一輝と瞬が暮らしている家は、氷河のマンションから徒歩10分ほどのところにある小さな一軒家だった。
なんでも、家主が、空き家対策特別措置法の対象となる事態を回避するため、ただ当然で貸してくれているらしい。
空き家認定されて 区から解体命令を出され、高額の費用をかけて家を解体し、あげく、更地として住宅の6倍の固定資産税を課されるくらいなら、ただでも住んでくれる人間が欲しい家主と、いくらでも安い賃料で家を借りたい一輝たちの利害が一致して、そういうことになったらしい。
庭にも外観にも 瞬の手入れが行き届いている築30年の家は、“空き家”という言葉のイメージから かけ離れた小綺麗な家だった。

掃除が行き届き、花まで飾られている、その家のリビングに集合した瞬の仲間たちは、いつもの偉そうな態度は どこへやら(それでも偉そうに見えるのが不思議だったが)、(一応)あたふたしている瞬の兄に、彼が 瞬の不在を家出と決めつけることになった事情を問い質したのである。
「瞬の家出に心当たりは あんのかよ?」
問われたことに、
「ない!」
と偉そうに断言してから、一輝は 昨夜の兄弟の やりとりを、仲間たちに語り始めた。
それによると。

夕べ、一輝は、思い詰めた様子の瞬に、
『どうすれば、僕は、兄さんに誇りに思ってもらえるような弟になれますか』
と尋ねられたのだそうだった。
瞬は突然 何を言い出したのかと訝りつつ、一輝は、
『何もする必要はない』
と答えた。
いったい その答えの何が悪かったのか、兄の答えを聞いた瞬が、ぽろぽろと涙を零し始め、一輝は いつも通り、
『泣くな! 惰弱な!』
と、瞬を叱りつけた――らしい。

「で、今朝、そろそろ朝飯ができた頃だろうと思って 起きてきたら、飯ができていない。飯ができていないどころか、作った気配すらない。具合いでも悪いのかと案じて 瞬の部屋に行ったら、そもそも 瞬の姿がない。瞬が俺に何も言わずに姿を消すとしたら、誘拐か家出しかないだろう。だが、俺の弟が、たかが誘拐犯ごときに 大人しく誘拐されたりするはずがない」
ゆえに一輝は、極めて不本意ながら、これは家出だと判断せざるを得なくなった――ということらしかった。
「まあ、飛び道具でも持っていない限り、誘拐犯の一人や二人、瞬なら簡単に撃退するよなー」

そんな弟を惰弱呼ばわりできる一輝の方が間違っているのだ。
瞬は、大人しく控えめで、その姿は 野に咲く白百合もかくやとばかりに優しく楚々としたものだが、決して弱いわけではない。
瞬が惰弱なら、人類の99.99パーセントが惰弱以下である。
瞬は弱くはないのだ。心も身体も。
ただ、瞬が 本当に非力で幼い子供だった頃、兄に庇われ守られていた記憶が鮮烈に過ぎるあまり、尋常でなく 兄を敬愛しているだけで。

「おまえ、あんな出来のいい弟がいて、何が不足なんだよ。瞬は、おまえの自慢の弟になりたくて、一生懸命 頑張ってんのに」
瞬の強さを知っている星矢としては、瞬の身の安全を真面目に心配することができない。
瞬の身を案じる代わりに、星矢は瞬の兄を責めることをした。
「不足などない」
一輝が ぶっきらぼうな顔と声で答えてくる。
瞬が兄に何も言わずに姿を消したのである。
仲間で友だちなら、まず瞬の身を案じるべきで、瞬の兄の言動の是非について あれこれ言うのは後まわしにしてほしい――と思い、一輝は 悠長に瞬の兄を責めてくる星矢に 少なからず苛立ちを覚えたようだった。

「何をしても無駄というのは、今のままで十分という意味だ。もう最高の弟で、自慢の弟だから、何もする必要はないと、俺は言ったんだ!」
「何もする必要はないと結論だけ言わずに、その理由も言ってやれば、瞬も家出などしなかったろうに」
「自慢の弟でも、実際に自慢しなきゃ駄目なんだよ」
「……」
暫時 一輝が言葉に詰まった様子を見せたのは、彼が、紫龍や星矢の意見に ある種の妥当性を認めたからだったろう。
とはいえ、ここで 星矢たちに反省の意を示しても、瞬が帰ってくるわけではない。
そう考えたのだろう一輝は、『ごめんなさい』の『ご』の字も口にしなかった。
そうする代わりに、彼は、再度 瞬の仲間たちに確認を入れた。
主に、氷河を睨んで。

「本当に おまえらのところには行っていないのか」
一輝が氷河を疑うのは、もちろん、氷河が常日頃から、自分の許に来るよう 瞬を勧誘(?)していることを知っているからである。
「瞬が俺のところに来てくれていたら、わざわざ こんなところに来るか」
氷河が一輝以上に不機嫌そうに、実に尤もな答えを口にする。
「一輝。瞬の行きそうなところに、他に心当たりはないのか」
紫龍が 険悪な二人を なだめるように 一輝に尋ね、尋ねられた一輝は、
「瞬は、人に迷惑をかけるようなことはできない奴だ。おまえら以外の誰かのところに転がり込むとは思えん」
と、呻き声と唸り声を兼ねているような声で呻き、唸り、頭を左右に振った。

「施設の方に戻っているということはないか? ある意味、あそこは瞬の実家だ」
「電話で確認した。行っていないそうだ」
「出ていったのは夕べか? 今朝になってからか?」
「多分、夜のうちだ。ベッドに寝た気配がなかった。朝 出ていったのなら――瞬なら 俺の朝飯の支度をしてから出ていくだろう」
「そりゃ そーだ」
瞬が家を出ていった時刻を“夜のうち”と判断せざるを得ない状況だから、一輝の憂心と焦慮は深刻であるらしい。
夜遊びなど したことのない瞬が 昨夜を どこで どんなふうに過ごしたのか、一輝は それが案じられてならないようだった。

「寝た気配がないだけでなく、金を持って出た様子もないんだ。財布もカードも携帯も、すべて部屋にあった。コートや上着の類も全部 残っていて、どんな服装で出ていったのかもわからんから、捜索願いを出すにも――」
「いや。さすがに捜索願いを出すには早すぎるだろう。警察に行っても、瞬の人となりを知らない警察官は、一晩 家に帰らないくらい、今時の高校生には よくあることと、取り合ってもくれないだろう」
「女の子なら ともかく、瞬は あれでも れっきとした男だしなー」

『瞬は普通の“今時の高校生”ではないし、普通の“れっきとした男”でもない!』
一輝は そう言いたげな顔になった。
さすがに、声にして言うことはしなかったが。
『俺の弟は、“普通の高校生”より10万倍も真面目で、“普通の女の子”より100万倍 可愛いから 心配なんだ!』
という本音を、たとえ10年来の仲間の前でも言葉にしてしまえないのが、一輝という男だった。
そういう振舞いは、一輝にとっては、それこそ惰弱の極み、男らしくない行為以外の何物でもないのだ。

つくづく不幸な性格の男だと、星矢は思ったのである。
が、一輝の そういうところを、星矢は そう嫌いではなかった。
一輝は、傲慢な男でも、我儘な男でも、悪い男でもないのだ。
ただ、とにかく 性格が面倒なだけで。

「多分さ、家で泣くと、また おまえに惰弱って言われるから、外で泣こうと考えたんじゃないか? 瞬なら、どんなに遅くても、夕飯の準備しなきゃならない頃には戻ってくるだろ。瞬は馬鹿じゃないし、瞬が帰るところは おまえのところしかない。あの瞬が、まさか おまえに三食 自分でどうにかしろなんて、そんな無茶なことを求めるとは思えない」
「うむ。瞬は、たとえ 俺たちのところにでも、朝早くに押しかけるのは迷惑だと思うような子だ。もしかしたら、これから 俺たちの家に来るつもりなのかもしれん。だとしたら、俺たちは それぞれの家で待機していた方がいいかもしれないな」

瞬の人となりを熟知している 瞬の仲間たちの推察には 一理があり、信憑性がある。
それで 一輝は、少しは冷静になることができたようだった。
幸い(と言っていいだろう)、明日は 瞬たちの通う高校の創立記念日で 休校日。
最悪でも、明日までに瞬が帰ってくれば、学校の方には何も知らせずに済む。
そういった事情を考慮して、瞬の幼馴染みたちは、いったん解散、それぞれ自宅待機することにしたのである。

そんなふうに 一輝や星矢たちの間で善後策が話し合われている間、氷河が ほとんど口をきかずにいたのは、もちろん(?)、せっかく家出をしたにもかかわらず、瞬が自分の許に来てくれなかったから。
氷河は、その事実に目一杯 落胆していた。






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