西暦1601年。 17世紀、最初の年。 フィレンツェの町は、レオナルドとミケランジェロ以来の二人の天才の出現に沸き立っていた。 サン・ジョバンニ洗礼堂の天国の門を作った彫刻家ロレンツォ・ギベルティと、ルネサンスの至宝サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を設計した建築家フィリッポ・ブルネレスキ。 万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチと、フィレンツェの象徴ダビデ像を生んだミケランジェロ・ブオナローティ。 フィレンツェが栄光に輝く時、その中心には必ず二人の天才がいた。 芸術の都フィレンツェ。 栄光の共和制フィレンツェ。 “二人の天才”はフィレンツェの光と自由の体現者であり、“二人の天才”はフィレンツェの栄光の象徴だったのである。 しかし、栄光の時は永遠には続かない。 フィレンツェに ルネサンスの黎明をもたらしたギベルティとブルネレスキは、15世紀中葉、共にフィレンツェに没し、フィレンツェ・ルネサンスの黄金期を担ったレオナルドは1519年にフランスで、ミケランジェロは1564年にローマで没した。 ミケランジェロの死から30年余。 かつて共和制の国だったフィレンツェは、今はトスカーナ大公国の首都となり、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチの支配下にある。 太陽のごとき 二人の天才。 その二人の光を受けて輝く綺羅星のような多くの芸術家たち。 その輝きは、間違いなく、共和制フィレンツェの自由が生んだ輝きだった。 だが、自由フィレンツェの栄光は過去のもの。 花の都フィレンツェの民は その自信と誇りを失いかけていたのである。 現トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチは、フィレンツェ共和国の礎を築いたコジモ・デ・メディチの血を受けた名門の男子だが、兄である前大公フランチェスコ1世・デ・メディチを毒殺したという黒い噂のある曲者。 とはいえ、無能な君主だった兄とは異なり、フェルディナンド1世は 極めて優れた統治者だった。 トスカーナ大公位に就くと同時に、彼は 積極的な内政・外交を展開し、まず スペインからの外交的自立を確立。 産業の振興にも努め、フィレンツェ経済の活性化に成功した。 彼の即位から14年。 彼の治世下で、フィレンツェは今、共和制の黄金期に遜色のない繁栄を呈していた。 この上は、芸術の分野でも、かつての栄光をフィレンツェに。 市民の誰もが そう願っていた今この時、フィレンツェに再び二つの光が輝き出したのだ。 フィレンツェ市民の心が浮き立つのも 当然のことだったろう。 二つの光の輝き。 それは、フィレンツェ・ルネサンスの黎明期の歴史をなぞるようにして、フィレンツェ市民の前に登場した。 17世紀最初の年、メディチ家の伝統ともいえる芸術の保護振興に努め 建設事業にも積極的だったトスカーナ大公が、新世紀の到来を祝し フィレンツェの繁栄発展を祈願して建設する新聖堂の壁を飾る絵の制作を任せる画家を公募で選ぶと宣言したのだ。 かつて、フィレンツェ共和国政府が、サン・ジョヴァンニ洗礼堂に奉納する聖堂の扉を制作する彫刻家を公募によって決したように。 その際、旧約聖書の「イサクの犠牲」を題材にしたコンペティションで最終選考に残ったのが、ギベルティとブルネレスキの二人だった。 そのコンペティションでは、結局 ギベルティが優勝し、彼は天国の門と称賛される傑作を物にした。 敗れたブルネレスキは、その15年後、今度は サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラのプロジェクトのコンペティションで優勝し、ルネサンスの至宝を造り上げたのである。 フィレンツェに、ルネサンス最初の栄光の輝きをもたらしたサン・ジョヴァンニ洗礼堂のコンペティションから ちょうど200年後の1601年。 200年前の輝きの再生を期して、新聖堂のコンペティションの開催が決められたのだ。 新聖堂のコンペティションの課題は、聖母マリア。 フィレンツェ中の工房から、中堅を中心に、若手から古参まで20数点の応募があったのだが、その中に突出して美しいマリアの絵が2枚あった。 一方は、聖母マリアの聖性、気高さを完璧に表わした天上のマリア。 一方は、マリアの優しさ、温かさを あふれんばかりにたたえた地上の母たるマリア。 画家は どちらも無名。 12名の審査員の票は、その二人に それぞれ4票ずつ。 選ぶとしたら その2作のいずれかだが、どちらも選べないというので棄権が4票。 結局 勝負がつかず、決定はトスカーナ大公に委ねられたのだが、老練な政治家である彼は、その決定をフィレンツェ市民の投票で決定すると発表したのである。 未だ共和政の夢を捨て切れずにいる市民の不満を解消し、国内に活気を もたらすことを目的に。 大公の意図に気付いていないわけではないのだが、それはそれ、これはこれ、 フィレンツェ市民は、大公がセッティングした一大芸術イベントに 大いに盛り上がり、その熱気は日を追うごとに 熱さの度合いを増していった。 瞬が新聖堂を飾る宗教画のコンペティションの辞退を決めたのは、二人のマリアの絵を市民に公開する前に、最終選考に残った もう一作のマリアの絵を見たからだった。 彼女は まさに天上にのみ咲く白百合のごとく 気高く美しかったのである。 決して うぬぼれているわけではないのだが、描かれているマリアの姿、構図、表現技術で 自分の描いたマリアが、もう一人のマリアに劣るとは思わない。 作品そのものではなく、マリアに向けられた思いの強さで、自分は もう一人の画家に敵わないと、瞬は感じたのである。 人間の手の届かぬところにいる聖なる母、その母に対する崇拝、憧憬の念。 俗人の館に飾られる作品なら ともかく、聖堂に飾られるマリアとして、自分の描いた地上の母たるマリアは、この天上のマリアに劣る――ふさわしくない――と、瞬は思ったのだ。 |