そうして、氷河の屋敷にやってきたのは、氷河の期待に反して やたらと綺麗な顔をした子供だった――人種の違いゆえなのか、あるいは、いわゆる“子供”より大きく澄んでいる瞳のせいなのか、とにかく、どう見ても 成人しているようには見えない人間だった。 瞬と名乗った、グラード財団総帥推薦のセクレタリー志願者に、氷河は失望したのである。 もとい、氷河が失望したのは、セクレタリー応募者ではなく、グラード財団総帥の方だったかもしれない。 「グラード財団総帥は、何か 誤解したと見える」 でなければ、城戸沙織は、シベリアの野生児が人間不信になりかけているのを見透かして(面白がって)、“尋常の人間”ではない人間を 氷河の許に送り込んできたのだ。 「俺は、有能で強面のセクレタリーが欲しかったんだ。そういうセクレタリーの斡旋を依頼したんだ。美人秘書を求めたわけじゃない」 氷河は狡賢くもなっていたので――その並外れた容姿を褒めて、氷河は 瞬に大人しく引き下がってもらおうとした――穏便に引き下がらせることを画策した。 瞬が、いかにも清純そうな目で 氷河を見詰め、食い下がってくる。 「僕では駄目ですか? 僕、行政書士、秘書検定1級、簿記1級の資格を持っています。ビジネス文書の作成にも慣れています。氷河さんが最も必要としているのは、パーティへの招待を丁重に断る術を身につけている秘書だと聞いてきました。その仕事もできるつもりです。時間は自由に使えるので、勤務時間の融通もききます。僕なら必ず 氷河さんの期待に沿うことができると推薦されて来たのに、顔を見るなり追い返されたなんて、僕、沙織さんに報告しにくいです……!」 潤んだ瞳で 瞬に そう訴えられて、氷河は困惑した。 というより、氷河は 瞬の訴えに困惑している自分自身に困惑してしまったのである。 シベリアで鍛えられた野生の勘が、これは決して傷付けてはならない 清らかな動物だと、氷河に訴えてくる。 肉食動物の厳しさはもちろん、草食動物のような 無垢ゆえの冷たさもない瞳。 人間だけが持つ温かい瞳、だが 人間離れして澄んだ瞳――。 悪い方に賢くなっていた氷河に、瞬の瞳は 圧倒的な力をもって迫ってきたのだ。 その力が、氷河の考えを変えていく。 氷河は、金の使い方を知らない野生児に擦り寄ってくる女を追い払ってくれる強面の、できれば ゴリラを人間にしたような秘書を希望していたのだが、城戸沙織は、別の意味で 女を追い払うことのできる人材を選び、シベリア生まれの野生児の許に送り込んできたのだろう。 大抵の女は、瞬を見たら 気後れすることになる――と、城戸沙織は(おそらく)考えたのだ。 この瞳の前では、人は 誰もが 自分の利欲や醜悪に恥じ入るに違いないと。 それには、氷河も同感だった。 「まあ……せっかく来てくれたんだし、試用ということで、しばらく勤めてもらうことにするか……」 瞬の澄んだ瞳の力は、たやすく氷河を打ち負かした。 全く おかしな話だが、氷河は 瞬の瞳の前で 自分の人間不信に恥じ入り、つい そう言ってしまっていた――言わされてしまっていたのである。 「ありがとうございます! 僕、頑張ります!」 明るく瞳を輝かせ、瞬が氷河に 勢いよくお辞儀をしてくる。 瞬が あまりに嬉しそうなので、氷河も いいことをした気分になった。 「では、明日から勤めさせていただきます。最初の仕事は、氷河様のスケジュールの把握と管理になるでしょうか。事前に現時点でのスケジュールを教えてください。今日の ご予定はどうなっていますか? この屋敷の設備についての資料は拝見しましたので、そちらの管理の方針については 今日中にまとめて、明朝いちばんに提出します」 「はあ……」 よほど この職に就きたいのか、瞬は 異様に意欲的である。 即座に 呼び方を『氷河さん』から『氷河様』に変え、瞬は その職務に取り組み始めた。 普通、そういうことは、待遇についての説明を受け、雇用契約を結んでから取り掛かるものなのではないか――と、氷河は、ごく常識的なことを、ごく常識的に思った。 そんなに張り切られても、そもそも 氷河は、瞬に提供できる情報を持っていなかったのだ。 「事前に把握しておかなければならないスケジュールなんてものはない。俺には、特段 しなければならないこともないし――俺は むしろ、おまえに 俺のスケジュールを作ってもらいたいんだ」 氷河が正直に 自らの現状を告げると、瞬は 隠す様子もなく、実に堂々と、自分の雇用主の前で眉をひそめた。 「スケジュールがない? 氷河様は、何かをするために 日本にいらしたんでしょう? その目的を果たすのに必要だと思うから、ホテル住まいをせず、こんな大きな屋敷を購入したんでしょう?」 瞬の言う通り、氷河には 目的があった。 カミュが なぜ、どうしてほしくて、600億ルーブルなどという馬鹿げた額の遺産を 血のつながっていない若造に残したのか、その理由を突きとめる――という、明白な目的が。 だが、その目的は あまりに茫漠としていて、その目的を果たすために 今日 何をすればいいのかが わからない。 それが、氷河が 現在 置かれている状況だったのだ。 「高額の固定資産税を払えば、自治体も 喜んで異邦人を受け入れるだろうし、信用も得られる。敷地が広ければ 騒音等で近所迷惑をかけることもないと不動産屋に言われて、でかい屋敷を購入しただけだ。使っている部屋は私室の他には、風呂とホームジムだけ。家のメンテナンスは、不動産屋が 提携している清掃会社を紹介してくれたから、そこに一任している」 氷河が、とりあえず 自分が把握している情報を 瞬に伝えると、瞬は、 「それって、すごい無駄使い」 と、はっきり言ってくれた。 その通りだと思っていたので、氷河は腹も立たなかったが。 氷河の無駄使いに呆れたらしい瞬が、だが、すぐに気を取り直し、氷河に力説してくる。 「スケジュールがない人間なんて変です。ただ平穏に一生を送れればいいと考えている人間にだって、平穏に一生を送るために しなければならないことがあって、そのための計画とスケジュールがあるものです。氷河様の生きる目的は何なんですか」 まさか、まだ正式に雇用契約も結んでもいないセクレタリーに そんな質問をされるとは。 さすが グラード財団総帥が送り込んでくる人材は 一味違う――と、氷河は感心した。 「母の鎮魂」 氷河が、カミュに出会う以前の自分の“生きる目的”を瞬に告げたのは なぜだったのか。 それは 氷河自身にも よくわからなかった。 少なくとも それが、“カミュが なぜ、どうしてほしくて、600億ルーブルなどという馬鹿げた額の遺産を 血のつながっていない若造に残したのか、その理由を突きとめる”より、瞬に是認してもらえそうな目的だったから――ではない。 それがネガティブで、人生に対して後ろ向きな“生きる目的”だということは、氷河も承知していた。 人生に対して、いかにも前向きで意欲的でポジティブに見える瞬は、自分の雇い主の“生きる目的”を否定するのか、笑い飛ばすのか。 氷河は もしかすると、それを知りたくて、瞬に真実を告げたのだったかもしれない。 この 澄んで綺麗な瞳の持ち主は、死んだ人間に心を向けて生きている人間を どう評するのか、それを知りたくて。 氷河の“生きる目的”を聞いた瞬は、笑いもしなければ、それを否定するような態度も見せなかった。 怒ることも 呆れることもせず――じわりと 瞳に涙を にじませた。 想定外の瞬の反応に目を見開いた氷河に、 「すみません。僕、両親の顔を知らない孤児なので……」 指で涙を拭いながら謝罪してくる。 年齢不詳。 だが、人前で泣くことを“子供だから”で許される歳でもないだろう。 瞬は、完全な大人ではないかもしれないが、決して歴とした子供でもない。 そういう年齢の人間が、これほど素直に、これほど自然に 人前で泣く様を見るのは、氷河は これが初めてだった。 両親の顔も知らない孤児が一人で生きていくために、懸命に勉強し、資格を取り、積極的に職を求め、瞬は そういう人間なのだ。 瞬に比べれば、“生きる目的”が“母の鎮魂”である男の方が、よほど恵まれているのかもしれない。 飢えている子供は、生き延びるために必死に足掻き、決して 死を望むことなどしないのだ。 「お母様の鎮魂――それは、氷河様が幸せになることで為されることだと思います。母親が我が子に願うことは、他にはないでしょう」 幸福で恵まれた生い立ちの人間に言われたのであれば、氷河は それを陳腐で空虚な言葉と感じていたかもしれない。 両親の顔知らない瞬が言うから、それは陳腐でも空虚でもなかった。 が。 優秀なセクレタリーは、主人に求められれば、主人が冷静かつ客観的になれるような助言は口にするものだろう。 しかし、自分の意見を口にするようなことはしないはず。 そういう意味で、氷河は、瞬の“意見”に引っ掛かりを覚えた。 不快ではない引っ掛かり。 おそらく それは、友人や家族から言われたものであれば、有難く優しく有益な助言なのだ。 瞬は、セクレタリーとしては失格。 氷河は いっそ、瞬を、セクレタリーとしてではなく、話し相手として雇うことにしようかと思ったのである。 「どうすれば、俺は幸せになれるんだ」 自分だけがソファに腰を下ろして 瞬を立たせたままだったことに気付き、瞬にもソファに座るように言おうとした氷河は、 「氷河様のお母様が 氷河様を愛してくれたように、氷河様も 深く愛せる人を見付ければいいのでは」 瞬の その答えを聞いて、瞬に椅子を勧めるのをやめた。 それまで瞬に不快を覚えていなかった氷河が 不快になったのは、彼が それに類した言葉を これまで幾度も聞いてきたから――だった。 『お一人では お寂しいでしょう』 その言葉は大抵、『いい お嬢さんを存じあげています』とセットになっていた。 『当家に未婚の娘がおりまして』と、堂々と売り込んでくる つわものもいた。 “氷河様のお母様が 氷河様を愛してくれたように、深く愛せる人”。 瞬は、もしかして、その相手が自分だと言いたいのかと思い、氷河は むっとしたのである。 なぜ氷河が むっとしたのかはわかっていないが、氷河が むっとしたことには気付いたらしい瞬が、 「すみません。人には それぞれの価値観や 幸せの形がありますよね」 と、的外れな謝罪をしてくる。 (いかん……) どうやら自分は、身内を資産家夫人の地位に収めようと画策する人間に多く会いすぎて、過剰に疑り深くなってしまっているらしい。 自らの下種な勘繰りを、氷河は胸中で恥じた。 こんなに綺麗な瞳の持ち主が、そんな さもしいことを考えるはずがない。 瞬の澄んだ瞳を信じて――とりあえず 氷河は、グラード財団総帥推薦の人間をプライベート・セクレタリーとして雇ってみることにしたのである。 |