「ナターシャのマーマーっ !? 」 ここはバーである。 そして、バーというものは、成人に酒を提供する場所である。 そんな場所に、なぜ この男は これほど似つかわしくないのか。 確かに成人し、無論 その飲酒にも 法的には何の問題がないはずの星矢の、小学校の男子児童もかくやとばかりの素っ頓狂な雄叫びに、氷河は渋面を作った。 あげく、 「おまえの人生って、ほんっと、退屈しないなー」 である。 氷河としては、『おまえの人生ほどではない』と返したいところだったのだが、それでは全く洒落にならないので、氷河は 懸命に自分を抑え、かろうじて沈黙を守ることに成功した。 「ナターシャが言い出したのか。マーマが欲しいと」 星矢に比べれば まだ バーという場所にふさわしい姿と様子を持つ紫龍が、カウンターの向こうから仲間に問うてくる。 落ち着いているように見えるのはいいのだが、この男は 抜けているのか鋭いのかの判断がつかないのが玉に瑕。否、傷だらけ。 氷河は、首を左右に振ることになった。 ナターシャは、マーマが欲しいと言い出したわけではないのだ。 「いや。ナターシャは――ナターシャに、マーマはどこにいるのかと尋ねられた俺が 何も答えられずにいると、そのまま黙り込んで、それ以上 何も言わなかった」 「……あんなに小さな子が、自分には母親がいないことを察して、甲斐性なしのパパを思い遣ったわけか。健気だな」 星矢のように能天気に言われるのは癪に障るが、紫龍のように 無駄に真面目な顔で語られるのは 気に障る。 少なくとも“甲斐性なしの”という形容句は余計だろう。 氷河は そう思ったのだが、それは さておき。 実の父母はなく、寂しく傷付きやすい心だけを持たされて、この世界に投げ出された小さな命――小さなナターシャ。 一人の人間として、まだ ごく短い時間しか生きていない彼女が、そんな思い遣りの心を、どうやって培ったのか。 それは おそらく、“パパ”と出会うことによって。 そして、パパの周囲の優しい人々と接することによって。 だとしたら、彼女を優しい心を持つ少女にしてしまった責任は、アクエリアスの氷河にある。 (甲斐性なしの)パパを思い遣り、マーマが欲しいと訴えない幼い娘。 『欲しい』と言われないからこそ、氷河は、できることなら それをナターシャに与えてやりたいという気持ちになってしまったのである。 「あたしが、ナターシャちゃんのママになってあげるわーって言ったんだけどね」 カウンターの中央の席でアブサンをストレートで飲んでいた蘭子が、全く酔った様子もなく、だが、本物の酔っ払いも裸足で逃げ出す迫力で、どすんとカウンターテーブルに頬杖をつく。 彼女は、そして、少し しんみりした顔になった。 蘭子ママにそう言われたナターシャは、『ナターシャが欲しいのはママじゃないの。マーマなの』と、丁重に お断りしたのだそうだった。 「まだ小さな女の子なのに遠慮しちゃって……。ナターシャちゃんってば、ほんとに健気よね」 氷河が 何か言いたげに唇を ひくりと動かす。 が、結局 氷河は沈黙を守った。 なにしろ 蘭子は、彼の雇い主なのだ。 氷河は、滅多なことを言える立場にはない。 氷河が言えなかった“滅多なこと”は、客として ここに来ている星矢が代弁することになった。 「それ、遠慮したんじゃなくて、正直……んにゃ、ナターシャは頭がいいんだと思うな。蘭子ママは、ナターシャの求める“美しいマーマ”とは 違ったんだよ」 「星矢ちゃん、それ、どういう意味かしら」 「え !? あ、んーと、ほら。ナターシャは優しくて美しいマーマが欲しいんだろ? 蘭子ママは“美しい”っていうより“キレイ”だから。“美しい”と“綺麗”は、何ていうか、ビミョーに違うだろ?」 「そうねぇ……」 星矢は、意味のあることは何一つ言っていなかったのだが、蘭子は それで得心したらしい。 豪快に頷く蘭子を見た紫龍が、 「星矢も賢くなってきたな」 と 低く呟き、その一言が命取りで、彼は蘭子に全力で頭を どつかれることになった。 カウンターテーブルと熱い口付けを交わしている紫龍を、わざと不思議そうな顔で見やってから、蘭子が彼女の被雇用者の方に向き直る。 「でも、そうしたら、氷河ちゃんは 優しくて美しいマーマを どこからか調達してこなきゃならないわよ。氷河ちゃん、婚活でも始める?」 「……なに?」 婚活。 その耳慣れない単語に、氷河は暫時 目を剥いた。 自分の人生に そんな単語が登場することがあるなどとは、氷河は これまで ただの一度も考えたことがなかったのである。 蘭子の肩の向こうにあるテーブル席の方に、氷河は視線を走らせた。 「バーテンダーが結婚するのって、なかなか難しいのよ。夜のお仕事だし、色々と誘惑の多い仕事だと思われてるから。同じ世界で働く同業者か、この世界に入る前から見知っていた学生時代の同級生くらいかしらね。私が知ってる既婚のバーテンダーの結婚相手は。何なら、あたしが他の店の女の子のバーテンダーを紹介してあげましょうか。ある意味、男世界で頑張ってる子たちだから、気の強い子が多いけど、見た目はみんな 並以上よ」 「……」 全く酔っていないように見えるが、やはり蘭子は少々 酔っていたのかもしれない。 氷河からの返事がなかったことで、彼女は 初めて、氷河の視線がテーブル席の瞬の上に据えられていることに気付いたようだった。 「瞬ちゃん、どうかしたの。元気がないわね。具合いでも悪いの」 蘭子が瞬に そう尋ねたのは、だが、彼女が酔っていたからではなかっただろう。 彼女が無神経だからでもなく、彼女が大物だからでもなく(彼女が物心両面で 大物であることは正真正銘の事実なのだが)、彼女は知らないだけなのだ。 瞬が、瞬らしくない薄い笑みを浮かべる。 「あ……いえ、そういうわけでは……。僕は 母を知らないので……子供の頃から、マーマがいないことを寂しがる氷河を どんなふうに慰めてあげればいいのか わからなかったことを思い出して……。今も、ナターシャちゃんを どう慰めてあげればいいのか わからなくて、それで……」 「いや。ここは、俺たち みんなでナターシャんとこに行って、俺たちにもマーマはいないけど、強く たくましく生きてるぜって言ってやるのが、正しい対処の仕方だろ!」 「偽装結婚という手もあるぞ。誰かを言い含めて、ビジネスとして、ナターシャのマーマ役を務めてもらうんだ。それには、蘭子ママに 氷河の給料を上げてもらう必要があるが」 星矢が無駄に声に力を込めたのも、紫龍が 普段の彼なら決して言い出さないような提案を口にしたのも、蘭子に 触れてほしくないことに触れないでいてもらうためだった。 努力の甲斐あって(?)、蘭子の注意が瞬の上から逸れる。 「籍を入れなくていいのなら、あたしが綺麗どころを紹介してあげましょうか。あたしが氷河ちゃんの給料を上げてあげなくても、氷河ちゃんとなら お金を払ってでも付き合いたいって子が いくらでもいるわよ」 「蘭子ママの言う“綺麗どころ”なんて、怪しすぎるだろ。オトコの綺麗どころなんか 連れてこられても、何の役にも立たないんだぜ。それなら、瞬で十分じゃん」 笑って そう言ってしまってから、星矢は顔面を蒼白にした。 「あ、いや。おまえより綺麗な女なんかいないっていう意味でさ。は……ははははは」 「う……うむ。それも問題だな。ナターシャは瞬を知っている。氷河がナターシャのマーマを連れてくることができたとしても、憧れのマーマが 瞬より綺麗でなかったら、ナターシャは がっかりするだけかもしれん。ここは やはり、星矢の案が最適にして最善だと――」 「ハードル上げてくれるわねー」 星矢と紫龍と蘭子は 三人が三人共、冗談を言っているつもりだったろう。 少なくとも 星矢と紫龍は そのつもりだった。 が、星矢と紫龍のそれと、蘭子のそれとでは、冗談を口にしている者の緊張度・必死度で 雲泥の差があったのである。 瞬と氷河が無言で見詰め合う。 星矢と紫龍は 次なる冗談を思いつけず、結局 彼等も黙り込むことになった。 四人の作り出す沈黙を、さすがに奇異に思った蘭子までが黙り込み、店内が静寂に包まれる。 静寂の支配がはじまってから数分後、その静寂を破ったのは瞬だった。 カウンター席の仲間たちから離れて掛けていたテーブル席から、静かに立ち上がる。 「僕、今日は もう帰るよ。明日も仕事だし」 「嘘をつくな。明日は休みだと言っていた」 カウンターの中から、氷河が瞬の嘘を暴き、 「……」 瞬が 再び黙り込む。 星矢と紫龍がカウンターに立っている氷河に目を向けることになったのは、次に氷河が どう出るのかが気になったからではなく(もちろん、それもあったが)、嘘を嘘だと言われて 気まずげに瞼を伏せてしまった瞬を見ていられなくなったからだった。 「駄目だ。今夜は俺の家に来い」 氷河が、瞬に命じる。 「帰る」 その命令を 力ない声で退けた瞬に、 「来るんだ!」 今度は 有無を言わさぬ強い口調で、氷河は再度 瞬に厳命した。 心を持たない状況で 二人が戦えば、勝つのは十中八九 瞬の方だろうが、心というものを持っている限り、瞬は氷河に勝つことはできない。 瞬は 元の席に戻り、それを確かめた氷河もまた、感情を感じさせない いつもの顔に戻った。 「氷河の奴、いつになく強気じゃん」 氷河の五感、第六感、第七感までのすべてが、瞬だけに向けられていることはわかっている。 にもかかわらず 星矢が声をひそめたのは、当人に求められたわけでもないのに その人物の言動を評価する人間の礼儀のようなものだったろう。 「当たりまえだ。今夜、ここで瞬を帰してしまったら、氷河は本当に ただの甲斐性なしだ」 紫龍が、同じく小声になる。 「あ、あの二人、やっぱり そういう仲だったの?」 蘭子は、声だけでなく その迫力のある身体までを小さく丸め、星矢たちの ひそひそ話に混じってきた。 「気付いてなかったんですか? さっきは はらはらさせられましたよ」 「そうなんじゃないかなーと思うことはあったんだけど、氷河ちゃんって、ゲイの気配もバイの気配もないから、自信がなかったのよお。当人には訊きにくいし」 蘭子にも訊きにくいことがあるのかと感心してから、星矢は、 「そりゃ、氷河はゲイでもバイでもないからな」 と、蘭子の洞察と判断の正しさを保証してやったのである。 星矢には もちろん、自分が矛盾したことを言っているつもりはなかった。 そして、その場にいる誰も、星矢の発言に矛盾があるとは思わなかった。 「氷河は超マセガキで、10代半ばには、もう二人は そういうことになっていましたよ」 「マセてたんじゃなくて、賢かったんでしょ。ヘタに大人になるのを待っていたら、誰に取られるかわからないもの。瞬ちゃんは、あたしと争うくらいにキレイだし、優しいし、何か特別製の人間って感じがするもの」 同じようにキレイで(自称)、同じように優しく(おそらく、事実)、同じように特別製の人間(証明不要の事実)だというのに、蘭子と瞬の はなはだしい懸隔は いったいどういうことなのか。 それは、実に興味深い研究テーマである。 瞬が元気な時なら、そのテーマについて 大いに盛り上がっていただろうが、今夜は そういう雰囲気ではない。 結局 星矢たちは、それから閉店までの時間を『この地上から暴力が一掃された場合の恩恵と弊害』という、それなりに 興味深くはあるが不毛なテーマについてのディスカッションで費やすことになったのだった。 |