「瞬が、君のマリアに感動していましたよ」
翌日 リヴォルノ侯爵が氷河を 半ば強引に新聖堂に連れ出したのは もちろん、新聖堂に二人のマリアを並び立たせるため。
つまり、コンペティションを辞退しようとしていた瞬とは逆に、自らの優越を疑わず 競作など考えてもいない氷河を説得するためだった。
「瞬? もう一人の候補者か」
他の題材なら いざ知らず、聖母の絵で、自分が他者に劣ることなど あるはずがないと信じているらしい氷河の返事は、自分の競争者になど 毫も関心がないというかのように ぞんざいである。
この男を説得し、競作に同意させるには、彼に瞬の絵を見せるのが最善かつ唯一の策と、リヴォルノ侯爵は考えたのだった。

「君と同様、日本の遣欧少年使節団に ゆかりのある子なんだ。瞬というのも日本語の名前だとか」
「あの使節団は、ポルトガル、スペイン、フィレンツェ、ミラノ、ローマと、あちこちをまわったようだからな。正使の少年たちはともかく、随行人たちは いろいろと余計なものを欧州に残していった」
氷河は自身の出自を誇れるものとは思っていないようだった。
本気だったにしろ遊びだったにしろ、彼の父親が異邦の地で結ばれた恋人を その地に残し、自分一人だけで故国に帰っていったのは いかんともし難い事実なのだ。
父の顔も知らず、母一人に育てられ、その苦労のゆえに母を亡くしたのだから、それも致し方のないこと。
両親を早くに亡くし、親の苦労を知らない瞬とは、育った環境も違う。
氷河は、すべてを受け入れ 命を与えられたことに感謝している瞬とは、その性格も 描く絵の印象も対照的――真逆と言っていいほど対照的だった。
絵の才能があること、優れた感性を備えていること、美貌に恵まれていることは同じでも、氷河と瞬は 美質の質が全く異なっている。

「俺のマリアに感動した? その瞬とやらは、自分の画作への矜持や自信がないのか。それとも、敵を褒めておけば、敵に貶さけることはないと考えたか。敵を作らないための称賛、敵の慢心を誘い油断させるための罠か」
新聖堂の内陣は 二人のマリアを己が目で見ようとする老若男女で ごったがえしている。
そこにいる者たちの半数は、投票権を持たない婦人や子供たちだった。
それらの者たちに 氷河が鬱陶しそうな目を向けるのは、おそらく 彼の画業が他人のためのものではなく 自分のためのものだからなのだろう。
「瞬は そんな姑息なことを考えるような子ではないよ。聖堂を飾るのは君の描いた気高いマリアの方がふさわしいと言って、瞬は このコンペは辞退したいとまで言っていた。私が止めたがね。たとえ 瞬が この聖堂の絵の制作を辞退しても、あの子には いくらでもチャンスが巡ってくるだろうが」
「あんたが自分の功名心を満足させるために、そのお膳立てをするんだろう」
「もちろん、事態が どう転んでも、私は 瞬を世に出すために尽力する。瞬の絵には、それだけの価値がある。が、まあ、その必要はないだろうな。あの子の絵には、人の心を惹きつけ癒す力がある。そして、人は、それが一国の王であれ、明日の食事にも事欠く乞食であれ、心に傷を負っているもの。つまり、誰もが あの子の絵を欲するんだ」
「ふん。で、その瞬とやらのマリアは」

氷河は瞬の描いたマリアを一度も見ていなかった。
母を亡くし、10歳になるや ならずでフィレンツェの工房に徒弟として入り、その2年後には既に並みいる兄弟子たちを差し置いて親方の助手を務めるようになっていた氷河には、他人の絵は(親方の絵でさえ)見るほどの価値のないものだったのだ。
技術は工房の親方の作業を見て学んだが、創作に関しての氷河の真の師はレオナルドであり、ミケランジェロだった。
同時代の、それも同年代の画家が描いた絵など、氷河には 到底 興味を抱けるものではなかったのである。

「瞬の描いたマリアは、君が描いたマリア同様、大層な 評判をとっているよ。見た者の反応は全く違うがね。君のマリアには 誰もが祈りを捧げ、瞬のマリアには 誰もが涙と微笑を捧げている」
瞬の描いたマリアの前に群がっていた人々が リヴォルノ侯爵に場所を譲ったのは、その場にいた者たちが 彼を彼と認めたからではなく、彼が身に着けていた衣装が庶民のものではなかったからだったろう。
が、中にはリヴォルノ侯爵の顔を見知っている者もいて――彼が幾人もの芸術家たちに多大な援助を与えているフィレンツェ有数の資産家だということを知っている者もいて――彼の連れに好奇の眼差しを向けてくる者もいた。

瞬の描いたマリア――地上のマリアの絵の前に、氷河が立つ。
瞬の描いたマリアの絵を見ても、氷河は無言だった。
「どうだね。優しく温かいマリアだろう」
と リヴォルノ侯爵に問われても、氷河は 批判も讃辞も 肯定も否定も示さない。
長い間を置いて、
「……俺に何を言えというんだ」
という、反応ともいえない反応が返ってくる。
無反応というより 非反応もしくは不反応。
その反応のなさを どう解したものか迷ったリヴォルノ侯爵は、無反応無表情の氷河の前で 肩をすくめることになったのである。
「君の好みではないだろうが、多くの人々の心を打つマリアだということは否定できないだろう?」
重ねて問うたリヴォルノ侯爵の言葉にも、氷河は無言無反応だった。






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