青い薔薇






「おやつの値段って大事だと思うだろ、すごく」
星矢が突然、至極 真面目な顔で そう言い出したのは、1年の最後の月。
あちこちのデパートやショッピングセンターで、会社員や公務員のボーナスを狙った歳末セールが始まった頃だった。
「え? おやつ?」
城戸邸ラウンジには紫龍や氷河もいたのだが、星矢の視線は まっすぐに瞬の上に注がれている。
星矢としては、自分にとって重大な問題である おやつの値段についての考察に、紫龍や氷河が真面目に付き合ってくれるとは思えないと判断した上での人選だったのだろうが、ふいに そんな話を振られた瞬は 少なからず驚くことになったのである。
が、興味のない話は(そういう時にだけ)クールに無視してのける氷河と違って、人の話を無視することのできない瞬は、とりあえず微笑を作って星矢に頷いた。
期待通りの瞬の反応に 気をよくした星矢が、早速、おやつの値段について 熱を込めて語り始める。

「たとえば、メーカー希望小売価格が10円のうまいボー。あれが ディスカウントで9円なら、10本で90円。定価で買うより、1本多く買える。8円なら、10本で80円。定価で買うより、2本多く買える。7円なら、10本で70円。定価で買うより、なんと4本も多く買える。おやつの値段の1円の違いは大きいんだよ!」
「う……うん、そうだね……」
星矢は うまいボーが食べたいのだろうか。
それなら、1円2円の値段の違いなど気にせず、好きなだけ買えばいいのに――と、瞬は胸中で こっそり思った。

青銅聖闘士たちが起居している城戸邸の主である沙織は、彼女の聖闘士たちのために それぞれに銀行口座を作り、カードも渡してくれている。
城戸邸にいる限り、衣食住に関して 個人的な支出は不要なので、瞬は自分の口座にどれほどの残高があるのか、ほとんど気にしたことはなかったが、氷河と外出した際の種々の支払いで問題が起きたことは、これまで一度もない。
つい ひと月ほど前にも、外出した先で、ドレスコードのある某フレンチレストランが有名パティシエを招いての秋冬のデザートフェアを催していたので、近くの紳士服店で吊るしのスーツを購入し、それを着用して店に入った。
ケーキ一つ食べるのに二人で10万以上の出費だったが、それで 沙織から特段の注意を受けることもなかった。
聖闘士になる以前、一介の孤児にすぎなかった幼い頃なら ともかく、今は、星矢は うまいボーの値段の1円の差異に神経を尖らせる必要はないのだ。
実際、星矢の話は昔の話だった。

「ガキの頃――星の子学園から ちょっと離れたところにさ、やたらと年季の入った駄菓子屋が3軒あったんだよ。同じ通りの あっちとこっちとそっちって感じで、割と近いとこに。で、その3軒の店が、それぞれ“宇宙一安い店”、“世界一安い店”、“町内一安い店”って看板 出してたんだ。看板つっても、ただの貼り紙だったんだけどさ。俺、宇宙一安い店が いちばん安いに決まってるって思って、いつも そこで おやつ買ってたんだけど、その選択って正しかったのかなー……って、ずっと気になってたんだよな。おまえ、どう思う? おまえなら、どの店で買ってた?」
「え……」
「普通、看板に偽りありだったら、そんな店、信用なくして潰れるもんだろ? でも、その3軒は ずっと昔からあった店で、俺が 星の子学園にいた3年間もずっと普通に駄菓子 売ってたんだ。変だろ? 変だと思うだろ?」
「……」

星矢は本気で そんなことを悩んでいるのだろうか。
瞬は、むしろ、そんなことを真顔で相談してくる星矢の真意について悩んでしまったである。
「気になって気になって、俺、ついに昨日、あの駄菓子屋のある通りに確かめに行ったんだよ。そしたら、3軒ともコンビニになってて、結局 確かめられなかったんだ。確かめられないとなったら、ますます 気になって気になって、夕べ 全然寝れなかった。瞬、どーにかしてくれよ! 俺は、宇宙一安い店と世界一安い店と町内一安い店のどこで おやつを買うべきだったんだ !? 」
「あ……あのね、星矢……」
瞬は、答えに詰まった。
星矢が求めている答えは、ウィットに富んだ笑えるジョークなのだろうか。
しかし、残念ながら、そんな気の利いたジョークは 思いつかない。
そして、もし万々が一、星矢が 本当に真剣に真面目に悩んでいるのだとしたら、正答を答えてしまうことは星矢を傷付けることにもなりかねない。

どう応じるべきなのかを迷い、しどろもどろになった瞬を見ていられなくなったらしい。
いかにも見るに見兼ねたといったていの紫龍が 脇から口を挟んできた。
「その問題は、あれだな。アテナの聖闘士の中で最も強い者は誰なのかという問題の答えを出そうとするようなものだ」
「アテナの聖闘士の中で最も強い奴? それって 誰なんだよ?」
一応 アテナの聖闘士だけあって、それは 星矢にとっては、うまいボーの値段以上に気になる問題だったのだろう。
星矢は すぐさま紫龍が持ち出した話題に食いついていった。

紫龍が さりげなく話の方向を変えてくれたことに ほっとして、瞬は こっそり安堵の息を洩らしたのである。
とはいえ、瞬は すぐにまた別の不安に囚われることになってしまったのだが。
紫龍が持ち出した話題は、“P≠NP予想”や“リーマン予想”並みに証明の困難な命題。
千日程度の戦いでは まず答えは得られず、それゆえ 迂闊に手を出してならない問題。
聖闘士が触れることはタブーとされている問題だったのだ。

「難しい問題だな。強さというものは 一定のものではなく、戦いの勝敗は 状況や対戦相手によって 流動的に変わるものだ。たとえば、青銅最強と言われている一輝も、瞬を倒すことはできない」
「誰が青銅最強だと?」
氷河が不機嫌そうにクレームをつけてきたが、紫龍は氷河のクレームをクールに無視した。
「アテナの聖闘士全員で総当たり戦をしたら、誰も全勝できないし、誰も全敗もしないと思うぞ。現に、十二宮戦では 黄金聖闘士が青銅聖闘士に負けたりもしているんだからな」
「そりゃ そーだ。けど、んでも、じゃあ、なんで黄金聖闘士は黄金聖闘士なんだよ? 強いからじゃないのか?」
「強さもあるだろうけど、経験とか 知性とか 洞察力や判断力とか――黄金聖闘士として認められるには、強さの他に、そういう優れた人間性が必要なんじゃないの? 源頼朝は 義経ほど戦上手じゃなかったし、徳川家康だって、別に剣の達人だったわけじゃない。でも、彼等は 武家の頭領として幕府を開いてる。そういうことなんだよ、きっと」

瞬は 至って本気で真面目に そう言ったのだが、星矢は 瞬の その発言に露骨に顔を歪めた。
「優れた人間性? 瞬、おまえ、本気で言ってんのか? 人間性なら、黄金のおっさんたちより 俺たちの方が はるかに上等だっただろ。そもそも 十二宮戦が起きたのは、黄金聖闘士の半数以上が、本物のアテナである沙織さんを アテナと認められなかったからだぞ。黄金聖闘士たちが まともな洞察力だの判断力だの、んなもの持ち合わせていたはずがない」
「そ……それは そうだけど、総合的に判断して、黄金聖闘士たちは、最高の聖闘士で、他の聖闘士のお手本というか、鑑というか、理想というか、そんなふうな存在で……」
故人は とりあえず褒めるもの。
功罪両面からの評価は、最低でも没後50年を待ってから。
――という日本的慣習の遂行に努めていた瞬は、話しているうちに 尋常でない空しさに囚われてきた。

「瞬……。おまえ、んなこと言ってて、空しくならないか?」
星矢に 心を見透かされて きまりが悪くなり、結局 瞬は口をつぐんでしまったのである。
聖闘士の鑑、理想の聖闘士、最高の聖闘士。
そんなものであることを 黄金聖闘士に求める空しさ。
しかし、でなければ、彼等は最高位の黄金聖闘士たり得なかったはず。
全員と言えないまでも、かくあるべきアテナの聖闘士の姿を体現した黄金聖闘士が一人二人はいて もよかったはずである。
だが、そもそも アテナの聖闘士の かくあるべき姿とは、どんなものなのか。
“P≠NP予想”や“リーマン予想”等 ミレニアム懸賞問題より 証明困難な“最強の聖闘士”決定命題。
その最強の聖闘士決定命題より 更に難しい“アテナの聖闘士の鑑”決定問題。
青銅聖闘士たちは、まずは“アテナの聖闘士の鑑”の定義から、その問題に取り組まなければならなくなってしまったのだった。






【next】