瞬がブラコンなのか、氷河と瞬とでは どちらの方が“変”の度合いが はなはだしいのかという問題はさておいて。 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間が、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間のせいで落ち込んでいるのである。 地上の平和を守るために、瞬には元気でいてもらわなければならないし、仲間としての心情からも、瞬には元気でいてほしい。 星矢と紫龍が、もう一人の仲間――瞬を落ち込ませてくれた男の許に向かったのは、地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士としても、瞬の仲間としても、至極 当然のことだったろう。 好んで そういう環境を作っているのか、好むと好まざるとにかかわらず そういう状況になってしまっているのか。 それは 星矢にも紫龍にも わからなかったが、現実に起きている現象として、氷河の部屋の室温は どう考えても氷点下――摂氏0度より低かった。 原因は もちろん、陰鬱な顔をして ライティングデスクの椅子に(自分だけ)腰掛け、仲間に椅子を勧めることもしない氷雪の聖闘士の小宇宙。 星矢は、わざとらしく 寒さに震えるポーズを示してみたのだが、氷河は、室温をあげることは――室温を下げるのをやめることは――してくれなかった。 だからといって、ここに暖房(瞬)に来てもらうわけにはいかない。 かくして、星矢たちは、震えながら 白鳥座の聖闘士の真意を追及する作業に取りかかることになってしまったのだった。 「この部屋、寒いな。ところで、氷河。おまえ、瞬のブラコンをどう思う?」 「凍えるほどでもあるまい。ブラコンは一輝の方だろう。自分の弟にそっくりな少女に恋をするというのは、立派に病気だ」 「いや、この部屋、絶対に寒いぞ。あ、んでも、一輝と瞬のブラコン問題については、おまえも 正しい認識でいるんだな」 自分と同じ認識なら、それは正しい認識である――という考え方は非常に危険な考え方なのだが、星矢が その危険に思い至るには、氷河の部屋は少々 寒すぎた。 人間の脳も 物質であるから、それは原子の集合体であり、周囲の温度が下がれば、当然 その運動は鈍化する。 だから 星矢は 面倒なことには考えを及ばせず、 「じゃあ、やっぱり、瞬の思い過ごしかあ」 という結論に直行した。 もとい、それが結論だということにした。 氷雪の聖闘士の脳は寒さの影響を受けにくいのか、あるいは 寒さを感知する神経の働きが鈍っているのか。 星矢の導き出した結論に――というより、瞬の名に、氷河は 極めて迅速に反応を示してきた。 「瞬がどうしたんだ」 氷河の脳が 高温でなくても活発に活動できるものだとして、氷河の過剰に迅速な反応は、それが彼の嫌いなものだからなのだろうか。 そんなふうに、星矢が、平時であれば絶対に考えないだろう可能性を考えたのは、低温のせいで 彼の常識が凍りついていたからだったかもしれない。 「いや、瞬の奴、おまえに嫌われたとか、おまえに避けられてるとか、あり得ないこと言って、落ち込んでたからさー」 あまり深く考えず、星矢が事情を説明すると、氷河は 今度は ぴたりと その活動を止めた。 まさか氷雪の聖闘士の口が 寒さで凍りつくことはないだろう。 にもかかわらず、どんな答えも返してこない氷河に、星矢は かなり本気で、あらぬ疑いを抱くことになってしまったのである。 すなわち、 「おまえ、ほんとに瞬のこと嫌いなのかよ !? 」 という、太陽が西から昇り、一輝が冷却技を繰り出し、紫龍が髪を五分刈りにし、氷河が裸で敵と戦うことより百倍もあり得ない疑いを。 星矢が 責める口調になったのは、もし そうなら、氷河は自分とは真逆の価値観を抱いている人間だと思ったからだった。 同じ目的のために戦う仲間の価値観が真逆というのは、捨て置けない事態である。 「違う!」 幸い、氷河は、星矢の疑念を光速で否定してきた。 もっとも、彼は、そのあとに 超低速で、 「と、思う……」 という、いかにも 自信のなさそうな但し文を追加してきたが。 「……」 どれほど非合理不合理なことでも 自信満々で主張し、その態度で 相手の混乱を誘い 煙に巻くことを得意技にしている男が、歯にものの挟まったような物言い。 氷河の身体からは力が抜け、氷河の意気は消沈した。 室温が 少しばかり上昇したので、星矢たちには それがわかった。 とはいえ、彼等は、 「マザコンというのは嫌われるんだろうか? いや、そもそも俺はマザコンなのか?」 という氷河の発言によって、物理学上の温度ではない低温で、再度 凍りつくことになってしまったのだが。 ブラコンの次はマザコンかよ! と、シスコンの噂の絶えない星矢は 胸中密かに思った。 露出症の誉れも高い龍座の聖闘士が、脱衣することなく 自らの意見を口にしたのは、それでも まだ室温が低かった(摂氏0度前後)だったから――だったろう。 脱衣するには、やはり 最低でも10度ほどの気温がほしい。 「マザコンというのは、一般的には、母親に強い愛着や執着を持つ子供のことを言うようだが、それは 客観的な尺度や定義があるものではないから、おまえをマザコンだと断定することは、俺にはできない。そうではないと断言することもできないがな。ちなみに、一般的に言われているところのマザコンは病気ではない。母親依存となると実害が生じるだろうが、おまえは既に母を亡くしているから、具体的な害が生じることもないわけで――」 「でもでもさ。マーマより綺麗な女の子じゃないと恋愛対象にならないとかってのは問題だし、実害だろ。マーマ最高の氷河は、その気がありそうじゃん」 「亡き母が理想化されて、氷河が 母親以上の女の子はいないと思い、恋もできない状態に陥っているのだとしても、何の問題もないだろう。マザコンを隠して、女の子と付き合う方が はるかに問題だ。それは 人様に迷惑をかける。それさえなければ問題はない」 「ああ、結構 多いらしいな。彼女や奥さんを 自分の母親と比べて 駄目出ししたり、とにかく母親優先で 彼女や奥さんを ないがしろにしたりするマザコンって。彼女や奥さんにしてみたら、たまんないよな。まだ、浮気相手の女の方が太刀打ちのしようがある」 「……」 氷河が星矢たちに問うたのは、『白鳥座の聖闘士はマザコンなのかどうか』そして『もしマザコンだった場合、マザコンは他者に嫌われるものなのだろうか』ということであって、マザコンが周囲に及ぼす影響や迷惑の内容ではなかった――まだ、そこまでは訊いていなかった。 にもかかわらず、星矢と紫龍の発言が 勝手に そういう方面に展開されていくということは、彼等が『白鳥座の聖闘士はマザコンなのか』という命題は、改めて議論するまでもなく“真”だと考えていたからだったろう。 ある意味、星矢たちは、氷河の質問に ちゃんと答えていたのだ。 多分に 不本意そうに 星矢たちの回答を受け入れたらしい氷河が、一層 不本意そうな顔で、もう一つの質問を再度 口にする。 「マザコンは嫌われるんだろうか」 「誰に」 星矢が そう反問したのは、もちろん、マザコンが嫌われるものであるにしても 嫌われないものであるにしても、その主体が明確であれば、より正しい答えを氷河に与えられると考えたから。 マザコン男を好む人間は少数派だろうが、皆無とは言い切れない。 たとえば、母たる存在は マザコンという性質を好ましいものと考えるかもしれない。 星矢自身、氷河がマザコンでもマザコンでなくても 一向に構わなかった。 そんな星矢の反問への氷河の答えは、実に微妙なものだった。 氷河は、 「……決して嫌ってはいない、むしろ多大な好意を抱いていて、一生 その関係を維持したいと希望している友人に」 と、答えてきたのだ。 氷河の言う“決して嫌ってはいない、むしろ多大な好意を抱いていて、一生 その関係を維持したいと希望している友人”というのは、現況から判断すれば、どう考えても瞬のことである。 人に嫌われることを懸念している男が、当人(たち)に その相談を持ちかけることは無意味であるし(直接 確認すればいいだけのことであるし)、一輝に嫌われようが好かれようが、そんなことは氷河は屁とも思わないだろう。 そもそも 無神経で名を馳せている白鳥座の聖闘士が、こんなふうに婉曲話法を用いるほど気を遣う“友人”は 瞬しかいないのだ。 だが、だとすれば、氷河と瞬は、二人揃って、自分が“友人”に嫌われているのではないかと案じていることになる。 それは実に奇妙なことだった。 実に奇妙なことなので、星矢は、氷河に 探りを入れることになったのである。 「それは まあ……少なくとも、喜ばれはしないだろうな。何かあるたび、母親と比べられたりしたら、大抵の人間は いい気持ちにならないだろうし」 「そんなことはしない!」 「なら、問題ないだろ」 と、星矢が即答したのは、上昇に転じていた氷河の部屋の室温が、再び下がり出したことに気付いたからだった。 星矢の返答が 深慮熟考によって得られたものでないことを察したらしい氷河が むっとした顔になり、だが、すぐにまた気落ちして、肩を落とす。 主に怒りで心身が緊張すると下がり、脱力し しおれると上がる室温。 なぜ 戦場以外の場所で 心理状況と小宇宙を直結させるのだと、氷河の ややこしい性癖に、星矢は 辟易しかけていた。 だが、星矢は、そんなことで のんきに 辟易しているべきではなかったのだ。 星矢は、『おまえはマザコンなんかじゃない。だから誰にも嫌われない』と言って、白鳥座の聖闘士を激励し、さっさと氷河の部屋を退散すべきだった。 そうしなかったせいで、星矢と紫龍は、とんでもない氷河の告白を聞く羽目に陥ってしまったのである。 無愛想というより消沈した声で、氷河は 彼の苦悩を語り始めた。 「最近、繰り返し マー……母の夢を見るようになった。こんなに頻繁に母の夢を見るのは、子供の頃以来だ」 「マーマの夢って、どんな夢だよ?」 結局 マザコンの苦悩なのかと、かなり投げ遣りな気分で、星矢は氷河に尋ねた。 だが 星矢は、そんなことを尋ねるべきではなかったのだ。 星矢は、白鳥座の聖闘士に『そんなことは よくあることだから、気にするな』と言って、その場を やり過ごし、さっさと氷河の部屋から退散すべきだった。 そうしなかったせいで、星矢と紫龍は、とんでもない氷河の告白の続きを聞く羽目に陥ってしまったのである。 無愛想というより消沈した声で、氷河は 彼の苦衷を語り続けた。 「俺は、東シベリア海の氷を割って、海の底のマーマに会いに行く。マーマの周囲には、様々の色の薔薇の花が漂っていて、彼女は 彼女が亡くなった時のまま、若く美しい。だが、そこに眠っているマーマは、俺が近付くにつれ、徐々に瞬に変わっていくんだ。手で触れられるところまでいくと、花の中で眠っている人は 完全に瞬になっている。瞬は白雪姫のように眠って――いや、死んでいる。俺が瞬の頬に触れようとすると、死んでいるはずの瞬が、ふいに 目を開けるんだ。俺は驚いて、目を覚ます」 「死んでる瞬が目を覚ます? おまえの見る夢ってのは、ホラーなのかよ? それで、恐くて眠れないとか? アテナの聖闘士が?」 星矢が小馬鹿にした口調で そう告げたのは、幼い子供のように 恐い夢を恐れている氷河を 本当に馬鹿にしていたからではなく、『それは一輝の幻魔拳の後遺症なのか』と問わないためだった。 今は 地上の平和を守るために共に戦う仲間になっている瞬の兄の 過去の所業に言及しないため。 幸か不幸か、氷河を消沈させているのは、一輝の幻魔拳とは どんな関わりもない、全く別次元の事象だったのだが。 「ホラーなら、どんなによかったか」 呻くように――もとい、低く苦渋に満ちた声で、氷河は実際に呻いた。 ホラーの方が ましと思えるほどの悪夢。 それは いったいどういう類の夢なのか。 まるで見当がつかなかった星矢は、当然、 「どういうことだよ」 と、氷河に尋ねることになった。 だが 星矢は、そんなことを尋ねるべきではなかったのだ。 星矢は、白鳥座の聖闘士に『どんな夢も、所詮 夢は夢にすぎないんだから、いちいち 気にするな』と言って、その場を やり過ごし、さっさと氷河の部屋から退散すべきだった。 それが ろくでもないトラブルに巻き込まれることを回避する最後のチャンスだったのに、そうしなかったせいで、星矢と紫龍は、 「目覚めると、勃ってるんだ」 という、氷河の ろくでもない告白を聞く羽目に陥ってしまったのだ。 |