「氷河ーっ! きっさまーっ !! 」 某県S山の山奥から 最愛の弟の許に 飛んで帰った一輝は、城戸邸に着くなり、相変わらず鬱々とした凍気を生産していた氷河を、問答無用で殴り倒した。 一輝の城戸邸到着時刻は、氷河の身体に非常事態宣言が発令される時間帯ではなかったので、氷河は自室からラウンジに下りてきて、安全距離を保ちつつ、瞬の姿を堪能していたところだったらしい。 数ヶ月振りに 仲間たちの許に帰ってきたと思ったら、『こんにちは』の挨拶もなく、暴力行為に及んだ兄に、瞬はびっくり仰天。 鳳凰座の聖闘士に殴られた勢いで、掛けていたソファから 床に転がり落ちてしまった氷河の側に慌てて駆け寄り、瞬は その身体を抱き起こした。 「兄さん! 急に何をするんです! 氷河が何をしたっていうんですか!」 何をするも 何をしたもない。 瞬の兄には、氷河が この地上に存在すること自体が 大いなる災厄にして害悪だった。 「瞬! その男に近付いてはならんっ!」 「近付いてはならんって、なに言って……」 『何を言っているのか』と問われれば、一輝は、『地上で最も清らかな魂を持つ最愛の弟を、汚らわしい邪欲から遠ざけるための忠告を垂れたのだ』と答えるしかなかっただろう。 一輝は、最愛の弟の清らかさを守るため、この地上から汚らわしい邪欲を消し去るため、そして、人としての正義と秩序を貫くために、そう言ったのだ。 「いいから、今すぐ、氷河から離れろ! この男は、男の分際で、おまえで、朝だ……朝……朝……いや、夜間陰茎……夜間……夜間……いや、だから、つまり、この男は、男の分際で、おまえに懸想しているんだっ。危険だ! ヘンタイなんだ!」 「え……?」 「俺が瞬に懸想? 一輝、貴様は何を言っているんだ。俺は、マザコンが屈折して、瞬に申し訳が立たないことに――いや、マーマに瞬を投影して、結果的にホラーに――」 瞬が、兄の言う『あさだあさあさ』や『やかんいんけいやかんやかん』の意味がわからなかったのは、瞬が地上で最も清らかな魂を持つ人間だからではなかっただろう。 多少 汚れた魂の持ち主にも、『あさだあさあさ』や『やかんいんけいやかんやかん』の意味は わからなかったに違いない。 そして、氷河に 一輝の告発の意味が わからなかったのは、氷河が自らの朝立ち(= 夜間陰茎勃起現象)を マザコン症状の屈折発展したものと考えていたからだった。 氷河は、まずマザコン(ギリシャ神話風に言うなら、エディプスコンプレックス)があり、そこに瞬を巻き込んで、混沌としたホラー現象(= 夜間陰茎勃起現象)が起きているのだと 思っていたのである。 だが、一輝の解釈は、氷河のそれとは全く違っていた。 「ええい、往生際が悪いぞ! ごまかすな、この不埒者! 貴様は瞬に懸想して、汚らわしい欲望を抱いているんだろう! その欲望が肥大して、母親を忘れることに罪悪感を抱き、瞬を避けていると聞いた。しかし、その我慢も いつまでもつか わからない。今や、抜き差しならぬ危険な状況とか。貴様は 今すぐ 地球の反対側にでも行ってしまえ! とにかく、瞬に近付くな!」 今すぐ 地球の反対側に行ったなら、氷河は暑さで死ぬだろう。 一輝の怒声は 氷河に『死ね』と言っているようなものだったが、同時に、その怒声は、星矢と紫龍が 瞬に言えなかったことを瞬に知らせ、かつ、氷河の病状の正しい診断を 氷河に知らせるものだった。 「俺が 瞬を好きで、マーマを忘れることに罪悪感……そうだったのか……」 地獄で仏、闇夜に提灯、日照りに雨、そして、渡りに船。 今の氷河は、一輝に希望をもらったようなものだった。 マザコンを こじらせ、抜け出せない泥沼に はまり込んだために起きているのだと思っていた夜間陰茎勃起現象が、ただの爽やかな(?)純愛(?)にすぎなかったのだ。 しかも、その恋の相手は、地上で最も清らかな魂と 世にも稀なる清楚な姿を持ち、その優しさ強さは、誰に教えてもらわなくても十二分に承知している人。 普通に考えて、この地上に これ以上恋する価値のある人はいないだろうと即断できる人。 氷河は、彼の心が沈み込んでいた(沈み込んでいると思っていた)不気味に濁った沼が 一瞬で浄化され、己れが 清らかに澄んだ泉の岸辺に佇んでいるような気持ちになってしまったのである。 自分の病気に巻き込んで 申し訳ないと思いつつ、瞬の姿を見ていたいという心に抗えずにいたのは そういうことだったのだと、すがすがしく爽やかな気持ちで、氷河は得心した。 「どんな事情があるにしても、何も悪いことをしていない人に暴力を振るうのはいけないことだと思うんです」 『あさだあさあさ』や『やかんいんけいやかんやかん』の意味は わからなかったが、ともかく 兄に冷静になってもらわなければならない。 そう言って 瞬が兄を諌めたのは、弱い者や いじめられている者がいると 助けたくなる瞬の性癖ゆえだったろう。 何より 氷河は、ブラコンの仲間を嫌って避けていたわけではなかったのだ。 その事実が判明した今、瞬が氷河を庇いたくなるのは、ごく自然な心情だったろう。 「よかった。僕、氷河に嫌われてるのかと……」 「そんなことがあるはずがないだろう。俺は もちろん、おまえが好きだ。それも、かなり。ものすごく。いや、死ぬほど」 「うん……よかった……」 人間が その生を生きていく上で、嫌われたくない人に『好きだ』と言ってもらえることほど 嬉しい出来事があるだろうか。 嫌われているかもしれないと案じていた人に『好きだ』と言ってもらえることほど 嬉しい出来事はない。 氷河に好きだと言ってもらえた瞬は、今まさに人生で 最高に嬉しい瞬間の中にいた。 「瞬っ。そいつはヘンタイなんだ! 危険だから離れろっ!」 一輝が脇で 何やら がなり立てていたが、 「兄さん、さっきから、なに変なことばかり言ってるんです。氷河がヘンタイだの何だのって、そんなことあるはずないでしょう」 兄の激昂の訳が、瞬には まるでわかっていなかった。 兄の暴力の贖罪とばかりに、氷河が立ち上がるのに手を貸した瞬は、氷河と並んでソファに腰を下ろし、氷河の気持ちを誤解して落ち込んでいた これまでの時間を取り戻そうとするかのように、嬉しそうに にこにこし始め、そんな瞬の隣りで、氷河は、ほぼ無表情で やにさがるという器用なことをしている。 そんな二人を見た一輝は、怒りが臨界点を超えて声も出なくなり、酸素不足の金魚状態。 そして、この騒ぎを引き起こした張本人でありながら 第三者である星矢は、実は、この展開が よく理解できていなかったのである。 「えーと……。一見 ほのぼのしたハッピーエンド風になってるけど、これでいいのか?」 当事者たちに訊く勇気は持てないので、とりあえず 隣りにいる紫龍に確認を入れてみる。 紫龍は、あまり悩んだ様子もなく――つまり、深く考えた様子もなく――あっさり星矢に首肯してきた。 「瞬は、ブラコンのせいで、自分が氷河に嫌われているのではないかと心配していたんだ。その心配が杞憂だったんだから、瞬としては万々歳だろうな」 「でも、氷河は、瞬とやりたいんだろ。瞬は――」 瞬は、その辺りのことが わかっているのだろうか。 星矢の懸念は、ただ その一点にあった。 要するに、“氷河の『好き』”の内容と、“瞬が理解している 氷河の『好き』”の内容には、(おそらく)多大な齟齬がある――という点に。 しかし、紫龍は、星矢のその懸念をも、極めて軽快に一蹴した。 「星矢、俺たちは瞬の仲間だ。瞬が落ち込んでいたから、瞬を力づけ元気にしてやりたいと思った」 「うん」 「そして 俺たちは、瞬の仲間としての義務を無事に果たした。瞬を力づけ元気にするという目的を果たしたんだ」 「うん」 「無論、俺たちは氷河の仲間でもある。だが、氷河の下半身にまで干渉する権利は、仲間である俺たちにもない。それは、氷河のプライベートに関わる、極めてセンシティブな分野の問題だ。仲間といえど、立ち入ってはならない領域なんだ」 「そりゃ そうだ」 「してみると、俺たちは、瞬と氷河の仲間として為すべきことは すべて為したと言えるだろう」 「うんうん」 「あとは、氷河が一人で勝手にどうにかする。どうにかできなかったとしても、それは氷河が無能だったというだけのことだ」 「まあ、そうだろうな」 「こういうことは、線引きが肝心なんだ。日本国憲法第13条にも、『すべての国民は 個人として尊重される』と定められ、国民のプライバシー権が保証されている。人は、それぞれの領分を侵してはならないんだ。領分領域限界を超えて 干渉したり執着したりするから、人はブラコンやマザコンになる。行きすぎた執着愛着固着干渉は、断じてよろしくない」 もっともらしい顔で、もっともらしいことを言っているが、要するに紫龍の主張は、『氷河の下半身問題は、氷河が自分の力で どうにかすべき問題である』ということ。 『氷河の下半身などには断じて関わりを持ちたくないから、知らぬ存ぜぬを決め込もう』ということだった。 瞬が明るく元気に笑っていてくれれば、それで満足だった星矢は、もちろん、もっともらしい顔で、もっともらしいことを言う紫龍に、もっともらしい顔で頷いたのである。 氷河の夜間陰茎勃起現象が 今後どうなるのか。 星矢は そんなことは知りたくもなかったから。 Fin.
|