事実は誰にもわからない――ミッドガルドと戦っていた氷河にも、それは わからないだろう。
事実は どうであれ、結果は一つ。
『ミッドガルドのままでいてもいい』と 瞬が叫んだ途端、氷河の苦しみは終わったのである。
固く握りしめていた拳を解き、氷河が その手で瞬の頬に触れる。
まるで昨日の眠りから いつも通り平和に目覚めた人間のそれのように 乱れた響きのない声で、氷河は瞬に尋ねた。

「瞬……なぜ泣いているんだ」
「氷河……」
「誰に泣かされたんだ。俺が仕返ししてやる」
真顔で そんなことを言うところを見ると、氷河は元の彼に戻った――ドルバルの洗脳は解けた――ものらしい。
瞬は 瞳に涙を浮かべたまま、首を左右に振った。
「誰にも……。これは嬉し涙だよ」
「嬉し涙……?」
瞬の答えを聞いた氷河が 怪訝そうに呟く。
氷河の洗脳は 記憶を消される類のものではなかったので、目覚めて時間が経過するにつれて 少しずつ、氷河は これまでの出来事の記憶が明瞭になってきたらしい。
寝起きでぼやけていた頭が すっかり覚醒すると、氷河は その顔を強張らせることになった。

「解けた! さすが、瞬の顔!」
そのタイミングで、星矢が やたらと軽い乗りの歓声をあげたのは、ここで氷河に深刻に落ち込み始められては困る――という、極めて現実的かつ切実な動機によるものだったろう。
「いや、せめて、ここは瞬の愛とか涙とか……」
「どれでも おんなじだって。顔でも愛でも涙でも」

ドルバルの神闘士たちのリーダー格のロキが倒され、氷河と瞬がアテナの陣営に復帰。
アスガルド側は二人、アテナ側は四人となって、形勢は一気に逆転した。
とはいえ、アテナは いまだにオーディーン・シールドに囚われたままなのだ。
氷河に ここで優雅に反省会など催されても困るのである。
それくらいなら 氷河には、瞬を泣かせた罪滅ぼしに、アテナの聖闘士としての務めを果たしてもらう方が ずっといい。
そう星矢は思った。
そう思って、星矢は 氷河に罪滅ぼしのチャンスを提供した。

「氷河。頭は はっきりしてて、記憶も鮮明なんだろ? なら、憶えてるよな? そこにいるドルバルの神闘士二人が、おまえに おまえの瞬の顔を殴らせようとしたこと」
「へっ」
突然 身に覚えのない罪科を負わされたウルとルングが、二人 揃って巣頓狂な声をあげる。
もちろん、そんなものを、星矢は無視した。
「ドルバルを倒しに行く前に、おまえ、そいつらを片付けちまえよ。なにしろ、そいつらは、おまえに瞬の顔を殴らせるなんて 悪逆非道なことをさせようとした極悪人なんだから」
「ペガサス、貴様、何を言っているんだ !? 」
星矢が何を言ってるのかといえば、それは俗に“嘘”と呼ばれるものだったろう。
しかし、その嘘は“正義”と同義のものなのだ。
なにしろ、それは、正義の味方であるアテナの聖闘士の立場と 地上の平和を守るための嘘なのだから。
氷河は もちろん、その正義の嘘を受け入れた。
自分と瞬と地上の平和を守るために。

「貴様等、よくも この俺に 俺の瞬の顔を殴らせようとしてくれたな!」
氷雪の聖闘士が、まるで瞬の兄のように全身に怒りの炎を まとわりつかせて、ウルとルングを怒鳴りつける。
地上の覇権と平和が かかった戦いの ただ中にいる闘士にあるまじきことだが、ドルバルの神闘士たちは、憤怒のアテナの聖闘士の前で 暫時 ぽかんと自失した。
つい数刻前まで 自分たちの味方だった男が、いったい何を言っているのかを理解できずに。
「いや、だから、それをしたのは、ペガサスで……」
「そうだ、そうだ。俺も、ペガサスが おまえを挑発するのを、確かに この耳で聞いたぞ!」
ウルとルングの訴えは 紛う方なき事実だったのだが、ドルバルの神闘士たちには気の毒なことに、氷河は 地上の平和を脅かす者たちの言葉に傾ける耳など持っていなかった。

「責任転嫁する気か! 星矢に瞬の顔を殴ることなどできるわけがない! ゆえに、星矢が俺に そんなことを命じることもない!」
「だとしても、おい、いや、だから、おまえら、支離滅裂だぞ! 記憶が混乱しているのかっ !? 」
「いつ 俺たちが、おまえにアンドロメダの顔を殴れなんて――」
改めて考えるまでもなく、ウルとルングには非があった。
そして、彼等は 愚かでもあった。
地上の平和を守る女神アテナと彼女の聖闘士たちに敵対したことが、彼等の非にして罪。
アテナの聖闘士たちが内輪揉めしている隙に さっさと敵対者たちを倒しておけばよかったのに、それをせず、のんきな傍観者でいたことが彼等の愚。
そういう意味で、確かに 彼等は アテナの聖闘士たちに倒されても致し方のない者たちだった。
だが、彼等が倒される理由は、“地上の平和を乱し、アテナを弑そうとする者に加担したから”であるべきで、決して“白鳥座の聖闘士に アンドロメダ座の聖闘士の顔を殴らせようとしたから”ではないはずだった。
現に、彼等は その罪を犯してはいないのだから。

「ミッドガルド、冷静になれ。おまえにアンドロメダの顔を殴れと言ったのは 俺たちではないだろう!」
氷河に“冷静になること”などを求めたのが、ウルの過ちだった。
そして、瞬とは似ても似つかない顔をしていたのが、ルングの不幸だった。
踊る間も惜しいとばかりに繰り出された、氷河のオーロラサンダーアタック。
ウルとルングは、怒りに燃えた氷河の敵ではなかった。
無実の罪で白い大地に倒れ伏すことになった二人の神闘士の無残な姿を認め、
「おし、残るは、首魁ドルバルただ一人!」
と、星矢がガッツポーズを作る。

「だが、これでは 一輝の出番が……」
と、紫龍は 登場のタイミングを逸することになった一輝の心情を案じたのが、まさか ここで、どこにいるのかもわからない一輝を『遠慮せずに出てこい』と呼ぶわけにもいかず、彼は その件に関しては それ以上の言及を避けた。
紫龍は避けるしかなかったのである。
いくら何でも それは間抜けにすぎると思ったから。
呼ぶ男も、呼ばれて出てくる男も。

ともあれ、氷河と瞬がアテナの陣営に戻れば、アテナの聖闘士たちには もはや憂いはなかった。
無論、戦うことを ためらう どんな理由もない。
星矢が 重い(くびき)から解き放たれたペガサスのようにワルハラ宮に向かって突進し、彼の仲間たちが そのあとに続く。
BGMは もちろん名曲ペガサス幻想だった。

星矢は、要するに、瞬の顔を殴らずに済むのなら、それでよかったのである。
瞬の顔を殴らずに済んだ安堵と喜びで 胸がいっぱいの星矢は、それこそ嬉々として ドルバルを殴った。
重点的に顔を殴った。
その上、アスガルドの主神オーディーンからのオーディーンローブの貸出し。
これで正義(?)が勝たないわけがない。
アテナはドルバルのオーディーン・シールドから解放され、地下牢に幽閉されていた司祭も無事 救出。
かくして、アスガルドと地上は めでたく再び 平和の時を取り戻したのである。


その勝利と平和を寿(ことほ)いで、その年のクリスマス、氷河は 瞬は二人でシベリアにオーロラを見にいくことを禁じられ、クリスマスパーティの余興として ミッドガルドの恰好でダンスを踊るという罰ゲームを科されたのだが、それは あくまでも瞬とのことを仲間たちに隠していたことへの罰であり、うっかりドルバルに洗脳され アテナとアテナの聖闘士たちに敵対してしまったことへの罰ではなかった。
ドルバルと彼の率いる神闘士たちとの戦いで、アテナの聖闘士たちに苦戦を強いたのは 氷河の裏切りではなかったのだから、それも当然のことである。

ドルバルと彼の率いる神闘士たちとの戦いで、アテナの聖闘士たちを窮地に追い込んだもの。
同時に アテナの聖闘士たちに勝利をもたらしたもの。
それは瞬の顔だったのだ。


『勝敗は常に顔で決まる』
けだし 名言である。






Fin.






【menu】