神殿を抱いた山が、窓の向こうに見える。 (窓……?) それは いったい何の窓だ? 自分の中に生まれた奇妙な疑念に弾かれるように、氷河は上体を起こしたのである。 何の窓も、どんな窓もない。 窓というものは、建物の壁にあるもの。 もちろん、その窓は、建物の壁にあった。 氷河は ある建物の内側にいて、そして、彼が目覚めたのは その建物の“部屋”の内にある寝台の上だった。 神の住まいにしては あまりに素朴すぎ、妖精の住み処にしては あまりに凡庸すぎる 小さな“家”。 普通に考えれば、それは、ありふれた人間の ありふれた住まいだった。 その考えは間違いではなかっただろう。 氷河が意識を取り戻したのは、暖かい地方の住居らしく 換気が考慮され、だが、採光はあまり考えられていない、ごく普通の小さな民家だった。 採光が考えられていないのも当然のこと。室内に光を取り入れる工夫をするまでもなく、その家は光に満ちていた。 その光を、氷河は最初は陽光だと思ったのである。 事実もそうだったのだろうが、目を開けて最初に視界に飛び込んできたものの姿を認めた氷河は、自分の周囲に満ちている光は それが発する光なのだと錯覚したのである。 明るく澄んだ瞳。 強大な力の向こうに見たと思った妖精の面差し。 その妖精は、氷河の覚醒に気付くと、その瞳を ぱっと明るく輝かせ、そうしてから、済まなそうに氷河に詫びてきた。 「すみません。ほんの一角とはいえ、まさかアテナの結界を引き裂くことのできる人がいるなんて思ってもいなくて……。僕、慌てて、力の加減を間違えてしまいました……」 やわらかい声。 妖精、仙女――それとも、ギリシャではニンフというのだろうか。 花の精だと言われれば、そうなのだろうと逡巡なく頷くことのできる可憐な姿。 今は そんなことをしている場合ではないと思うこともできず、氷河は その花の精の優しい眼差しに ぽかんと見とれてしまっていた。 氷河より ひと回り小柄な身体。 白いチュニックに、編み上げのサンダル。 メンテー、ダフネ、アタランテー ――まるでギリシャ神話に登場する美しい少女のように、花の精が身に着けているものは それだけだった。 白く健康的で 伸びやかな手足を 惜しげもなく さらけ出しているのは、彼女が その身の内に もっと素晴らしいものを隠し持っているから。 氷河にとっては幸運なことに、彼女は その素晴らしいものを隠し切れていなかった。 不様に倒れた侵入者の姿を映し出す彼女の瞳は 澄んで温かく、氷河が あえて探り出そうとしなくても、その優しい心は 氷河の目と心に伝わってきたのだ。 力の加減を間違えてしまったと詫びてくるということは、“北方のアレクサンドロス”に気を失わせた豪傑は、このニンフなのだろうか。 この華奢な肢体の持ち主は、優しい心だけでなく、そんな力をも隠し持っているのか――。 『まさか』と思う心と、『ここが普通の人間が営む世界でないなら、そういうこともあるかもしれない』と思う心が、同時に 氷河の中に生まれたのである。 氷河が そのどちらかを選び取る前に、花の精が、 「なぜ、あんな無茶を……。ここがどこなのか ご存じなんですか」 と、気遣わしげな様子で氷河に尋ねてきた。 「ギリシャの女神アテナが支配する聖域」 頼むから否定しないでくれと祈りながら答えた氷河に、花の精は 困惑の溜め息を返してきた。 「それは ご存じなんですね」 氷河の祈りは通じたらしい。 その祈りは 誰に向けられたものだったのか。 だが、その祈りを聞いてくれたのが 誰なのかということは、この際 問題ではなかった。 ヤハウェなのか、イエスなのか、アテナなのか、それとも この美少女なのかということは。 ともかく、伝説は本当だった――伝説の聖域は 実際に存在したのだ。 ならば、ここには母の命を救えるものがあるはず。 氷河は 寝台の傍らに立つ花の精の手首を掴み、気負い込んで彼女に尋ねたのである。 ほとんど怒鳴りつけるような口調で。 「聖域には、人間を不死にできるものがあると聞いた。俺は それが欲しいんだ。それは どこにある !? どうすれば、手に入れられる !? 」 美しい姿、優しい気遣い、氷河の祈りを退けない嬉しい言葉。 これまで 氷河に好ましく感じられるものだけを与えてくれていた花の精が、初めて 氷河の期待を裏切る。 彼女は 驚くほど冷静な声で、冷酷な答えを 氷河に返してきた。 「人間を不死にする? そんなことができるわけないでしょう。不死でないから、人間は人間なんです」 それは そうだろう。 それは そうなのだろうが。 「だが、おまえは不死なんだろう?」 心優しいと決めつけていた人に、あっさり望みを絶たれたせいで――勝手に期待し、勝手に裏切られたせいで――氷河は 頭に血がのぼった。 それが容易に外界に持ち出せないものであることはわかる。 武力を備えた狂信の暴徒や 野心を抱えた権力者たちが不死になったりしたら、彼等に虐げられている非力で不幸な民衆は いつまで経っても救われない。 他者の命を軽んじ、それを奪うことを平気で行なうような輩は、すみやかに その生を終えるべきだと思う。 だが、氷河が死んでほしくないのは、善良で心優しい不幸な一人の女性なのだ。 「いいえ。僕は不死ではありません」 花の精が、事もなげに 自身の命の有限を断言する。 あまりに軽やかな その口調に、氷河は 暫時 自失した。 「こんなに若くて綺麗なのに……」 歳を重ねて死ぬことなど、それこそ神が許さないような清楚な姿。 こんなにも綺麗なものが 世界から消え去ることを、神は許すべきではない。 そう 氷河は思った。 しかし、花の精は己れの死が確かなものであることを 理不尽とは考えていないらしい。 彼女は、氷河が驚くほど あっさりと、自身の死を確信する言葉を繰り返した。 「僕は普通に老いて死にますよ。いつか。人間ですから」 花の精は、当たりまえのことのように そう言い、氷河の前で ほのかに微笑むことさえした。 「若くて綺麗な人間が死なないというのなら、あなたなど永遠に――」 「俺はどうでもいいんだ。俺は、マー……母を死なせたくない。その方法を教えてくれ……!」 聖域の住人と 聖域の外の住人とでは、命の意味や価値が違うのかもしれない。 花の精は、たとえ死んでも 可憐な花として甦ることができるのかもしれない。 だが、外の世界に生きる人間は違う。 外の世界では、失われた命は 決して再生しないのだ。 死は永遠の別れ。 氷河には、それは、決して受け入れられない運命だった。 氷河の決死の形相に、聖域の住人は 心を動かされてくれたらしい。 気遣わしげな目を、彼女は氷河に向けてきた。 「あなたの お母様?」 「そうだ。俺の母は 死にかけている。俺のせいで。俺を庇って負った傷が元で」 「ああ……」 花の精が 悲嘆の声を洩らし、眉を曇らせる。 悲しげに、彼女は左右に頭を振った。 「本当に、ここには 人を不死にするものなどないんです。人間が不死になるのは 死んだ時だけです」 “人間”は そうだろう。 聖域の外に 生を受けた“普通の人間”は。 だが、では なぜ聖域は、外の世界から隔絶されて ここに存在するのだろう。 外の世界に生まれた“普通の人間”に 特別な恵みを与えるためではないのか。 そうでないなら、別の世界など 存在する意味がないではないか。 氷河は食い下がった。 「おまえは不老不死ではないのか? 本当にそうなのか? こんなに綺麗なのに !? 」 「あなたのお母様ほどではありません」 「それはそうだが、俺のマ……母は、聖域の外に生まれた普通の人間だ。おまえは人間ではないんだろう? 普通の人間が こんな綺麗な目をしているわけがない。初めて見たぞ、俺は、こんな目を」 「普通の人間ですよ。瞬といいます。あなたこそ、普通の人間とは思えない。アテナの許しを得ずに この聖域に入ってこれるなんて――」 自分を普通の人間だという瞬が、ふと 声を途切らせる。 何事かを考え込む素振りを見せ、それから 瞬は、 「アテナが許したのかな……?」 と呟いて、首をかしげた。 そんな何気ない仕草さえ、瞬は 可憐な花のようだった。 |