よくわかる。カミュは、『悪法も法』というか、『暗君にも忠義は尽くすべき』という思想の持ち主で――おかげで俺はカミュに殺されかけた。その節は、この天秤宮に大荷物を放置することになり、老師にも迷惑を おかけした。心から謝罪する。カミュは、悪意はなく、悪事はしないが、自覚なく周囲の人間に迷惑をかけるタイプで――黄金聖闘士は、小宇宙は強大なのかもしれないが、必ずしも人徳者というわけではないんだな」
それは、自分の師匠を だしにした童虎への皮肉だったのだが、はたして その皮肉は童虎に通じたのかどうか。
天秤座の黄金聖闘士は、その判断が極めて難しい反応を示してきた。
彼は、氷河の皮肉を聞くと、実に屈託なく、声をあげて笑い出したのだ。
そして、
「はっはっはっ。黄金聖闘士が 人徳者のはずがあるまい。黄金聖闘士で人徳者と言えるのは、せいぜいアルデバランくらいのものじゃ。他は、どいつもこいつも半分は狂人だな」
と言った。

「わかっているなら いい」
天秤座の黄金聖闘士の言う『どいつもこいつも』に、童虎自身は含まれているのか否か。
確認を入れると面倒なことになるのは、火を見るより明らか。
黄金聖闘士に比べれば賢明な氷河は、もちろん 余計なことは言わなかった。
これ以上の脱線はご免被りたかったから。






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