瞬が、画家でいることをやめ、修道院に入ると、工房の親方に告げたのは その翌日。
その日のうちに、親方から連絡を受けたリヴォルノ侯爵が工房に飛んできて、馬鹿な考えは捨てるよう、瞬を説いてきたが、瞬の決意は変わらなかった。
フィレンツェ市民の期待を裏切るのかと、侯爵は瞬に問うてきた。
だが、このまま画家でいることを続けていても いずれ 多くの人を失望させることは目に見えている。
それならば、市民の期待が今以上に大きくなる前に 彼等の期待が間違いだった――あなた方は期待する対象を間違えていたのだと、彼等に はっきり知らせてやった方がいい。
瞬が、消沈した表情で老侯爵に そう告げると、瞬のパトロン志願の老侯爵は、その見事な白髪を左右に振った。

「自分が希望を失わないことと、自分が 自分以外の誰かの希望でいることは、似て非なるもの。だが、違うもののようで、その二つは同じものなんだよ、瞬。自分の希望を失わず懸命に努力する人間を見て、その姿に 人は勇気づけられ、そこに自らの希望をも見い出す。人は、自分は他人の希望なのだと意識して努力する必要はないんだ。もちろん、成功者でなくても、人は人の希望になれる」
フィレンツェ市民の一人として、その期待を裏切ろうとしている瞬に立腹してもいいと思うのに、リヴォルノ侯爵の声音は穏やかなものだった――穏やかに、瞬を諭してきた。

「そのどちらも――自分の希望を見失わないことも 自分以外の人間の希望であることも、僕には もうできそうにないんです。もともと、そんな力は僕にはなかった――」
「自分自身の希望も見失うほど、君は自信と気力をなくしてしまったのか? それは困ったことだ」
やはり 立腹した様子は見せず、むしろ優しく気遣わしげに、老侯爵が呟く。
「だが、私は決して君を修道院になど行かせないよ。必ず 止めてみせる」
激したふうはなく、どこまでも穏やかな口調で そう言って、老侯爵は、工房の瞬の部屋を出ていった。






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