氷河の生活は不規則――主に日中 労働に従事し、夜間に睡眠をとる会社員の生活とは異なるという意味で不規則――である。
が、子供が起きている時間に会社にいる一般の会社員に比べれば、氷河は ナターシャとの親子のコミュニケーションのための時間は、実は はるかに多く持つことができていた。
その日、“パパ”の待つ家に帰ると、ナターシャは 早速 氷河に尋ねてみたのである。
ナターシャには想像もできないものを、“パパ”は知っているのか。
その謎について知ることは 少し恐くもあったが、それでも。
「パパ。瞬ちゃん先生は優しいよね」
「瞬は世界一優しい人間だろう。瞬ほど優しい人間を、俺は知らない」
“パパ”は、いつも瞬を綺麗だと言い、優しいと言う。
その日の氷河の答えも、いつもと同じだった。

「パパより?」
という質問には、暫時 考え込む素振りを見せたが、結局、
「パパより優しいだろうな」
という答えが返ってきた。
瞬や吉乃と入る どんな店にもない甘いピンク色のジュースが入ったグラスをテーブルの上に置き、ナターシャは少し緊張して 次の質問を氷河に投げかけてみたのである。
「瞬ちゃん先生を本気で怒らせたら、どうなるの?」
と。
それは衝撃的な質問だったらしい。
それまで ナターシャと同じテーブルの向かいの席で コーヒーを飲んでいた氷河は、カップを戻す位置の目算を誤ったらしく、ソーサーとカップで かちかちと落ち着かない騒音を作り、真っ青になって、掛けていた椅子から立ち上がった。

「ナ……ナターシャ! おまえ、瞬を本気で怒らせるような、そんなことをしたのかっ」
テーブル越しとはいえ、高いところから、怒声なのか悲鳴なのか わからないような声をぶつけられて、ナターシャはびっくりしてしまったのである。
そんなふうに取り乱す氷河の姿を見るのは、ナターシャは これが初めてだった。
大声への怯えより、驚きの方が先に立つ。
「ま……まだ してない」
ナターシャは慌てて首を幾度も横に振った。
氷河が ほっと安堵の息を洩らし、改めて椅子に腰を下ろす。
「なら、何よりだ。まだしていないなら、これからもするな。そんなことをしたら、大変なことになる。絶対だぞ。パパと約束できるな?」
「ん……うん……はい」

『一度、パパに訊いてみて。僕を本気で怒らせたら どうなるの? って』
どうなるのかは わからないが、とにかく 大変なことになるらしい。
何が起こっても、誰に対しても 慌てた姿を見せたことがなく、ナターシャに対しては いつも優しい眼差しを向けることしかなかった氷河が、これほど取り乱し、大声をあげるほど――それは大変なことなのだ。
それが どんなふうに大変なことなのかを想像もできないことが、ナターシャを不安にした。


「紫龍おじちゃん。瞬ちゃん先生を本気で怒らせたらどうなるの?」
パパは優しいから、普通以上に“大変なこと”を恐れているのかもしれない。
あの瞬ちゃん先生が、まさか怪獣になるわけではないだろう。
そう考えて、ナターシャは、同じことを紫龍にも尋ねてみたのである。
紫龍は、ナターシャが知る限り、氷河の友人の中では いちばんの大人だった。
瞬ほど親しみやすくはないが、非常に礼儀正しく 社会の決まり事を重視する分、安心と信頼を感じさせる人物。
当然、“紫龍おじちゃん”は“パパ”よりは落ち着いた反応と答えを示してくれるだろうと、ナターシャは思っていた。
のだが。

「しゅ……瞬を本気で怒らせる !? そ……そんなことをしたのかっ !? 」
案に相違して、“紫龍おじちゃん”の反応は、氷河のそれと大同小異。
ナターシャは、またしても、いつも落ち着いて礼儀正しい紫龍おじちゃんが 取り乱す姿を 初めて見ることになってしまったのである。
その長い髪が 今にも天に向かって逆立つのではないかと心配になるほど 慌てふためいている紫龍に、ナターシャは 急いで首を横に振った。

「そんなことしてないよ! で……でも、パパが、絶対に瞬ちゃん先生を怒らせちゃいけないって。そんなことをしたら 大変なことになるっていうから、どんなことになるのかなあ――って……」
「あ……ああ、そういうことか」
紫龍が安堵の息を洩らすと、地球の重力に逆らいかけていた彼の髪もまた 安心したように静かになった。
氷河のものとも 瞬のものとも違う思慮深げな漆黒の瞳が、ナターシャの顔を真面目に見詰めてくる。

「氷河の言う通りだ。瞬を本気で怒らせるなんて、そんなことは決してしてはならん。ナターシャは いい子にしていなければならない。ナターシャ自身のためにも、氷河のためにも、この世界のためにも」
「世界?」
もしかしたら瞬は、本気で怒ると 本当に怪獣になってしまうのだろうか。
ナターシャは さすがに――それこそ本気で恐くなってきてしまったのである。
幸い、びくびくしているナターシャに気付くと、紫龍はすぐに いつもの穏やかな微笑をたたえた大人に戻ってくれたが。

「あ……いや、不必要に恐がることはない。本気で怒らせるようなことをしさえしなければ、瞬は世界一 優しい人間だ。ナターシャがいい子にしている限り、瞬はナターシャに優しくしてくれるし、命をかけて ナターシャを守ってくれるだろう。あんな顔をしているが、瞬は、氷河より よほど頼りになる」
多分、その言葉は事実なのだろう。
紫龍おじちゃんは、嘘を言うような大人ではない。
だが。
どんなことをすれば、瞬を本気で怒らせることになるのか。
それが わからないことが、ナターシャの心を怯えさせたのである。






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