「いやー、アンちゃん。あんた、絵に描いたような変態だな。恐れ入ったぜ」
星矢の称賛に、
「私など、まだまだ」
と、奥ゆかしく恐縮してみせるアンドレアスの神経が、氷河には理解できなかった。
が、ともかく、天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士が、窮地に陥った仲間を救うべく ここに駆けつけてくれたのだ。
彼等のバックには、当然 アテナがついているだろう。
氷河の目には、やっと 一筋の光明が見えてきた。
とはいえ、オタクの守護神ロキの加護を受けているアンドレアスを、人質を二人も取られた状況で、仲間たちがどうやって倒すのか――倒すつもりでいるのかが、氷河には想像もつかなかったのであるが。

紫龍がアンドレアスに、
「ものは相談だが、氷河と瞬を返してくれないか」
と、穏やかな口調で告げた時、仲間たちがアンドレアスを倒すつもりはないのだということに、氷河は おぼろげながらに気付いた――察した。
「それはできない」
「返してくれたら、これをやるぜ」
そう言って、星矢が指し示したのは、全長15センチほどのブリキのガラクタ。
少なくとも、氷河の目には、それが そう見えた。
不燃ゴミとして、不燃ゴミ収集の日に、ゴミ集積場に置かれることが 最も妥当な物体に。
しかし、事実は そうではなかったらしい。
アンドレアスですら、その価値を見極めかねているらしい謎の物体を横目に見ながら、紫龍は、アンドレアス攻略作業に取りかかった。

「5年前、サザビーズのオークションで、M・隆氏制作のフィギュアが16億円で落札されたことは知っているか」
「無論。全く 私の好みの品ではなかったが」
「そのM・隆氏の師匠であるB・M氏のことは」
「伝説のオタクフィギュア職人、B・M氏のことだな。もちろん知っている。まさに、生きている伝説。オタクの常識だ」
「では、そのB・M氏の師匠のO氏のことは」
「生ける伝説のB・M氏にも師匠がいたという噂は聞いたことがあるが……」
それまで自信満々だったアンドレアスが、初めて自信がなさそうな態度を見せる
紫龍は、そんなアンドレアスの様子を見やり、ゆったりと頷いた。

「もちろん、それは ただの噂ではない。生ける伝説のB・M氏にも師匠がいた。そして、B・M氏の師匠O氏は 2年前まで存命だった。彼は、オタクの町、大田区にある精密機器の町工場の片隅で、最後の最後まで ひっそりと制作活動に励んでいた。これは、そのO氏が作った、モーソー戦記ロボット残党兵の試作品第一号だ。もちろん、マイナーすぎて、商品化はされなかった。商品化どころか、これまで人目に触れることすらなかった、世界に ただ一つの品だ。O氏の自筆の保証書付き。まあ保証書といっても、作った日の日付と、自己評価を書きなぐっただけのものだが」
「B・M氏の師匠の試作品だと……っ!」

サザビーズのオークションで落札された16億のフィギュアも、その制作者も、その制作者の師匠も、その制作者の師匠の師匠も、氷河は知らなかった。
ゆえに、それらの人々が どれほどの大物なのかを、氷河は、星矢が手にしているブリキのガラクタで判断するしかなかった。
氷河は その難事業に かなり真面目に取り組んだのである。
なにしろ、この取引きには 自分と瞬の人生が かかっている。
無論、氷河は 真面目に取り組んだ。
しかし。

「あれが、俺たち二人の人生に匹敵するほどの価値があるものなのか? 俺には、ブリキのゴミを寄せ集めて 積み木遊びをしようとした子供が途中で飽きて放り出したゴミの塊りにしか見えないんだが」
「ラピュタに出てきた壊れかけのロボット兵が、ほんとに壊れて ひしゃげた残骸みたい」
仲間の登場で少し元気になってくれたらしい瞬の評価が 自分のそれと ほぼ同じだったので、氷河は安堵した。
同時に、氷河は 途轍もなく不安になったのである。
星矢が手にしているブリキのゴミは、彼女の聖闘士を穏便に救い出すために アテナが入手したものなのだろうが、アテナは取引き材料を間違えたのではないか――と。

しかし、それは氷河の浅慮だった。
アテナは、知恵と戦いのみならず、芸術と工芸を司る女神――いうなれば、ギリシャにおけるオタクの守護神なのだ。
星矢の手にあるゴミを見詰めるアンドレアスの目は、北欧の光明神バルドルの生む光より明るく輝き、炎の神ローゲの作り出す炎より熱く燃えていた。
アンドレアスは、陶然とした表情で、
「B・M氏の師の師の遺品……オタクフィギュアの歴史における金字塔といっていい作品だ。これを手に入れれば、私も上級者の仲間入り……」
とか何とか、訳のわからない独り言をつぶやいている。
今にもブリキのゴミに飛びかかりかねない形相のアンドレアスに、我が意を得たりと言わんばかりに、紫龍は更に畳みかけていった。

「氷河と瞬は、これから いくらでも手に入れるチャンスがあるだろう。だが、これを手に入れるチャンスは今だけだ。この取引きが成立しなかったら、星矢が この場で 速やかに破壊するからな」
「な……なに……っ !? そんなことが許されるかっ。それは日本の――いや、世界の造形芸術史に燦然と輝く唯一無二の至宝だぞっ」
「オタクには価値あるものかもしれないけど、俺たちにとっては、ただの出来損ないのガラクタだもんなー」
そう言って、星矢が“世界の造形芸術史に燦然と輝く唯一無二の至宝”を ぽんと宙に放り投げ、わざと 危なげな様子で左手で受けとめる。
アンドレアスは、ウシガエルが無理にソプラノで歌を歌おうとしたような悲鳴をあげ、そして、その後、シベリアシマリスの冬眠のような沈黙の中に閉じこもった。

アンドレアスは――彼は 悩んでいるようだった。
尋常では考えられないほど深く、正気の沙汰とは思えないほど真剣に 悩んでいるようだった。
星矢たちが登場するまで、常に高慢、あくまで 余裕と遊び心に満ちていたアンドレアスの額に脂汗がにじんでいる。
アンドレアスの苦悩は、しかも 長かった。
いつまで経っても、結論に至る気配がない。

「そんなに悩むようなことなのか? 俺なら、一秒も迷わずに、おまえを選ぶぞ」
「人の価値観は 人それぞれだから……」
瞬のフォローは正論だが、その正論は、自分にとっては価値のないものの方を選んでほしいと願っている人間が この場で口にしていい正論ではなかったかもしれない。
アンドレアスの答えが出たのは、彼がシベリアシマリスの冬眠のような沈黙の中に閉じこもってから約30分後。
30分もの時間を費やして、彼は、氷河なら1秒も迷わずに選ぶ答えとは逆の答えを選択したのだった。

「負けたよ」
苦悩の曇天が消え、決断後の空は晴れた青空。
爽やかとしか言いようのない笑顔で、アンドレアスは 瞬と氷河を閉じ込めていた透明ドームを消し去った。
そして、全く悪びれた様子を見せず、彼は 氷河に握手を求めてきたのである。
あげく、
「半年後、私は、Bサイトで開催されるホビーフェスティバルに行く予定でいる。その時こそ、最高のBLセックスを、私に見せてくれたまえ」
とのリクエスト。
「見せるかーっ!」
もちろん 氷河は、言下にアンドレアスのリクエストを退けた。

「全く 性的ニュアンスがなく、どこまでも純粋に、あくまでも清らかなオタク根性なところが すごいな」
「せっかく 二枚目なのになー。オタクでなかったら、女に もてまくりだろうに、なんで こんなことになったんだか」
すべてが計画通りに進んだというのに、ブリキのロボットを手にして にこにこしているアンドレアスを見る星矢と紫龍の心は、安堵が2割、感心が2割、驚嘆が2割、“もったいない”が2割、“もう お手上げ”が2割と、非常に複雑な様相を呈していた。
アンドレアスに、瞬と併せてもブリキのガラクタ以下と評価された氷河の心は、一層複雑である。
そんな青銅聖闘士たちの心を知ってか知らずか、ブリキのガラクタを手にしたアンドレアスの笑顔は、どこまでも明るく、どこまでも爽やかだった。

女の子にもてることなど、アンドレアスは望んでいない。
彼の幸せは、そんなところにはない。
彼には彼の望む幸福があり、彼には彼の歩みたい道がある。
アンドレアスは、それで幸せなのだ。
なぜなら、彼は 誇り高き 真のオタクだから。






Fin.






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