「こいつ、氷河っていうんだっけ? 氷河もアテナも、なんか 二人共、いろいろ間違ってると思うんだけど……」
「氷河。怒鳴りたい気持ちは よくわかるが、こちらは なんと、オリュンポス12柱の1柱、知恵と戦いの女神にして文芸の守護者でもあるパラス・アテナで――」
「嘘をつくな! アテナは潔癖で聡明な知恵の女神。しかも処女神だぞ! アテナが、俺の瞬に手を出すような、こんな図々しい女のはずがない!」
「まあ、言ってくれるものだこと。図々しい女神と、馬鹿で冷酷な人間の男とでは、いったい どっちがましかしら」
「氷河。おまえが そう思う気持ちは大いにわかるんだが、事実は事実だ。ここは退け」
「神様ってのは、綺麗なもんが好きなんだよ。人間のオトコごときが アテナに盾突いても、まず勝ち目はないから諦めろ」

アテナとアテナのお供の者たち(?)は、この場を治めようとしているのか、逆に 氷河を挑発し煽っているのか。
瞬には、それが どうにも判断しきれなかった。
「邪魔者が10日間は確実に瞬の側から消えると思って、勇んで瞬を口説きに やってきたのに」
「まあ、こいつも 記憶の女神の力に頼って 腑抜けになるほどの馬鹿でもなかったってことだろ」
「うむ。氷河は ぎりぎりのところで、忘れないことを選んだ。瞬にとっても 氷河にとっても、これが最善の結末。アテナにとっても そうでしょう」
瞬の混乱は なかなか治まらなかったのだが。
アテナのお供の者たちの 言葉を聞いているうちに、瞬にも 徐々に彼等の目的が わかってきたのである。
彼等は、この場を治めることは考えていないのだ。
彼等の軽口の第一の目的は、この場を治めることではなく、アテナの機嫌をよくすること。
そして、氷河が 今 この場にいることの意味を、瞬に知らせることだった。

「氷河……」
なるべくアテナの機嫌を損ねないように静かに彼女の腕から逃れ、瞬は、なぜか今 ここにいる氷河を見詰めた。
なぜか今 ここにいる氷河が、瞬の視線に気付き、少し気まずそうな笑み(のようなもの)を その顔に浮かべる。
「エレウテールの丘に向かう道の傍に小さな花が咲いていたんだ。小さな おまえに初めて会った時、摘んでやったのと同じ花だ。そして、あの時、微笑む おまえに『ありがとう』と言われた時の嬉しさを思い出した。このまま歩き続けたら、俺は あの時の嬉しさも忘れてしまうんだと思ったら、記憶の女神の力が 憎むべきものに思えてきて――。おまえが側にいてくれたから、俺は これまで どんなことにも耐えてこられた。これからも、どんなことにも耐えていけるに決まっている。そう思って、その場で回れ右。やってきた道を、そのまま引き返してきたんだ。引き返してきてよかったぞ。俺が ちょっと目を離した隙をついて、こんな毒虫が 俺の瞬に――」
「毒虫? この辺りには、そんな危険な虫がいるの? いやだ、恐いわ。金色の馬鹿虫の方が はるかに恐いけど」
「氷河……アテナ……」

氷河は、どうしても気まずさが先に立って、真面目に決めることができないらしい。
アテナは、機嫌を損ねた振りをしているが、その瞳は笑っている。
お供の(?)二人も、アテナの不機嫌振りを楽しんでいる ふしがある。
それよりも 何よりも。
氷河は、忘れないことを選んだ。
憶えていることの方を選んだ。
そして、“瞬”と共に生きることを選んでくれたのだ。
瞬は、今なら、アテナが言っていた“もっと つらい目”など、容易に乗り越えられるような気がした。
“もっともっと つらい目”も“もっともっともっと つらい目”も。
瞬は 一人ではなかったから―― 一人にならずに済んだから。

「アテナ! アテナ、僕を お連れください!」
明るい瞬の決意と訴えに、アテナが一層 明るい声で応じてくる。
「氷河も一緒に“お連れ”してあげるわ」
「はい!」
瞬とアテナに 勝手に道を決められてしまった氷河が いかなる異議も唱えなかったのは、二人の決定が氷河の望みに合致したものだったから――だったろう。
瞬の望むことは、氷河が望むことでもあった。
だが、それよりも何よりも。
今の自分が 瞬の決定に 偉そうに異議を唱えることなどできない立場にあるということを、氷河は十二分に承知していたのだ。
つまり、自分の浅はかな振舞いが瞬を悲しませた事実を、氷河が正しく重く記憶していたから。

恋は、記憶の積み重ねである。
それは、様々な色の思い出の積み重ねが作るもの。
恋を成就させることは、記憶力が欠如している男には 極めて難しい。






Fin.






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