「僕……やっぱり 死ぬのかな……」 瞬が虚空に向けて呟いた呟きに、氷河は ぎょっとしたのである。 それは、つい先ほどまで アテナの聖闘士たちの死ななさ振りについての話を 微笑んで聞いていた瞬が 口にしていい言葉だろうか。 最初、氷河は それを何かの聞き間違いだと思ったのである。 アテナの聖闘士は、その戦いを続ける限り、常に死と隣り合わせ。 氷河とて、戦いで命を落とす覚悟は常に その胸中に抱いていた。 が、同時に 彼の胸には、その覚悟と同じくらい強い“死なない覚悟”もあったのだ。 それは瞬も同じだろうと、氷河は思っていた。 死の覚悟と 生の覚悟。 その二つの覚悟を、常に同じ強さ、同じ重さで 抱いているのがアテナの聖闘士というものだろうと。 「ただ死ぬだけなら いいんだけど……普通に死ねるのなら いいんだけど……」 晩夏の晴れた日の夕刻。 誰が植えたのか ローズマリーが枝葉を大きく広げている城戸邸の裏庭には、聞き間違いを誘うような風は吹いていない。 それは 聞き間違いでも、空耳でもない。 瞬は 確かに そう言ったのだ。 自分は死ぬ――死ぬかもしれない――と。 聞き間違いでないのなら、瞬のその独り言は、氷河には聞き捨てならないものだった。 「おまえは何を言っている。おまえが死ぬなど、そんなことはあり得ん」 ローズマリーの枝を脇に押しのけて 瞬の前に立った氷河は、『そんなことは許さない』という言葉を続けようとした。 その言葉を、声にする直前で喉の奥に押しやる。 瞬の様子が いつもと違うことを気にして、氷河は ストーカーのように こっそり瞬のあとをつけてきたのだ。 その上、盗み聞き。 今の彼は、あまり堂々と瞬の独り言を咎められる立場になかった。 「氷河……」 幸い、氷河の姿を認めても、瞬は 仲間の盗み聞きを責めるようなことはしなかった。 逆に、独り言を盗み聞かれた瞬の方が気まずそうな表情を浮かべる。 まるで 悪いことをしたのは自分の方だと思っているかのように。 仲間の名を呼び、その顔を見上げてくる瞬の瞳は 悲しげに沈んでいて、氷河が洩れ聞いた瞬の独り言が聞き間違いでも冗談でもなかったことを、氷河に知らせてきた。 「あ……」 瞬は、笑って その場を ごまかそうとした――ようだった。 だが、思い直したように、瞬は 作りかけた笑みを消した。 そしてまた 独り言のように、 「氷河なら、僕を救うことができるかもしれない……」 と呟く。 瞬が死ぬことなど あり得ないし、もし あり得たとしても、そんなことは許さない。 氷河の その考えと気持ちに変わりはなかったが――変わりがないからこそ――もし本当に そんなことがあり得るのなら、もちろん 氷河は 全力をもって その事態を阻止したかった。 白鳥座の聖闘士に その力があるのなら、もちろん その力を駆使する。 「どういうことだ。いったい なぜ、おまえは そんなあり得ないことを考えている」 瞬は、生死に関わることで冗談を言うような軽々しい人間ではない。 瞬が自分の死が間近に迫っていると言うなら、それは実際に間近に迫っているのだ。 『いったい なぜ』と、氷河は瞬に問うた。 瞬は しばし ためらいの色を見せ、だが やがて、瞬が自らの死を案じることになった経緯を 白鳥座の聖闘士に語ってくれたのである。 力なく静かな口調で。 しかし、後悔の響きはない声で。 「あれは、ちょうど10年前――僕たちが それぞれの修行地に送られる日のことだよ。午後になりかけてたかな。僕、やっぱり ここにいたの。あの日も こんなふうに晴れていた。ここのローズマリーは、もっと うんと背が低かったけど。子供だった僕の膝までの高さもなかった」 その頃 瞬の膝にも届いていない“草”だったローズマリーは、今は樹高1メートルを超える“木”になっている。 その成長を喜ぶように、瞬は、今は緑の小山を成しているローズマリーの木を見やった。 「僕は、兄さんや みんなと離れて一人になるのが心細くて――ううん、不安だったんだ。変だね。あの時、僕は、自分が死ぬかもしれないなんてことは考えていなかった。僕は、みんなが死んでしまって、それで みんなに二度と会えなくなることを恐れていたんだ。僕より みんなの方が強かったのに、あの時、僕は、自分が死ぬ可能性なんて微塵も考えていなかった」 その時の自分を訝るように、そして切なく懐かしむように、瞬が ローズマリーの細い枝を1本、その手の平に載せる。 「兄さんの、絶対に自分を曲げない激しさ。走り出したら 立ち止まることを知らない星矢の無鉄砲。正しいと信じたら、決してその道を逸れない紫龍の生真面目。それから、氷河が……氷河がマーマを――死んでしまったマーマをとても愛していること。その一途。僕は、みんなの そういうところが好きだったけど、僕が みんなを好きな理由が、そのまま みんなを死に追いやる原因にもなり得ることに気付いて、それがとても恐くて不安だったんだ。僕の仲間たちは みんな、僕より強いけど、でも、だから、恐れることなく 大人にだって食ってかかっていく。決して、自分の心を偽らない。自分が信じるものや大切なもののためなら、絶対に逃げずに真正面から立ち向かっていく。自分の欲しいものを まっすぐに求めていく。そんな氷河たちが、僕は本当に心配だったんだ。心配で、泣き出してしまった」 「……」 同じ頃、瞬の仲間たちは、瞬の弱さと優しさを心配していた。 おそらく、誰も、自分が瞬に心配されているなどということは考えてもいなかっただろう。 あれから10年が経った今になって 初めて知らされた その事実の あまりの意想外に、氷河は半ば呆けていた。 「どうしよう、みんなが死んでしまったら どうしようって、僕が泣いてたらね、どこからか 声が聞こえてきたの――誰かが僕に訊いてきたんだ。『みんなを死なせたくないの? みんなに、生きて、もう一度 会いたいの?』って」 「……」 10年前の その時にも、おそらく この裏庭には 聞き間違いを誘うような風は吹いていなかっただろう。 瞬は、その声を確かに聞いたに違いない。 だが、それは誰の声だったのか。 氷河が最初に思ったのは、それが冥府の王のものだった可能性だった。 瞬の身体を自らの魂の器として使い、この地上世界を死の世界にすることを企んだ死者の国の王。 声の主は あの男だったのではないかと、氷河は思ったのである。 瞬は、そうは思っていないようだったが。 「声の主の姿は見えなかった。でも、優しい声だったよ。優しい声で、とても冷酷なことを言った。『そうね。きっと、あなたの仲間たちは幾度も死に直面する』って」 誰のものとも わからない声の語る未来を聞いて、瞬は、 『どうしたらいいの。僕たちはみんな ばらばらになるの。僕はもう、みんなを守ってあげられないのに』と、嘆いたのだそうだった。 瞬は、 「氷河、笑わないで。僕は……それまで、僕が みんなを守っているつもりでいたんだ」 と、切なげな目をして、氷河に訴えてきた。 氷河は、そんな瞬に 笑わずに頷いた。 笑うことなどできるわけがない。 実際、そうだったのだ。 少なくとも 氷河は――今の氷河は――あの頃の自分は瞬に守られていたのだと、瞬という存在に 生きるための力を与えてもらっていたのだと 思っていた。 当時の自分が、その事実を自覚していたのかどうかは 憶えていなかったが。 『私が、あなたの仲間たちの命を守ってあげるわ。約束する。あなたの仲間たちは 決して死なない』 『本当に?』 『ええ、もちろん本当』 『あ……それで 僕は、その……代わりに、僕は何を差し出せばいいの? 僕の命? 兄さんやみんなが死なずに済むのなら、僕は死んでもいいけど、僕の命 一つだけでいいの?』 瞬が そう尋ねたのは、仲間たちの命――複数の命の代償が、他の一つの命だけでは 釣り合いが取れないと考えたからだったのだろう。 誰のものとも知れない その声は、 『命はいらない』 と、瞬に答えてきたのだそうだった。 『じゃあ、魂? あの……悪魔とか魔神とかいうものは、それを欲しがるんでしょう?』 『私は悪魔でも魔神でもないわ。それに、魂というものは 他人が奪えるようなものじゃないの。それは死んでも、あなたのもの』 『なら、僕は何を――』 命、魂、そして 身体。 幼い瞬が持っている“自分のもの”は、それしかなかった。 アテナの聖闘士になり、地上を我が物にしようとする神々の企みを退けることをさえ成し遂げた今でも、瞬はそう信じているのかもしれないと、氷河はぼんやりと思った。 『そうね。その代償は いずれ』 『いずれって、いつ? 僕は、いつ それをあなたに渡せばいいの』 『……』 声は、しばし 何事かを考え込むように沈黙し、その沈黙の後、 『10年後。10年後の今日、この時刻。私は あなたの許に その代償を受け取りに行くわ』 と答えたらしい。 その日は、奇しくも瞬の誕生日。 忘れようもない、約束の日。 その日が数日後に迫っている。 瞬の不吉な呟きは、それゆえ 発せられたものだったのだ。 「ハーデスの時のように、身体を支配され、地上世界に害を為す行為に利用されるのが恐いの。でも、あの声は、命や魂はいらないと言っていたから、その可能性が大きいような気がするんだ」 地上を我が物にしようとする神々の企みを退けることをさえ成し遂げた瞬。 それほどの力を 我が身に備えながら、瞬の瞳は 今でも不安に揺れていた。 |