氷河は 別に、“理想の聖闘士”“聖闘士の鑑”と呼ばれるようなものになりたかったわけではない。
自分が そんなものだと思ったこともない。
それゆえ、『アテナの聖闘士の中に“聖闘士の鑑”といえるような聖闘士は一人もいない』という結論には、どんな不満もなかった。
事実 そうなのだろうとも思っていた。

“理想の聖闘士”とは どんなものなのか、“アテナの聖闘士の鑑”は誰なのか――などという問題を話し合うこと自体が無意味にして無益。
それは 話のための話。うまいボーの値段についてのディスカッションに比べれば多少は まし――という程度の、暇潰しのためのジョークでしかない。
そういう認識でいたのである、氷河は。
だから、その夜、沈んだ声で、
「僕は いつも戦うための覚悟が足りなくて、みんなの足手まといになってばかりいるよね……」
と 瞬に告げられるまで、“聖闘士の鑑”論争が 瞬の心に暗い影を落としていたことに、氷河は全く気付かずにいたのだった。

それを氷河の迂闊と断じるのは酷というものだろう。
話の発端は、メーカー希望小売価格が10円の うまいボーだったのである。
まさかメーカー希望小売価格10円の うまいボーのせいで、瞬が、
「地上の平和や人々の幸福を願う心だけじゃ、何もできない。人は――僕は、アテナの聖闘士として何もできない。そんな願いや愛は、聖闘士でなくても持てるものなんだから。僕は やっぱり、今でも みそっかすの落ちこぼれなんだね。つらい戦いを幾度も経験して、少しは強くなったつもりでいたのに、冥界でも 覚悟が足りないって カノンに叱られたし、僕は結局 何も成長していなかったんだ……」
と落ち込むことになるなどとは、氷河は考えてもいなかったのだ。

「そんなことはない。俺など、マーマに会いたいの一心で聖闘士になったんだぞ。そんな俺が 今でも聖闘士でいられるのは、おまえがいてくれたからだ。おまえが聖闘士だから、俺は、自分も聖闘士でいたいと思っているんだ」
無論、氷河は すぐさま 瞬の気持ちを浮上させるべく努めたのだが、氷河の その言葉は あまり功を奏さなかった。
少なくとも、氷河が望むように 瞬の心を動かすことはできなかった。
「そんなことないよ。氷河は……氷河は優しくて強い。ううん、優しいから強いのかな……」
「……」

頬を青ざめさせ、切なげに瞼を伏せている瞬。
とても 欲望に爛々と目を血走らせて押し倒せる雰囲気ではない。
もとい、流れで押し倒すことは可能なのだが、そんなことをしてしまうと、十中八九、瞬は『沈んでいる僕を慰め励ますために、氷河は そんなことをしてくれるんだ』と考える。
そして、それを 優しさゆえのことと解して、恋人に感謝するだろう。
だが、それは誤解なのである。
氷河が瞬を押し倒す動機は愛と欲望であり、その目的は 瞬を慰めることではなく、あくまでも瞬と歓びを共にしたいから。
絶対に 迷いや つらさを忘れ ごまかすためではない。
そうであってはならない――というのが、氷河の考えだった。






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