「瞬」 救い主は、突然 現われた。 氷河と瞬の前に、まるで彼女の聖闘士の窮地を察知したかのように現われた一人の少女。 瞬以外の人間は視界に入れたくない氷河にも、無視できない存在感。 瞬と大して歳が違わない(ように見える)十代半ばの その少女が、この聖域の主、女神アテナだということは、氷河にも すぐにわかった。 その女神アテナが、決して激してはいないのに対峙する者に否応を言わせない威厳をたたえて、外の世界からの来訪者に宣言する。 「瞬は私の大切な聖闘士です。ふさわしい力を備えた者にでなければ渡しません」 「……何をすればいいんだ」 たとえ それが人間には抗うことの許されない神であっても、事と次第によっては。 氷河は心身に力を込め、自らを鼓舞して、神に尋ねた。 そんな氷河の様子を見て、アテナが唇の両端を軽く上げる。 「そうねえ……」 「アテナ!」 いったいアテナは どういう性質を持った神なのか――と、氷河は疑ったのである。 アテナの意味ありげな微笑を認めた瞬が、すがるようにその名を呼ぶ。 アテナは、今度は はっきりとした微笑を作った。 「あら、瞬。難しい条件はつけないであげてほしい?」 「そんなことは……」 言葉を濁した瞬を見て、女神が 一層 楽しそうな笑顔になる。 「彼が聖域を去ってから、あなたは ずっと彼のことを案じていたのですものね。このまま 彼を追い返されてしまっては たまらないわよね」 「僕は、ただ……」 何事かを言いかけて、結局 何も言わず、瞬が顔を伏せる。 アテナは その視線を氷河の上に投じ、到底 神に従順とは言い難い反抗的な氷河の目を、無言で見詰めてきた。 そうしてから、瞬の家の脇に、おそらく風避けになるので 放置されているらしい花崗岩の巨石を指差し、外界からの来訪者に告げる。 「あの岩を、道具を使わずに破壊できる? 破壊できたら、あなたが聖域で暮らすことを許してあげましょう」 「アテナ! そんな……ひどい……! 氷河は普通の人間なんです。そんなこと できるわけが――」 瞬が間髪を入れずに アテナが提示した条件に異議を申し立てたところを見ると、それは“普通の人間”には かなりの難題であるらしい。 しかし、氷河は、そんなことより、瞬が 自分のためにアテナを責めてくれたことの方が より重要で、そして 嬉しいことだった。 アテナが、泣きそうな顔をしている瞬に、困ったような顔を向ける。 「そう先を急がないで、最後まで聞きなさい。その条件の執行に 期限は設けないわ。何年かかってもいい。瞬。破壊の仕方を彼に教えてあげなさい」 「あ……アテナ。それじゃあ……」 アテナは、その岩を道具なしで破壊できるようになるまで――破壊を諦めない限り、いつまででも――ここにいていいと、氷河に言っていた。 「アテナ! ありがとうございます!」 アテナの厳しくも寛大な計らいに感謝して、瞬が彼女に礼を言う。 が、氷河は、その岩を壊せば 聖域で暮らす正式な許可が得られるなら、さっさと その許可証を手に入れてしまいたかったのである。 だから、氷河は、瞬の身の丈ほどもある岩の側に歩み寄り、手で触れ、そして それを破砕した。 「これでいいか」 たった これだけのことで 瞬の側にいることを許してもらえるのなら。 そう考えて、氷河は それをしたのだが。 「氷河……!」 それを成し遂げた氷河を見詰める瞬の眼差しは、実に何とも非常に複雑だった。 “普通の人間”にはできないことを いともたやすく やり遂げた氷河と その力に驚くべきか、アテナの提示した条件をクリアした氷河を褒めるべきか、あるいは、せっかくのアテナの粋な計らいを無視してのけた氷河を責めるべきなのか、その判断ができずにいるように。 適切な対応と言葉を思いつけず、唇を引き結んだり、何かを言おうとして口を開きかけたり、また閉じたりを繰り返している瞬の様子が可愛くて、氷河は 我知らず目を細めた。 それが気に障ったらしい瞬が、怒声をあげる態勢に入る。 その瞬を直前で押しとどめてくれたのは、せっかくの粋な計らいを無にされた女神アテナ当人だった。 「もう 自在に使いこなせるレベルに達していたのね」 独り言のように そう言ってから、アテナは瞬の方に向き直った。 「瞬。氷河が この地に辿り着いたのは、彼の内にある小宇宙の力に導かれてのことかもしれないけれど、私が 私の結界を破ることを許しているのは、愛の力だけよ。強大な小宇宙の力ではなく、愛の力。ま、そういうことなのでしょうね」 「アテナ……」 「氷河。この聖域に、永遠の命の泉はありません。でも、あなたのための愛の泉はあるわ。それで満足なさい」 「十分だ」 それで満足どころか、それ以外に満足できるものはない。 そして、氷河は、それだけがあれば満足だった。 「俺は、愛する人がいないと生きていられない男だ。母を失った今では、おまえしかいない。愛する人がいないと生きていけないが、その代わり、俺は、その人に同じだけの愛を返してもらえなくても平気な男だ。俺を、おまえの側にいさせてくれ」 「氷河! アテナのいるところで、そんなことを堂々と言わないでください!」 到底 粋とは言い難く、時と場所を わきまえてもいないが、氷河の言葉に嘘はないのだろうことは、瞬にも感じ取れていたのである。 『同じだけの愛を返してもらえなくても平気だ』という言葉は、氷河が口にする言葉としては 意外に思えるほど 慎ましく謙虚なものだとも思った。 アテナに提示された条件は満たした。 アテナの許しも出ている。 否、むしろアテナは、小宇宙を自在に操る力を持つ氷河を、是が非でも聖域に留め置きたいと思っているだろう。 瞬は、それも承知していた。 アテナの意には沿いたいと思う。 もちろん、氷河の母の願いを叶えずにいることは、絶対にできない。 しかし、それでも。 瞬は、これほど 場の空気を読むことができず、自分のしたいこと(だけ)を 自分のしたいようにする野放図な男を 受け入れることは、自分の懐に 苦労を招き入れることと同義であるような気がしてならなかったのである。 そして、不幸なことに(氷河とアテナと聖域にとっては幸いなことに)、瞬は それを幸福と思うことのできる人間だった。 Fin.
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