記念の夜






その男を初めて見た時、氷河は彼が瞬より8歳も年下だとは思わなかった。
その男が老けているわけではない。
おそらく、彼は 年相応の姿をしているのだ。
問題は、8歳も年下の男より若く見える瞬の方にある。
もっとも それは瞬だけの問題ではなく、アテナの聖闘士全員――もとい、瞬の仲間たち全員に共通した問題だったが。
中でも瞬は、澄んで大きな瞳が、その問題を深刻にしていた。

「ここが瞬先生の 行きつけの店なんですか」
“瞬先生の行きつけの店”のドアを開けたのは、“瞬先生”ではなく、その男の方だった。
いつもは優しい笑顔で そのドアを開ける瞬が、今夜は少々 困惑顔。
瞬は どう見ても、その男と一緒に この店に来ることを不本意と思っている様子をしていた。
「いい店ですね。いい趣味……あのシャルトリューズは80年は経ってる。いい酒が揃ってるなあ」
酒談義の相手としては瞬より優秀そうだったが、氷河は 自分の店に来る客に酒の薀蓄など求めてはいなかった。

「瞬」
言外に、『なぜ一人で来ないんだ』。
「こんばんは」
言外に、『いろいろ事情があって』。
瞬が テーブル席に着くか カウンター席に着くかを迷う素振りを見せたのは、瞬が一人でないことに機嫌を悪くしているバーテンダーの不機嫌から逃げることと、一人ではないことの説明をしてバーテンダーの不機嫌を解消することの どちらを採るべきかを迷ったからだったろう。
最終的に 瞬は後者を選び、連れの男と共にカウンター席に着いた。

「おまえが同僚を連れてくるのは初めてだな」
「うん。昨日から、研修医として ウチの病院にいらして、僕が お世話することになったの。皆来(みなき)さん」
「そういうのは、これまで断っていただろう」
瞬の本業は、あくまでもアテナの聖闘士。
医師は副業である。
いざという時、副業に縛られることがないように、瞬は緊急性の少ない 総合診断医として病院に勤務しているというのに、研修医の世話など引き受けていたのでは本末転倒というもの。
瞬の副業が 本業同様 人命に関わる責任ある仕事だということは承知しているが、であればこそ なおさら、瞬はプライオリティを間違えるべきではない。
瞬の副業は瞬以外の人間にも務まるが、アテナの聖闘士としての瞬の代わりは いないのだ。

氷河は明確に不機嫌だった。
もっとも氷河はサービス業従事者だというのに 滅多に感情を顔に出さない男なので(接客用笑顔も作らないが、怒りや悲しみの表情も作らず、基本的に無表情なので)、店の客たちは、氷河は今夜も通常営業と思っていただろう。
が、もちろん 瞬は 氷河の不機嫌に気付いていた。
「大学でお世話になった教授に頼まれたんだ。僕は総合診断医で、彼は外科志望なんだけど」
「おまえの後輩? おつむの出来はいいわけだ」
「その言い方……。氷河、僕を馬鹿にしてる?」
「全く 逆のことを言ったつもりだが」

声に抑揚がないせいで、氷河の声の響きが皮肉めいているのは いつものこと。
その身に黄金聖衣を まとうことになった時、どうあっても冷静冷徹に徹することのできない自分という男を(不本意ながら)認め、氷河は恰好から入ることにしたのだそうだった。
つまり、常日頃 日常的にクールな振りをしていれば、いざという時にも より長い時間 クールでいられるかもしれないと 氷河は考え、その考えを実行に移すことにした。
最終的には“クール”を放棄することを前提にして 自らの決意を語る氷河に、瞬は苦笑を禁じ得なかったが、ともかく そういう考えで、氷河は日常的に徹底してクールを装っている。
一般人にも危害が及ぶほどのバトルの場を除けば、氷河がクールの仮面をかなぐり捨てるのは、ベッドの上でだけだった。

以前、到底クールとは言い難い振舞いを し終えた氷河を、
『クールに徹していなくていいの?』
と言って からかった時、氷河は、しれっとした様子で――それこそクールと表していい態度で、
『野蛮で獰猛な獣になることを男に許してくれる恋人こそが 最高に賢い恋人だと、どこぞの詩人が言っている』
と応じてきた。
『僕が その賢い恋人だって言うの? 氷河は、じゃあ、どうなの。氷河が獣になることを、僕は許す。なのに、僕は――』
『おまえ、まさか、自分が無欲恬淡で 非力な草食動物でいるつもりなのか? あれで?』
氷河に 楽しそうな笑顔で そう問い返され、頬を真っ赤に染めることしかできなかった その時以来、瞬は ベッドでの氷河の非クールについて意見したことは一度もない。
恋人が獣になることを許すのが 最高に賢い恋人なら、恋人を獣に変えてしまう氷河は、もはや天才の域。
賢人才人が 天才に敵うわけもなく、意見したところで言い負かされるに決まっている。
何より 瞬は、氷河に“獣に変えてもらう”ことが好きだったのだ。

そういう事情を抱えた天才的恋人は、『恩師に頼まれて仕方なく』という瞬の説明で、機嫌を直しかけていた。
もちろん、氷河は表向きは無表情無感情の通常営業。
氷河が機嫌を損ねていたことに気付いていたのが瞬だけなら、氷河の機嫌が直りかけていることがわかるのも瞬だけである。
そこに 瞬が世話をすることになった研修医が 口を挟んできたのは、であるから、氷河の通常営業を知らない初めての客が、氷河と瞬のやりとりを 一触即発の険悪な皮肉の言い合いと誤解したからだったろう。
彼は、場を和ませるための笑顔付きで、氷河と瞬の間に割り込んできた。

「瞬先生は大変 優秀な学生だったそうですが、大学に残っている瞬先生を知る先輩方は、瞬先生の噂話になると、口を揃えて まず『綺麗だった』と言うんですよ。次に『美貌を鼻にかけず優しくて親切な人だった』。それから やっと『あらゆる症例を記憶していて、観察眼が鋭く、優秀だった』になる」
“おつむの出来”以外の瞬の美点を挙げることで バーテンダーの誤認を正し、かつ、これから世話になる先輩を持ち上げる。
自分は適切な話題を提供したと、研修医は思っていただろう。おそらく。
「医療に携わる者が、所詮 皮一枚のことにすぎない容貌について まず言及するのは どうかと思っていたんですが、実際に瞬先生に お会いして、先輩方の気持ちがわかりました。瞬先生は、特に瞳が美しい。『目は心の鏡』と よく言いますが、それって医学的にも理に適った俗諺なのか、ちょっと研究してみたいテーマですね」
「……」

氷河の通常営業を知らない研修医は、別の話題を出して 場を和ませようとしたのだろうが、氷河が知らない瞬を氷河に語るのは、逆効果である。
よくなりかけていた氷河の機嫌を、自分がまた悪化させてしまったことに、しかし、研修医は気付いていないようだった。
おかげで 瞬は、後輩の気遣いに感謝しつつも、胸中で 頭を抱えることになったのである。
「今夜は無理を言って連れてきてもらったんです。本当は、これからお世話になるんですから、ディナーでも ご馳走したかったんですが、瞬先生は 夕食は 職員食堂で済ませてしまったとかで」
残念そうに告げる研修医の言葉に、氷河の機嫌は悪化の一途を辿っている。
昨日今日 瞬に会ったばかりの若造が 瞬を食事に誘おうとしたこと、瞬に その誘いを断らせる労を取らせたこと、誘いを断られたことを研修医が残念に思っていること。
研修医は、氷河の機嫌を悪くするために懸命に努めているようなものだった。

「空腹でバーに来るのは、ちょっとね……」
初見の客には無表情無感情、常連客には通常営業に見える氷河の顔を上目使いに窺いながら、瞬が およそ どうでもいいことを口にする。
瞬は とにかく、氷河の人となりを知らない研修医に これ以上 氷河の機嫌を悪くするようなことを言わせたくなかったのだ。
「フルーツの盛り合わせくらいなら 作ってやるぞ。パフェにもできる」
氷河が瞬に、そんなふうに、これまた およそどうでもいいことを言ったのは、後輩に苦労させられている瞬に同情したから――だったかもしれない。
実際に 瞬に苦労をさせているのは、瞬の後輩ではなく、この店のバーテンダーだったのだが。

「バーで フルーツパフェを食べるなんて、場違いもいいところでしょう。さすがに そんな空気を読めないようなことは――」
「権力者に空気を読めと言う馬鹿者はいない」
「僕を暴君みたいに言わないで」
氷河は 相変わらず 無表情無感情である。そして、抑揚のない単調な声。
この店のバーテンダーの通常営業を知らない初見の客は、その頃になって さすがに、氷河と瞬のやりとりが険悪なものではないことを感じ取り始めたらしい。
その上で、人好きのする笑顔を顔を貼りつけ、
「でも、瞬先生の行きつけの店が どんな店なのかを知ることの方が有益ですね」
などという台詞を言ってのけるあたり、瞬の後輩は、この店のバーテンダーを不快にする才能に恵まれすぎているようだった。

この初見の客は どういうつもりで そんなことを言っているのかと、氷河は不快になった。
もちろん表情は 1ミリたりとも変えない。
変えずに、氷河は 改めて、瞬が連れてきた(瞬に無理矢理 ついてきた)若い男を観察してみたのである。






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