ともかく、そういうわけで凍死も餓死もせずに済んだ俺は、翌日、城の図書室に案内された。 「もし、あなた様が、こちらの城に行くようにとしか言われていなかったのでしたら」 と言って、執事が俺の前に書類の束を差し出してくる。 それを読んで、俺は この城の おおよその事情を理解した。 書類に記されていた年号は、1589年。 文章は、古語といっていいようなロシア語とスウェーデン語。 あとで気付いたんだが、執事は、俺が その書類を読めたから(= 文字を読めたから)、その時に、俺を王侯将相に類する人間だと(= 庶民ではないと)判断したらしい。 文字を読めるから貴族だと断じることができるくらい、この国は――この辺りの人間は――識字率が低いということだ。 俺は、その時 それを奇妙なことだと感じたようだったが、なぜ奇妙と感じたのか、その理由を考えることはしなかった。 まあ、そういう状況で、さしあたって問題にしなければならないのは、わからないことより、わかったことの方だから、俺は優先させるべきことを優先させたんだろう。 執事に差し出された書類を読んで、俺に わかったこと。 それは、何というか―― 一言で言えば、実に呆れた話だった。 ここは、ロシアとフィンランドの国境地帯。 そして、この城は、独立した主権を持つ小さな国。 この付近が、ではない。 この城が、一つの国なんだ。 それも永世中立国だ。 建国は、1589年。 もともとの原因は、この地方に成った幾つかの小国が――北欧はどこもそうだが――フランスやオーストリアのように絶対王政化が うまくいかなかったこと。 君主の権力権威が脆弱で、王室は いつ倒れてもおかしくない。 実際に、内乱で統治者が変わったり、選挙君主制を採ってみたり、複数の小国が同君連合を結んでみたりと、様々なやり方を試してみたんだが、政局は全く落ち着かなかったらしい。 あまりに不安定な状況に 各小国の君主たちは不安を抑えられなくなり、事前に、自分たちが失脚した時の逃げ場所を作っておくことを考えた。 内乱等で、自分たちが君主の座を追われた時に逃げ込む場所を――王族だけが知る避難場所を作ったんだ。 国民にも臣下にも知らせず、当時の各国の君主と その家族だけが知る避難場所を。 建国資金は、もちろん 各国の国庫からの持ちよりだ。 その趣旨に賛同して資金を出した国は6つ。 6つの国の当時の君主たちは、たとえ政情が変わって 互いに敵対し合うことになっても、この超小国の中には 決して外の事情を持ち込まないという密約を結び、その時以降ずっと この小国の維持費を出し合い続けてきたらしい。 そして、この超小国は、これまでに 実際に幾度か その機能を果たしてきた。 某国の君主が王位を追われ 国外への亡命を余儀なくされた際、亡命前の数ヶ月を ここに身を潜めて過ごしたとか、家臣のクーデターで居城を捨てざるを得なくなった君主が しばらく この城に潜伏しているうちに状況が変わって 元の地位に返り咲いたとか、そんな記録が幾つか残っていた。 これは、あれだな。 日本の戦国時代、下剋上が決して非難されるばかりのことではなかった頃、万一の時のため、戦国大名たちが共同出資で、武力不可侵の避難場所になる寺を極秘に管理運営していたようなもの。 日本に 実際に そんなものがあったのかどうかは知らないが、そういうイメージ。 この城に落ちのびてくる者がいたら、それは それなりの大名――いや、王侯貴族のはず――という理屈だ。 つまり、俺は そう思われているんだ。この城の者たちに。 どこぞの国の王室の一員。 失脚したことは公開できない情報だから、あるいは 自慢にならないことだから 黙っているのだと。 政情が不安定な国の王室や宰相が、万一の時のために 資産を国外に移しておくってのは よくあることだから、これは驚くに値しないことなのかもしれない。 各国君主たちの共同出資というのは特筆すべきことかもしれないが、自分が必ず失脚するとは限らないんだから、この制度を一種の保険と考えて資金を分担し合うというのは 経済的な やり方なのかもしれん。 ――と、俺は各国の君主たちの用心深さに感心し、だが、すぐに、これは のんきに感心している場合じゃないということに思い至った。 そうとも、のんびり 感心している場合じゃない。 おい。いったい 今はいつだ? 冬だってことはわかるが、時代は。 俺は記憶がない。 気付いたら、ここにいた。 自分の名すら憶えていない。 もちろん、自分が何歳なのかもしれないし、いつ生まれたのかも知らない。 それこそ、16世紀に生まれたのか、17世紀に生まれたのかすら。 俺は、今 ここにいていい人間なのか? まるで自信が持てないんだが。 自分が何者なのか わからないという状況は、途轍もなく不安なことだ。 ちょっと力が加わっただけで千切れ 谷底に落ちてしまうような頼りない吊り橋の上にいるような心地がする。 真実を言わずにいて誤解させておいた方がいいと わかっているのに(無論、それは誤解じゃない可能性もあるが)、自分が記憶を失っていることを俺が正直に あの小間使いに打ち明けたのは、その不安のせいだったろう。 俺は、俺が 今ここにいるべき人間じゃないような気がして――その気持ちが異様に強かったんだ。 俺は何も憶えていないっていうのに。 俺は自分が何者なのかを全く憶えていないと あの小間使いに告げたら、彼女は 驚いた様子もなく(多少は驚いたのかもしれないが)、事もなげに言ってくれたんだ。 それは大いに あり得ることで、さほど不思議なことではない――と。 この地方は、北欧の神々や冬の魔物が あちこちに潜んでいる場所。 死せる戦士たちが甦るエインヘリヤルや、様々な幻影が人心を惑わすフィンブルの冬。 そんなふうな様々の伝説があるし、真面目に それを信じている年寄りたちも多いのだと。 「吹雪や白夜や極夜が 人の感覚を狂わせて、錯覚させるらしいの。あなたが記憶を失ったのも、多分、雪と氷以外 何もないところに長くいたせいで 感覚が狂って、いろんなことが混乱してしまったんでしょうね。でも、とにかく このお城に行かなきゃならないっていう強い意識があって、それで あなたは ここに来たのよ。あなたは どこかの国の王子様なのに違いないわ」 俺は自分が何者なのかが わからなくて、今にも谷底に落ちそうな吊り橋を渡っている気分でいるっていうのに、俺を知らない 俺じゃない人間が 確信に満ちた目をして、俺が何者なのかを決めつけ語る。 奇妙な逆転現象を作り出している彼女の前で肩をすくめ、俺は、 「それは考えられないな」 と、彼女の決めつけを やんわりと否定した。 小間使いは、俺の反駁に 更なる反駁で応じてきたが。 「どうして? こんなに美しいのですもの。それは あり得ないことじゃないでしょう」 俺を どこぞの国の王子と信じているにしては――今ひとつ、王侯への礼儀を知らない女だ。 “王子様”に意見するのか、この小間使いは。小間使いの分際で。 彼女は、この城に務めるようになって まだ日が浅いんだろうな。 どこぞの国の王子様(かもしれない男)に初めて出会って 浮かれているんだ。 「このお城の存在を知っているのは、父祖に一国の君主がいた人だけなんだもの。あなたが王子様なのは間違いないわ」 小間使い様は確信に満ちた態度で そう言うが――俺は この城のことを知っていて、この城を目指して やって来たわけじゃないんだ。 自信満々で 彼女に そんなことを言われるほどに、俺の中では、『彼女は誤解している』という意識が強まっていった。 俺は 俺が何者なのかを知らないのに――俺という人間の正体を知らないという点では、彼女と大同小異の立場にいるというのに、それでも。 「俺は、こんな大層なベッドじゃなく、暖炉のないボロ家の硬く冷たい床の上でも寝られるし、野宿も平気だ。王子様ってのは、ふかふかのベッドでしか寝れないもんだろう」 「あら。戦場に出る王子様なら、野外に張ったテントの中で 夜を明かすこともあるでしょう。戦場に寝台まで運ぶ王子様や王様もいるかもしれないけど、それは持ち運びが容易な簡便なものでしょうから、硬いベッドが平気だってことは、あなたが王子様じゃないことの証左にはならないわ。ここのベッドが やわらかすぎて眠れないというのなら、そういうベッドで休んだことのない庶民ってこともあるかもしれないけど――そうなの?」 「……そういうわけでもないが」 彼女は もしかしたら、ろくな話し相手もいない 人里離れた この城で、いつか この城にやってくる王子様の姿や境遇を あれこれ思い描きながら 日々を過ごしていたのかもしれない。 この城が王族の避難場所だというのなら、ここに やってくる王子様は、陰謀や反逆や――何らかのドラマを経て ここにやってくるわけだし、さぞかし妄想のし甲斐もあっただろう。 俺が正直に答えると、彼女の舌は、我が意を得たりとばかりに 一層 なめらかになった。 「なら、あなたは 戦場にも出る勇敢な王子様なのよ。冒険好きの王子様ということも考えられるわね。でなかったら、悪い大臣の陰謀で お城を追われて庶民の暮らしも経験済みの王子様。それで、身をやつして やっと この城に辿り着いたのよ」 「家臣の陰謀にも気付かない能無しということか」 「でも、最上の暮らしと最悪の暮らしの両方を知っている人って、そういう状況に置かれたことのある人以外には考えにくいでしょう? 最悪の暮らしは誰にでも経験できるけど、最上の暮らしは そうはいかない。私なんか、多分 この部屋のベッドでは 落ち着いて眠ることはできないわよ。身体が ニヴルヘイムの底の底にまで沈んでいきそうで恐いもの」 彼女の唱える理屈は それなりに筋が通っているように聞こえるが、その実 どこもかしこも綻びだらけだ。 たとえば 彼女は――この城で働いている者たちは――その気になれば 最上の暮らしと最悪の暮らしの両方を容易に経験することができるだろう。 主が いつやってくるか わからない城で、主のいない間に好き勝手をしていればいい。 彼女は、自分がベッドメイクをしているベッドを自分自身で使ってみればいいんだ。 それで、王侯が使う最上のベッドと庶民のベッドの寝心地の両方を知る冒険好きの お姫様の出来あがりだ。 彼女がそうしたところで、どこからも文句は出ないだろう。 それを咎める城の主は、この城にはいないんだから。 にもかかわらず 彼女は、自分は こんなベッドでは眠れないと言う。 つまり、彼女は、この城の主がいないのをいいことに、この城でお姫様のような暮らしをする――ということをしたことがないんだ。少なくとも、これまでは一度も。 彼女は、いつ使う者が現われるかわからないベッドや寝具のメンテナンス(だけ)を、生真面目に続けてきた。 要するに 彼女は、礼儀作法は知らないが、自分の使用人としての分は わきまえている人間だということだ。 彼女の正直と誠実に、俺は好意を抱いた。 お世辞にも美人とは言えないが――いや、言おうと思えば言えないこともないか? うん、とにかく、まあ、素朴で正直な様子をした いい子だ。 彼女の職務への誠実な態度に免じて、俺は、夢見がちな彼女の お喋りに耐えてやることにした。 |