「パパや紫龍おじちゃんに訊いてみたの。瞬ちゃん先生を本気で怒らせたら、どうなるのって」 ナターシャが瞬に そんな報告ができるのは、瞬が恐くないからだった。 「何て言ってた?」 にこにこ笑いながら 尋ねてくる瞬は、たとえ怪獣になっても優しいままだろうと思うから。 「真っ青になって、絶対に そんなことはするなって。紫龍おじちゃんは、ナターシャとパパと世界のために、瞬ちゃん先生を怒らせちゃ駄目だって言ってた」 「世界のため? もう……大袈裟なんだから」 ナターシャが タクシーより電車の方を好きなのは、窓から見える景色が 車のそれより 電車のそれの方が面白いから。 そして、駅に着くまで、電車に乗っている間、パパや瞬たちと手をつないでいられるから――だった。 つないでいる手から伝わってくるものは、手をつなぐ相手によって変わった。 厳しさ、優しさ、悲しみ、楽しさ――確かに違うと思うのに、その違うものたちは どれも、ナターシャを幸福な気持ちにしてくれた。 だから、ナターシャは 氷河や瞬たちと手を つなぐのが とても好きだったのである。 「パパは、今日は とーっても苦いお酒を買いに行ったの。僕たちは うーんと甘いケーキを食べに行こうか? 和菓子も そろそろ冬期のものが出始めているけど……。6時にヨコハマ集合だから、時間はたっぷりあるよ」 「こないだ、吉乃お姉ちゃんと カボチャのお菓子をいっぱい食べたよ。カボチャのタルトとプリンとクッキー」 「ハロウィンのフェアだったんだね。じゃあ、今日は それ以外のがいいかな」 ナターシャと瞬が降り立ったのは、高層ビルが林立している街の駅。 瞬は、たくさんあるビルの中の一つを、ナターシャに指し示した。 「あのホテルのいちばん上の階にあるレストランで、秋スイーツのフェアをやってるの。栗にブドウに柿、梨、リンゴ。小さなケーキをたくさん食べられるよ」 「わあい」 嬉しいのは、“小さなケーキをたくさん食べられること”ではなく、“瞬と一緒に、小さなケーキをたくさん食べられること”。 瞬が、ナターシャの語る“パパの話”を 誰よりも楽しそうに聞いてくれるからだった。 ナターシャが大好きな人を、瞬も大好きでいてくれることが わかるから、ナターシャは瞬といるのが大好きだった。 そして、瞬と一緒にいると、誰もが――それが見知らぬ通りすがりの他人でも――二人に優しい目を向けてくれるから。 『それはナターシャちゃんが可愛いからだよ』と瞬は言ってくれるが、そうではないことを、ナターシャは知っていた。 氷河やシュラといる時には、そんなことにはならないのだ。 『瞬先生とナターシャちゃんが一緒にいると 微笑ましい――っていうか、心が和むから』という吉乃の言葉が“当たり”なのだろうと、ナターシャは思っていた。 そのホテルでも、瞬とナターシャの姿を認めると正面玄関に立っていたドアマンが目を細めて、『いらっしゃいませ』を言ってくれた。 そこまでは、いつも通りだったのである。 事件が起きたのは、瞬とナターシャが向かったエレベーターホール。 たまたまエレベーター・スターターがいないところに、慌てた様子の老婦人がやってきて、瞬に、 「最上階に行くには、どれに乗ればいいんでしょう」 と尋ねてきたのだ。 ちょうど 最上階直行のエレベーターが1階についたところで、ホールで待っていた客たちが中に乗り込んでいく。 「こちらですよ。お先にどうぞ。僕たちは急ぎませんので」 エレベーターには既に かなりの客が乗り込んでいたので、瞬は その老婦人に先を譲った。 「すみません、ありがとうございます。夫が最上階のフロアで待っているはずで……」 老婦人が瞬に礼を言い、エレベーターの中に乗り込もうとした時、その老婦人を押しのけてエレベーターに乗ろうとする男が現れたのである。 「どけっ」 どこから何をどう見ても、このホテルには似つかわしくない客。 なぜ そんな男が このホテル内に入ってこれたのかと、誰もが疑うような男だった。 既にエレベーターに乗り込んでいた客たちは 一様に、こんな男とは同乗したくないという顔になったが、だからといって このタイミングでエレベーターから降りれば、それはそれで 嫌がらせを受けそうで、誰も固まって動けない。 「Rホテルも こんな人を入れるなんて、格が落ちたわね」 ホールにいた女性客が連れの男性に囁いたが、このホテルに似つかわしくない男に ぎろりと睨まれ、彼女は口をつぐんでしまった。 エレベーターを操作しているオペレーターは、こういった悶着に出会った経験のない駆け出しのスタッフらしく、どう対処すればいいのか わからず 顔を強張らせている。 その場で緊張していないのは、(おそらく)瞬一人だけだった。 エレベーターに乗り込もうとしていた男の二の腕を掴んで、瞬が その男をホールに引っ張り出す。 柄の悪い男は、自分が なぜ こんな細い腕の持ち主に抵抗できず エレベーターの外に引きずり出されたのか 全く理解できないという顔をしていた。 そんな男を無視して(だが、彼を掴んだ手は離さずに)瞬が老婦人にエレベーターに乗るよう促す。 「どうぞ。お急ぎなんでしょう?」 「あ……あの……でも……」 「大丈夫です」 老婦人に にっこり微笑いかけて、瞬は オペレーターに ドアを閉じるように 目配せをした。 オペレーターが不安そうな目をして、だが、瞬の指示に従う。 エレベーターが動き出すと、男は 盛大に舌打ちをして、瞬を脅してきた。 「ねーちゃん。何の真似だ」 「一緒に静かに次を待ちましょう。それができないなら、外に お連れしますが」 「てめぇ、ただの客だろ。何の権利があって、こんな真似をしてくれるんだ? こちとら、急いでんだよ」 「“こちとら”って、なあに?」 ナターシャが瞬に尋ねたのは、もちろん、それが初めて聞く言葉だったからである。 そして、瞬が、特段 慌てた様子もなく、その顔に微笑を浮かべたままだったから。 顔を歪め、こめかみを ぴくぴくと引きつらせている その男が 恐くないわけではなかったのだが、それは 知識欲の方が先に立つ程度の恐さだったのだ。 瞬が、その男の自由を奪ったまま、ナターシャに『こちとら』の意味を教えてくれた。 「“こちとら”っていうのは、“こっちの人は”っていう意味だよ。“自分は”っていう意味」 「なんだか可愛い。こちとら」 「うん。可愛いね。でも、それは ナターシャちゃんみたいに小さくて優しい女の子が使っちゃいけない言葉だから、ナターシャちゃんは そんな言葉を使っちゃ駄目だよ。氷河がショックで卒倒しちゃう」 「“そっとう”って なあに」 「びっくりして倒れちゃうこと。パパがそんなことになったら、ナターシャちゃん、困るでしょう」 「うん。ナターシャ、きっと、起こしてあげられない」 ナターシャは そうなった時のことを真剣に心配して 真面目に答えたのだが、瞬は そんなナターシャに微笑で応じてきた。 エレベーターに乗り損ねた男は、この状況で 二人がなぜ そんなふうにのどかにしていられるのかが わからなかったらしく、暫時 呆けていたが、すぐに気を取り直して、再度 瞬に脅しをかけてきた。 「おい、ねーちゃん。女だからって、俺が見逃すと思ったら大間違いだぞ」 「他の お客様に 迷惑です。大きな声を出さないで。こちらに」 笑顔を絶やさず、瞬が男の腕を引いて、ホールの奥に連れていく。 「ねーちゃん、どういう つもりだ」 全く力を入れていないようなのに、“ねーちゃん”の手を振りほどけない。 おまけに、なぜか息苦しい。 突然 周囲の空気が薄くなったような気がする。 己れの身に何が起こっているのか理解できずにいるらしい男に、ナターシャは、 「瞬ちゃん先生は おねーちゃんじゃないよ」 と教えてやった。 初めて 瞬に引き会わせられた時、ナターシャは そのことをパパから教えてもらったのだ。 「なに?」 「この子の言う通り、僕は“ねーちゃん”ではありません。でも、それは忘れてくださって結構です。全部、忘れてくださいね。そして、これからは もう少し 人に迷惑をかけない振舞いを心掛けてください。その方がスマートですよ」 初めて まともに瞬と目を会わせた途端、男は思考を形作ることができなくなった――瞬が、そうなるようにした。 息苦しさは解消されたが、自分が ここにいる訳を思い出せない。 彼にできることは、瞬の忠告(?)に、 「はい……」 と素直に頷くことのみ。 そして、 「では、このまま、このホテルから出ていって」 瞬の命令に ただちに従うことだけだった。 催眠術でもかけられたような足取りで、男が ふらふらと正面玄関に向かって歩き出す。 男の姿が見えなくなると、エレベーターホールにいた少数の客たちは一斉に安堵の息を洩らした。 「変な おじちゃんだったね。みんな、恐がってたみたい。瞬ちゃん先生は恐くなかったの?」 「みんなを恐がらせるのは よくないからね。ナターシャちゃんのパパも、ああいう乱暴な人なら、容赦なく叱るんだけど」 「あんなふうにならなきゃ、パパはナターシャを叱ってくれないの? なら、ナターシャ、叱ってもらえなくていい」 「ふふ。ナターシャちゃんは、本当にお利口で いい子だね」 瞬に褒めてもらって、ナターシャは すっかりご機嫌。 しっかりと瞬と手をつないで、ナターシャは瞬と共に 次のエレベーターに乗り込んだのである。 二人がエレベーターでレストランフロアに上がっていくと、最上階のエレベーターホールには、あの老婦人がいた。 瞬の身を案じて、瞬が来るのを待っていたらしい。 瞬の無事な姿を見ると、彼女は 長く深い息をついた。 「先程は、ご親切に どうもありがとうございました」 彼女の背後に 綺麗な白髪の男性が立っていた。 老婦人が話しかけている相手には注意を向けず、老婦人だけを見詰めている。 もしかすると彼は軽度の認知症を患っている――のかもしれなかった。 それで、彼女は慌てて夫を探していたのだろう。 「無事に お会いできたようで何よりです」 余計な詮索をしない瞬を見やり、老婦人が 少し切なげな微笑を作る。 そうしてから彼女は、その微笑を隠すように、ナターシャの上に視線を落としてきた。 「お嬢ちゃん。綺麗で優しいママでよかったわね」 「瞬ちゃん先生はママじゃないの。ナターシャにはママはいないの」 「あら……じゃあ、お姉さん?」 「お姉さんでもないの。瞬ちゃん先生は、ナターシャのパパのお友だち」 「え……」 老婦人が 一瞬 戸惑ったような顔になり、 「あ、いえ……」 瞬は、彼女より もっと戸惑ったのである。 瞬にとっては幸いなことに、彼女は――彼女も――“余計な詮索をしない”という美徳を備えている女性だった。 「いろいろ事情がおありなのね」 「あ……はい」 「きっと、何もかも うまくいきますよ」 「はい」 “余計な詮索をしない”老婦人が、瞬とナターシャの関係をどういうものだと察し、そんなことを言ったのか。 まさか 彼女に尋ねるわけにもいかず、瞬は、彼女に会釈をし、そのまま老婦人と別れたのである。 秋スイーツフェアのマロングラッセと3種類のブドウのタルトが、特にナターシャの気に入ったようだった。 |