「や……やりすぎで、立てなくなっただぁーっ !? 」
得意げにではあったが 通常ボリュームで氷河が語った事柄を、星矢は最大ボリュームで復唱した。
瞬は耳たぶまで真っ赤に染め、氷河は鼻高々。
瞬は、いっそ 頭から毛布をかぶって、仲間たちの視界から消えてしまいたかっただろう。
風邪を心配して見舞いにきてくれた仲間たちに、『実は、やりすぎで――』などという病状説明をされてしまっては、氷河と違って恥を知る常識人としては、たまったものではない。
とはいえ、瞬もアテナの聖闘士。
窮地に陥った時の適切な対処方法は 心得ている。
瞬は、頭から毛布をかぶる代わりに、
「ひょ……氷河! 昨日 アケビのせいで食べ損なった、つつじ屋さんの わさびチーズタルトと サツマ芋クリームの生どら焼きを買ってきてちょうだい。僕、どうしてもどうしても、わさびチーズタルトと サツマ芋クリームの生どら焼きを、今日 食べたいの!」
と、自らの犬に厳命した。

氷河に この場にいられると ろくなことにならないと、瞬は思ったのだろう。
これ以上 氷河に恥ずかしいことを語らせないために、瞬は とにかく 氷河をこの場から立ち去らせることにしたようだった。
『わん』と吠えることはしなかったが、氷河が すぐに瞬の命令に従って 部屋を飛び出ていく。
が、残念なことに、氷河が その場からいなくなっても、星矢の怒りは 全く治まることはなかったのである。
星矢の怒りは、いつのまにか、氷河の傍若無人(まさに やりたい放題)より、氷河に そんな振舞いを許す瞬の方にこそ 向かい始めていた。

「夜の山に足止めされて、きっと おまえは風邪をひいちまったに違いないと思って 心配して 様子を見にきてみたら、やりすぎで立てないだあ !? 真面目に おまえの体調を心配して 見舞いに来てやった俺たちが馬鹿みたいだろ! いつか 言ってやろうと思ってたけど、おまえは 氷河を甘やかしすぎなんだよ! たまには びしっと言ってやったらどうなんだ! おまえに強く出られたら、氷河は尻尾を丸めて 縮こまることしかできないに決まってんだから!」
「星矢……」
またしても『やりすぎで立てない』を大声で繰り返され、氷河ではなく瞬が、ベッドの上で身体を小さく丸くする。
丸めた身体よりも小さく 心許ない声で、瞬は星矢に弁明してきた。

「僕は、氷河を守ってあげなきゃならないから……」
「普通は、犬の方が飼い主を守るもんだろ!」
「そんな……。まるで氷河を犬みたいに……」
「氷河が自分でそう言ってたんだよ。自分は瞬の犬だって。だから、おまえには、氷河の飼い主として 氷河を ちゃんと躾ける義務と責任があんの!」
犬には何を言っても無駄だから、飼い主を責める。
星矢の判断と行動は、極めて一般的なものだったろう。
常識的で、賢明でさえある。
問題は、“それでも、氷河は 本当に犬なわけではない”ということだけだった。

氷河の人間としての尊厳を否定するような星矢の咆哮に、
「僕は 氷河の飼い主じゃないよ」
と 瞬が応じてきたのは、瞬が 氷河の飼い主としての責任を逃れようとしたからではなかったようだった。
かといって、氷河の人間のとしての尊厳を否定する星矢に抵抗しようとしたからでもなく――瞬は ただ、事実を口にしただけ。
瞬は、瞬にとっての事実を口にしただけ――のようだった。

「なら、何だよ」
ほとんど反射的に問い返した星矢に、瞬から、
「マ……マーマの代わり……」
という答えが返ってきたのは、30秒ほどの時間――かなり長い時間である――が経ってから。
その答えを口にしていいものかどうかを、瞬は30秒もの長い時間 迷っていたらしい。
迷って――瞬が最終的に その答えを口にしたのは、それが事実――瞬にとっての事実――だったから。
瞬の声は、羞恥ではない何かのために 震えている。
瞬の 思い詰めたような声と肩に ただならぬものを感じて、星矢は眉根を寄せることになった。

「氷河が、んなこと言ったのかよ? 俺のマーマに代わりを務めてくれって?」
そんなことがあるはずがない――というのが、星矢の認識――むしろ確信――だった。
氷河は 彼を守るために その命を犠牲にした母親を深く愛してはいるが、いわゆる“マザコン”では決してない。
現に 氷河は、母親がいなくても 自分の意思で自分の命を生き、自分の生活を営んでいる。
氷河が 瞬に――瞬以外の誰に対しても――そんなことを言うはずがない。
氷河の母は、冷たい北の海に眠る あの女性一人だけなのだ。
彼女の代わりを、氷河が求めるはずがなかった。

星矢の その認識は正しいものだったらしい。
星矢が問われた瞬は、その首を横に振った。
「そうじゃなくて、紫龍が……」
「俺?」
なぜ ここで自分の名が出てくるのか。
訳がわからず、紫龍が反問する。
瞬は、今度は、縦に首を振った。

「子供の頃――僕たちが それぞれの修行地に送られる前、僕、氷河に唇を舐められたの」
「唇を舐められた?」
瞬の話が、突然 とんでもないところに飛ぶ。
紫龍は――星矢も もちろん――なぜ そんなところに話が飛んでいくのか、訳がわからず、首をかしげたのである。
瞬が、顔を伏せたまま、言葉を継いでいく。

「あ……つまり、キスされたんだけど……。キスっていう行為があることは、僕も、何となく知ってたんだよ。でも、氷河のそれは、唇に唇で触れるだけじゃなくて、舌で僕の唇を舐めたり、口の中にまで舌を入れてきたりして、他にも 何かいろいろなことをして、僕がイメージしてたキスっていうのとは全然違ってて、まるで 僕の口の中で食べ物を探してるみたいで、あの……」
「要するに、氷河は、ガキのくせに、おまえに 大人のキスをしてきたと」
すぐに頷くことはしなかったが、瞬は 結局 俯くように頷いた。
星矢と紫龍は、氷河の ませ振りに呆れ、だが、氷河が ませていたことと、瞬が“氷河のマーマの代わり”であることの関連性は わからぬまま。
彼等には、瞬の語るエピソードは むしろ、氷河が瞬を 彼の母とは違うものとして見ていたことの証左としか思えなかったのである。
事実も(おそらく)そうだったろう。

「うん……。僕、どうして氷河が そんなことするのか わからなくて、それが普通のことじゃないような気がして、もしかしたら悪いことなんじゃないかって気もして、だから、紫龍に訊いたんだ。氷河に そんなことされたってことは言っちゃいけないと思ったから、氷河のことは伏せて、その……犬とかが 人の口を舐めるのはどうして? って」
「犬ぅ !? 」
ここで突然、犬の登場。
幼い瞬には、唇を舐める(氷河以外の)ものというと犬しか思いつかなかったのだろうから、『その訊き方はおかしい』と断じることは、星矢にも紫龍にもできなかったが。

それにしても、まさか そんな昔から 氷河が“瞬の犬”をやっていた(?)とは。
星矢と紫龍は少なからず呆れてしまったのである。
もっとも 彼等は、この場合、瞬に犬のようだと思われることをした氷河に呆れるべきか、氷河の(大人の)キスを犬のようだと思った瞬に呆れるべきなのか――は わかっていなかったが。
わからないまま、彼等は とにかく呆れていた。

「そしたら、紫龍は、それは 子犬が母犬に食べ物をねだる時の名残りの仕草なんだって、教えてくれたんだ」
「そんなことを言ったのか? 俺が?」
自分が瞬に そんなことを言った事実を、紫龍は憶えていなかった。
憶えてはいなかったのだが、自分が そう言ったのは事実なのだろうと、紫龍は思ったのである。
今 同じことを瞬に問われたら、自分は同じ答えを返すだろうと思ったから。
そういう知識が、紫龍の中には 現在も存在していたから。
もちろん それは決して いい加減な出まかせではない――瞬の質問への答えとしては間違っていない。
そういう学説は確かに存在し、幼い頃から 紫龍は その知識を持っていた。
さすがにもどこから そんな知識を仕入れたのだったかということは、紫龍当人も憶えてはいなかったが。

「紫龍に そう教えられて、僕、氷河が僕をマーマみたいに思ってるんだって思ったんだ。マーマがいないことが寂しくて、悲しくて、つらくて、マーマの代わりになる人が欲しくて、それで 氷河は あんなことをしたんだって。だとしたら 僕は、氷河のマーマの代わりに 氷河を庇って守って愛してあげなくちゃならないって思って、それで――」
「だから、いつも氷河を庇って守って愛してやったって?」
「う……うん……」
「押し倒されて、あれこれされても文句一つ言わずに?」
「それは、僕が気持ちいいからだけど……」
問われたことに(おそらく)正直に答えてから、瞬は慌てて その答えを上書き修正(もしくは、答えを付記)してきた。
「氷河がそうするの 好きみたいだから――」

『だからって、アテナの聖闘士が立てなくなるまで やるかよ!』と 瞬を怒鳴りつけないのは、星矢なりの武士の情け。
その件で 瞬を責めるのは お門違いだということに、星矢が気付いたからだった。
責めるべき相手は 瞬ではないのだ。
「じゃあ、前に、おまえが氷河を犬って言ったのは――氷河が犬みたいで、人間の尊厳を放棄しかけてるみたいなこと 言ったのは――」
何とか気を取り直し、星矢は念のために 瞬に確認を入れた。
「え?」
“前”というのが いつのことなのか、いつ 自分が そんなことを言ったのかを、瞬は忘れていたらしい。
幸い それは紫龍の発言ほど昔のことではなかったので、星矢の言う“前”がいつだったのかを、瞬は すぐに思い出すことができたようだった。

「あれは……あの時も、僕、庭で氷河にキスされて、それを庭のメンテに来ていた造園修景士のおじさんに見られちゃったんだ。無意識にマーマを求めて キスしたがるのは わかるけど、氷河は本物の犬じゃないんだし、そういうのを人に見られるのは恥ずかしいから、人前でキスするのはやめてほしいなあって思ったんだよ」
「そういう意味だったのか。人を犬のようだと言うなんて、おまえらしくないとは思っていたが」
瞬に尋ねた星矢より先に、紫龍が得心し、頷く。
これですべての謎が解け、すべての案じ事が解消したと、紫龍は すっきりした気分になっていた。
これまで 紫龍が引っかかっていたのは、瞬が氷河を甘やかしすぎる理由と、瞬が氷河を犬呼ばわりするようなことをした理由が わからないことであって、瞬が氷河を甘やかしすぎること自体、瞬が氷河を犬呼ばわりしたこと自体ではなかったのだ。
わからなかった理由が わかってみれば、それは いかにも瞬らしい理由だった。
瞬に対する認識も 瞬に対する評価も変える必要はなく、現状維持でOK。
そう結論づけて、紫龍は すっきりすることができたのである。

「もう今では おまえもわかっているんだろうが、氷河は決して おまえに母親の代わりを求めているのではないと思うぞ。犬が飼い主の口を舐めるのは、子犬が母犬に食べ物をねだる時の名残りだと 俺が言ったのは、あくまでも犬の習性について訊かれたと思ったからで、実際に何があったのかを知らされていたら、俺は氷河の ませ振りに呆れていたに違いな――ん? 何だ、これは――」
その段になって初めて――やっと、紫龍は気付いたのである。
星矢の小宇宙が、まるで人類の敵である邪神に相対している時のように大きく強く激しく燃え上がっていることに。
その小宇宙は、一輝のそれほど露骨ではなかったが、強い怒りの感情が 込めらていて、その怒りの小宇宙は なぜか 龍座の聖闘士に向けられていた。

なぜ星矢の怒りが龍座の聖闘士に向けられているのかは、
「……紫龍。おまえが氷河と瞬をくっつけた張本人――諸悪の根源だったんだな……!」
という、大地が蠢くような星矢の低い呻き声で わかった。
「あ……いや、俺は そんなことをした覚えは――」
もちろん紫龍には、そんなことをしたつもりはなかった。
紫龍は、問われたことに ごく一般的な知識で答えただけで、それがまさか瞬の心に 氷河への同情や愛情を植えつけることになるなどとは考えてもいなかったのだ。
無論、氷河と瞬を くっつける意図も毫ほどもなかった。
結果として そうなってしまっただけで、紫龍には、星矢の大切な瞬を(星矢にとっては始末に負えない ろくでなしであるところの)氷河に結びつけようなどという意図は全くなかったのである。
が、星矢には結果がすべてであったらしい。

「おまえが! 平穏で清らかなものになるはずだった瞬の人生を滅茶苦茶にしてくれたんだなっ! 俺や氷河をトラブルメーカー扱いしてくれたくせに、その実、いちばんのトラブルメーカーは おまえだったんだ!」
「だから、俺は、決して そんなつもりでは……。せ……星矢、落ち着けっ。ここは屋内だ。俺は、地上の平和を乱す邪神でも何でもない!」
「男のくせに、この期に及んで 見苦しい言い訳なんかするなっ! おまえは 邪神よりたちの悪い悪党だ。瞬の人生を滅茶苦茶にしやがってーっ !! 」
「せ……星矢、待てっ。冷静になれっ!」

さすが 龍座の聖闘士は、天馬座の聖闘士や白鳥座の聖闘士とは違って、適切な状況判断ができる。
星矢に『待て』と言いながら、瞬の部屋のバルコニーから 庭に飛び出た紫龍の判断は、全く適切なものだったろう。
怒り心頭に発した星矢は、すぐさま紫龍を追って庭に飛びおり、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に対して、一瞬の逡巡もなく小宇宙全開のペガサス流星拳を放ってくれたのだから。
それが 瞬の部屋で放たれていたら、十中八九、瞬の部屋は全壊。
氷河を除く青銅聖闘士たちがアテナのお仕置きを受けるという、実に理不尽な事態が現出していたに違いなかった。


それが自分のものであれ、自分以外の人間のものであれ、人間の人生の岐路は どこにあるか わからない。
何もしていない(つもりの)人間が、他人の人生を180度 変えてしまうこともある。
そんな事態が起こるのは、この地上で 人が 誰も ただ一人で生きてはいないから――と言っていいだろう。
だから、生きていることは面白いのだ。
たった今、星矢の怒り満載の流星拳から命がけで逃げまわっている龍座の聖闘士に そう思うだけの余裕があるかどうかは、余人には窺い知ることはできなかったが。






Fin.






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