それは若い男のようだった。
この島では聞いたことのない声。
姿が漆黒の影のように見えるのは、彼が 残照を逆光にして立っているから。
だが、そんな光がなくても、もともと彼の姿は すべての色を自らの内に吸収してできる闇の色をしているようだった。
そんな黒色の男が、
「そなたに生きていてもらわぬと、余が困る」
と瞬に告げてくる。

奇妙なことに、その声は、彼の身体のあるところからではなく、もっと高いところ、あるいは もっと低いところ――虚空か、地面の下から発せられているように。瞬には聞こえた。
彼は おそらく、実際に この場にはいない。
彼は幻想――本当に影なのだと、瞬は思ったのである。

「あなたは誰」
瞬の誰何すいかを漆黒の影は無視した。
「そなたの、迷い悩む 清らかな魂が、余には必要なのだ」
無視して、自分の言いたいことだけを、影は繰り返す。
それで 瞬は、この島に来る以前、自分が大人たちに まともな人間として遇してもらえずにいたことを、ふと思い出してしまったのである。
では、この黒い影の人物(?)も、そういう心の持ち主なのだろう。
対峙する人間を、対等な存在として――否、それ以前に、そもそも心と意思を持った一人の人間として――扱ってくれない相手に、自分は どういう態度を示すのが適切なのか。
それは瞬には難しい問題だった。
瞬が適切な態度を示すまでもなく、そこに瞬がいることに気付いていないかのように――だが 確かに瞬に向かって――彼は勝手に 彼の語りたいことを語り続けてくれたが。

「そなたには生きていてもらわなければならぬ。そなたが死ねない理由、そなたが生き続ける理由を、余が そなたに与えてやろう。冥府の王ハーデスが じきじきに。余の親切と配慮に感謝するがよい」
「……」
『あなたは誰』と問われた時には答えず、訊いてもいない時に 名を名乗ってくる。
礼儀を知らないのか、気まぐれなのか。
承認欲求が強いのか、その自覚があるのか、ないのか。
それは瞬には 判断できなかったが、この謎めいた黒い影の正体が冥府の王ハーデスとは。
『アテナ以外のギリシャの神々は ほぼすべて、人間と人間が作り出す世界を快く思っていない』と、アルビオレに聞いていた瞬は、彼が、今は どんな力も持っていない ちっぽけな一人の人間に“親切と配慮”を示す理由が わからなかった。
想像することもできなかった。

『そなたに生きていてもらわぬと、余が困る』
『そなたの、迷い悩む 清らかな魂が、余には必要なのだ』
それは いったいどういうことなのか。
自分が言いたいことだけを言う冥府の王の表情を確かめようと、瞬が 目を凝らした時。
闇の色に染まりかけていたアンドロメダ島の海上の空に、突然、不可思議な光景が映し出された。

その光景(映像?)の時刻は 夕暮れではないようだった――つまり“今”ではない。
もちろん、アンドロメダ島のどこかの光景でもない。
人工の灯りはないのに、その場所は明るい。
白い石の壁によって作られている空間。
どこかの神殿。
だが、遺跡ではない。
そんな空間の中央に、透き通った直方体の箱が置かれている。
最初に 瞬が それを人形ケースのようだと思ったのは、箱の中に人型の動かないものがあったから。
城戸邸にいた頃、同じような透明のケースに入れられた 古い高価な人形(と、メイドの一人が言っていた)を、誕生日に城戸翁から贈られて喜んでいる沙織の姿を見たことがあったからだった。
それが人形でないことに、瞬は まもなく気付くことになったが。

周囲に石の壁しか認められないせいで、瞬は そのケースの大きさを見誤っていたのだ。
透き通ったケースは大きかった。
そして、中にいるのは人形ではなく、本物の人間だった。
金色の髪をした若い男。
身につけているものが聖衣のようだったので、瞬は その人物をアルビオレなのかと思ったのだが、そうではなかった。
聖衣が違う。
だが、瞬は、師の他に 金色の髪を持つ男性を知らなかった。
子供なら一人だけ知っているが――と、思うともなく思ってから、瞬は背筋が凍りついてしまったのである。

瞬の知っている金髪の子供――彼は今、何歳になっているのか。
瞬の上を通り過ぎていった6年の年月が 瞬を幼い子供でなくしたように、彼もまた 今頃は6年分 大人になっているはず。
ケースの中の人間は目を閉じていて、その瞳の色までは確かめられなかったが、それは改めて確かめるまでもないことだった。
彼には 幼い頃の面影が残っていた。

「氷河……?」
正しい大きさが把握できると、何もかもが見えてきた。
彼の足は大地を踏まえていない。
氷河の身体は、透明なケースの中で、重力に逆らい 宙に浮いているように見えた。
それは つまり、ケースの中が空洞ではないということである。
水ではない――おそらく、信じ難いほどの透明度を持った氷。
そして、彼は その中で微動だにしていない。
では、彼は死んでいるのか。
だとしたら、なぜ そんなことに。

「氷河……氷河、しっかりして、氷河!」
確信をもって、その名を呼ぶ。
冥府の王は、冷たいのに楽しげな――嘲笑的といえばいいのか、冷笑的といえばいいのか――そんな声で、彼が空のスクリーンに映し出した映像が何であるのかを、瞬に教えてくれた。
「取り乱す必要はない。この男は、まだ死んではいない。この男が氷の棺に閉じ込められるのは、まだずっと先のことだ。といっても、1年以上 先のことではないが。近い将来――といったところか」
「氷の棺……? なぜ氷河が そんなものに閉じ込められるの。あなたが氷河をこんな目に会わせるのっ」

瞬に責められて――それがハーデスには心外なことだったらしく、彼の声は ひどく不機嫌なものになった。
「なぜ、余が このようなことをするんだ。この者は、この者の師によって――いや、この男は、自ら 望んで この氷の棺の住人になるのだ。生きること、戦うことを、自ら放棄して。今のそなたのように」
「今の僕みたいに……?」
なぜ氷河が 自ら死を選ぶようなことがあるのか。
彼は、“泣き虫瞬ちゃん”とは比べものにならないほど強い子供だったではないか――。
ハーデスの言葉を、瞬は疑った。
それは瞬には容易に信じ難いことだったのだ。

しかし、瞬は すぐに その疑いを振り捨てたのである。
強い子供も、つらいこと、悲しいこと、苦しいことに出会うことはあるだろう。
心弱くなることも、生きることに意味を見い出せなくなることもあるに決まっていた。
強い子供も、泣き虫の子供も、心を持つ一個の人間という点では同じ存在なのだから。
自分以外の人間には つらく悲しく空しい出来事が降りかかってくることはない――と思う方がどうかしている。
自分以外の人間は、迷い悩み苦しむことはない――と思う方がどうかしているのだ。

「近い将来……氷河は、今はまだ生きているの」
「うんざりするほど元気だ」
「あ……」
『よかった』と胸中で安堵してから、瞬は そんな自分の心の――感情の矛盾に気付いた。
自分は生き続けることを やめようとしているのに、自分以外の人間には生きていてほしいと願う。
氷河が生きていてくれてよかったと思う。
こんな矛盾があるだろうか。

「安心するのは、まだ早い。この者は 近い将来、生きること、戦うことを諦め、自ら望んで 氷の棺に閉じ込められることを選ぶのだ。そして、この者を 氷の棺の凍気から蘇生させることができるのは そなただけだ。そなたがアンドロメダ座の聖闘士にならねば、この者は死ぬ。そなたの小宇宙でなければ、この者は蘇生できぬ。このまま、この者の命と心は 永遠に凍りついたままだ」
「僕がアンドロメダ座の聖闘士にならなければ? 僕の小宇宙でなければ……?」
「この者だけではないぞ。そなたが聖闘士にならなければ、そなたの仲間たちは皆、この者の死と前後して、その命を落とすことになるだろう」
「氷河だけじゃなく、みんなが……?」

なぜ そんなことになるのだろう。
たった一人、心弱い人間が この島で死ぬことで、懐かしい仲間たちが皆、命を落とす。
そんなことがあるはずがなかった。
瞬の仲間たちは誰もが、“泣き虫瞬ちゃん”より はるかに強い子供たちだったのに――。
瞬が言葉にせずにいた疑念に、ハーデスは再び“親切と配慮”を示してくれた。
「そなたの仲間たちが全員 揃わなければ、アテナはアテナとしての力を振るうことができないのだ。アテナがアテナたり得ない世界では、そなたの仲間たちは死ぬしかない。地上も――アテナではない邪悪の者に支配され、その者もまた、余によって滅ぼされるであろう。今ここで、そなたが生きることを諦めることは、そなたの仲間たちへの死の宣告になる――ということだ」

「そんな……」
アテナに敵対する神であるらしいハーデスの言葉を、どこまで信じていいものか。
迷い悩むことが 自分の唯一の得意技――自分だけの得意技。
いつも自嘲するように そう思っていた瞬が、その得意技の行使を 即刻中断したのは、ハーデスの言葉の真偽がどうであれ、嘘でない可能性が僅かでもあるのなら――氷河の生、仲間の生に、自分の生が少しでも関与し、自分に仲間たちを救える可能性があるのなら、その可能性を捨てるわけにはいかないと思ったからだった。
氷河を救うため、仲間たちの命を守るため、彼等の死の運命を変えるために、自分は何としても聖闘士にならなければならない。
自分自身の命は終わってしまってもいいと思うのに、仲間たちには生きていてほしい。
矛盾した その強い思いが、瞬をアンドロメダ座の聖闘士にした。






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