もう この店には来ないつもりでいるのなら、それでいい。 それは大いにあり得ることだと思う。 自分が本当に復讐したかったのは、兄を誤解し、その愛情を信じることができず、兄を憎んでさえいた自分自身だったことに気付き(気付かされ)、その事実を 仇と狙っていた者たちの前で認めることをした、アイザックの弟。 あの若造は もう兄の命を奪った男にも、その男を庇う恋人にも用はないのだ。 当然、この店に来る必要もない。 それなら それでいい。 だが、そうではなく、イズマイルが ただ迷っているだけだったなら――。 自分の復讐の真の意味に気付き、そのことによって自分の弱さや怯懦を自覚し、立ち直ることができず、次の一歩を踏み出せずにいるだけだったなら、それは あまり好ましいことではない。 いっそ 蘭子にでも頼んで あの男の居場所を探り出し、様子を見にいってみるか――。 すべては あの若造の心の中の問題とはいえ、あの男を兄の復讐という行為に駆り立てた そもそもの原因は、白鳥座の聖闘士が その兄弟子の命を奪ったことなのだから。 氷河が そんなことを考え始めたのは、それまで2日と置かずに店に来ていたイズマイルが、あれ以来 氷河のバーに姿を見せなくなり、姿を見せないまま10日近くの時間が過ぎたから。 何より、瞬が イズマイルの身を案じているからだった。 言葉にはしないが、酒に弱い瞬の仲間の店への来店の頻度が増えたのは、ここに来れば、イズマイルに会えるかもしれないと期待してのこと。 瞬といられる時間が増えるのは有難いことなのだが、その理由が“他の男の身を案じて”なのでは、素直に喜ぶこともできないではないか。 “元凶は自分”という自覚があるだけに、氷河の心情は複雑だったのである。 そんなある夜のこと。 氷河の店に、瞬以外の非一般人がやってきた。 それは残念ながら、瞬と氷河が期待していた準一般人ではなく、完全完璧に一般人ではない男――彼等の長髪の仲間だった。 「イズマイルのことは もう心配しなくていいって、どういうこと」 紫龍の話の内容はともかく、彼がイズマイルの話を切り出してきたことに 瞬が驚いた様子を見せなかったのは、アクエリアスの氷河を仇とつけ狙う男のことを、瞬が仲間に相談していたからなのだろう。 紫龍は その辺りの経緯の説明は省いて、結論だけを仲間たちに伝えてきた。 「俺が、死ぬだの殺すだのという奴の物騒な考えを消して、簡単お手軽な解決方法を教えてやったんだ。しばらく日本に居座ることにしたというので、そっちの世話もいろいろ。そろそろ一段落ついて、ここに顔を出す頃だろうと思って、来てみたんだが」 普段は紹興酒と中国茶の男がシャンパン・カクテルをオーダーしてきた時点で、氷河は既に嫌な予感に囚われていたのである。 アクエリアスの氷河と違って、いかにも誠実そうな印象。 実際に誠実で律儀でもあるのだが、この男の誠実は、いつも ろくなことにならない。 その誠実な男が、楽しそうに笑っているのだ。 氷河は、自分の中に生まれてくる不吉な予感を、どうあっても消し去ることができなかったのである。 そして、案の定。 「お、来たな」 バーのドアを開け、店内に入ってきたのはイズマイルだった。 2週間振りの来店である。 カウンター席で、悪魔のような黒髪の男が 人を食ったような微笑を浮かべているのを認め、彼は 驚いたように二度ばかり瞬きをした。 「あんた、氷河と瞬の知り合いだったのか」 「名乗らなかったか? 俺は黄金聖闘士。ライブラの紫龍だ」 紫龍の名乗りに イズマイルが あっけにとられたところを見ると、紫龍は 自分が何者であるのかを知らせずに、イズマイルの日本滞在のための世話(?)をしていたらしい。 「紫龍、イズマイルに いつ会ったの。どうして僕に知らせてくれなかったの」 「つい先日。手っ取り早く 氷河に復讐する方法を教えてやった。そのコツも色々と伝授してやったぞ。おまえに知らせるのは、すべてが丸く収まってからの方がいいだろうと思ってな」 異様なまでに 義にこだわる四角四面な堅物が 丸く収めた結末が 綺麗な円を描いているはずがない。 カウンターの中で、氷河は紫龍の笑顔の あまりの不吉に 頭痛を覚え始めていた。 氷河の悪い予感通り、紫龍の丸は 四次元五次元の世界で描かれた円のように歪みまくっていた。 「瞬。あんたが俺と寝てくれたら、俺はアイザックの命を奪った男への恨みを忘れてやる。そして、前向きに建設的に生きるための努力をする」 「え……? あ……ええっ !? 」 氷河の怒りは、もちろん イズマイルではなく紫龍に向けられた。 他に客もいたのだが、すべてが氷河の意識の外に飛んでいく。 それでも小宇宙は燃やさずに、氷河は紫龍の前のカウンターに派手な音を立てて 両手を叩きつけたのである。 氷河の反応は想定内のものだったのだろう。 紫龍は、ただの1ミリも動じた様子を見せなかった。 「氷河を へこましてやりたいのなら、瞬を寝取るのが 最も手っ取り早くて効果的だと 教えてやったんだ。黄金聖闘士と戦い 倒すより、その方が はるかに容易だろう。瞬は同情心に篤くて、泣き落としに弱い。その上、そんなものを感じる必要もないのに、昔 キグナス氷河がしでかしたことに負い目を感じている。付け入る隙は いくらでもある――とな」 「紫龍……」 「紫龍、貴様……」 こんな男が天秤座の黄金聖闘士――聖闘士の善悪を判断する天秤座の黄金聖闘士なのだ。 氷河は 聖域の未来に滅亡の影をしか見い出せなかった。 だというのに、紫龍は、どこまでも あくまでも誠実と正義を体現する人間のような顔をし続けるのである。 「愛は憎しみに勝る。愛の勝利こそ、最高の勝利。アテナの聖闘士としては、文句なしの大団円だろう。我ながら、いい仕事をした」 「何が いい仕事だっ! 紫龍、外に出ろ! そこの身の程知らず! 貴様もだっ!」 滅多に感情を表に出さない この店のバーテンダーの剣幕に、一般人の客たちが目を剥いている。 紫龍は、だが、アクエリアスの氷河の本気の怒りにも、いささかも動じた様子を見せなかった。 「イズマイル。よかったな。これで おまえが怪我でもしたら、瞬が優しく おまえの手当てをしてくれるぞ」 「瞬っ、本当かっ」 「そ……それは、もちろん……するけど……」 「うぬぅ……」 紫龍が 鮮やかにアクエリアスの氷河の攻撃をかわし、防ぐ。 ライブラのシールドは、ドラゴンの盾以上に強固鉄壁。 氷河は、退くもならず、進むもならず――つまり、手の打ちようがなかった。 そんな氷河とは対照的に、氷河に勝っても負けても いい方にしか転ばないイズマイルは 余裕の笑みを浮かべている。 聖闘士でないイズマイルでさえ、そうなのだ。 黄金聖闘士の紫龍の余裕は、それこそ無限大レベルの広大さだった。 「氷河。悪く思うなよ。地上の平和を守るのが、俺の務めなんでな」 氷河の未来には暗雲が立ち込めているが、地上の未来は明るい。 アテナの聖闘士がいる限り、地上の平和は、否が応でも、是が非でも、永遠に守られることになりそうだった。 Fin.
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