瞬がくれた神の白布は役に立った。 母の生気が失われていくことに変わりはないのだが、身体の痛みが薄らぐだけで、彼女は 身体だけでなく心も楽になったらしい。 だが、彼女の心身に力を生んだものは、何より 彼女の息子の無事な帰還だったらしかった。 息子が自分のために無茶をしているのではないかと案じ、気に病んで、氷河の留守中、彼女の体力気力は衰え 弱る一方だったのだ、 そう言って、氷河の母の看護をしてくれていた老婦人は、遠回しに氷河を責めた。 「無茶はせず、ずっと一緒にいる」 寝台に上体を起こした母に、神妙な顔をして 氷河が言うと、彼女は 優しく微笑んで 彼女の無茶な息子を許してくれた。 馬鹿な意地を張らずに アテナからの贈り物を受け取ってきてよかったと、氷河は思ったのである。 おかげで 氷河は、この長い不在を、その布を手に入れるためのものだったと言い繕うことができたから。 そして、永遠の命を手に入れ損なったと、母に 本当のことを言わずに済んだから。 だが、氷河の母が最も喜んだのは、身体の痛みを消し去る布ではなく、息子の語る瞬の話だった。 「氷河が そんなに綺麗だというのなら、本当に美しい娘さんだったのでしょうね。私の小さかった氷河が 恋をするようになるなんて」 まるで 自分が恋をしているかのように 夢見る少女のような眼差しで そう告げる母を見て、氷河は、どんな無理をしてでも瞬を聖域から連れ帰るべきだったと、己れの思い切りの悪さを後悔したのである。 母に、 「瞬さんに、会ってみたいわ……」 と呟かれるに及んで、氷河の後悔は更に深くなった。 瞬の清楚な姿、澄んで優しい瞳を見たら、母は どれほど喜んでくれただろう。 神を敵にまわし、女神アテナに呪われることになっても、瞬を さらってくるべきだった。 氷河は その唇を きつく噛みしめた。 「瞬は……今は遠いところにいて――俺がマーマと一緒にいるのが マーマにはいちばんの薬で、一番の幸福だと言っていた。それで 俺が 少しでも早くマーマの許に戻れるようにと気遣って、俺だけを先に送り出してくれたんだ」 あなたの息子の恋は必ず実ると、だから心配は無用だと、氷河は 暗に ほのめかした。 その嘘は 息子を愛する母の心を安んじさせるのに役立ったらしく、我が子を見詰める彼女の眼差しは 一層 幸福に満ちたものになった。 「優しい上に、真実が見えている賢い娘さん」 「そうなんだ!」 幼い子供に戻ったように、氷河が気負い込んで大きく頷くと、氷河の母は 心の底から楽しそうに、明るい声をあげて笑った。 『もって、三月』と言われていた氷河の母の命は、医師の宣告より三ヶ月長く もった。 その間ずっと、彼女は幸福そうだった。 おそらく、彼女の息子の幸福が確信できるから。 「私は、いつも氷河を 私に縛りつけていた。私が死んだら、氷河は 幸せになるために旅に出なさい。氷河は、これから氷河が愛し、氷河を愛してくれる人の許に行くのよ。ありがとう。幸せだったわ」 それが、彼女の最期の言葉。 彼女が あまりに幸せそうだったので、氷河は 涙を流すことを ためらうほどだった。 涙は、やはり氷河の頬を濡らしたが。 |