「あの……」 本当に、これは いったい何なのだろう? 『おまえに』と言うのだから、自分が受け取るべきものなのだろうか。 手に取っていいものなのか、『これは何?』と尋ねていいものなのか――。 そんなことさえ わからずに、瞬は、氷河が自分の前に置いた薄桃色の箱を ただ黙って見詰めていたのである。 そんな瞬に、彼らしくない低姿勢で、氷河が、 「開けてみてくれ」 と、頼んで(?)くる。 「あ……あの……はい……」 声からも 表情からも、今の氷河の感情は読み取れない。 いつもは そんなことはないのだが、氷河が緊張しているのか、瞬自身が当惑しているせいなのか、ともかく 瞬は、氷河の今の気持ちは――当然、その真意も目的も――全く わからなかった。 わからないので、言われた通りに、その箱を開けてみる。 解くのが勿体ないほど細かな細工が施されているリボンを解き、包装紙を取り除き――そっと蓋を開けた そこに現われたのは、一枚の絵だった。 光沢のある黒背景に、絹糸より細く白い線で 雪の結晶に絡む白いチェーンの絵が描かれている。 繊細で複雑な意匠。 それが模様ではなく 絵と認識されるのは、描かれているものに規則的な反復がないから―― 一つとして同じ形状のものがないから。 そして、だからこそ、安定感よりも美しさを感じさせるものだったから――だった。 瞬は、一瞬 息を呑んだ。 それから、 「綺麗……」 という言葉が、口を衝いて出てくる。 その絵が 本当に細い線で描かれていたので、瞬は しばらく気付かなかったのである。 それが 黒色と白色のチョコレートで描かれていることに。 先に その事実に気付いたのは紫龍だった。 「特注品か、この意匠は」 氷河が、 「俺が作った」 と答えたので――『俺が描いた』と答えなかったので――瞬は初めて、それがチョコレートで描かれた絵だということに気付いたのである。 「え……」 気持ちが沈んでいたせいで 平生の俊敏さが失われていたのか、驚きが先に立って 思考がついてこないのか――どんなリアクションも起こせずにいる瞬の横で、星矢が巣頓狂な声をあげる。 「おまえが作ったあー !? 」 その声は、つい先ほどの怒声とは調子が全く違っていて――トーンはもちろん、音が半オクターブほど高くなっていた。 星矢はもちろん、それが氷河の手作りだということに驚いたのである。 天地が引っくり返るほど、星矢は驚いた。 それは事実である。 だが、その事実よりも何よりも、 「虚礼廃止じゃなかったのかよ !! 」 ということの方が、星矢には大問題だったのである。 バレンタインデーにチョコレートを一つも もらえない男の悲哀だの、バレンタインチョコレートのせいで破綻するカップルだの、バレンタインデーの起源だの、ほとんど言い掛かりとしか思えないような理屈を並べ立てて、アテナの聖闘士たちのバレンタインイベントを中止に追い込んだのは、どこの誰だったのか。 それは、今 手作りのチョコレートを瞬に贈った白鳥座の聖闘士・キグナス氷河 その人ではなかったか。 氷河は、この矛盾をどう説明してくれるのか。 怒ればいいのか、呆れればいいのか、笑えばいいのか。 自分の感情すら把握できないまま、星矢は氷河を怒鳴りつけた。 氷河の代わりに紫龍が、その矛盾の答えを星矢に手渡してくる。 「虚礼ではないのだろうな。一生を共に過ごしたいと思えるほど愛している人、その人のためになら自分の命をかけることもできると断言できる人に贈るチョコレートなんだろう、これは」 「一生を共に……って……」 星矢が、氷河の顔を見る。 氷河は相変わらず、簡単には感情を読み取らせない無表情。 そして、氷河は、『そうだ』とは言わなかった。 おそらく、謙虚なわけではなく、照れているわけでもなく――肝心なことを言わない悪癖のせい、もしくは、明言しない方がクールだと思い込んでいるから。あるいは、瞬なら言葉にしなくても わかってくれるはず――という甘えのために。 それが虚礼ではないこと―― 一生を共に過ごしたいと思えるほど愛している人、その人のためになら自分の命をかけることもできると断言できる人に贈るものだということ――を認めることはせず、それが 自分の手作りチョコレートだということだけを、氷河は認めた。 「年が明けた頃から ずっと、特訓していたんだ。テンパリングから成形まで。書籍を読み漁り、国内の各チョコレートショップに見学に行き、チョコレートの魔術師と呼ばれているベルギー在住のショコラティエの作業現場も見てきた。2月に入ってからは、デザインを決めるのに四苦八苦し、フランスのヴァローナ社のクーベルチュール・チョコレートを取り寄せて、実際の作業に入り――」 「テンパリングって何だよ」 チョコレートというものは もらって食べるものであり、自分で作るものではないという考えの星矢には、まず その言葉の意味がわからなかった。 それが麻雀用語の『テンパる』とは無関係なのだろうということだけは、おぼろげながら 星矢にも察しはついたが。 その質問にも、氷河ではなく紫龍が答えてくる。 「チョコレートの口当たりを滑らかにするために、一度チョコレートを融かして、凝固させ直す作業だ。室温調節された場所でないとできない作業だから、城戸邸ではできない。今年に入ってからの氷河の頻繁な外出は、そういうことだったんだろうな」 「はあ……?」 「まあ、そんなことは、アテナの聖闘士は知らなくてもいいことだ。ともかく、氷河のそれは虚礼ではない。ということだな」 「……」 確かに、紫龍の言う通り、テンパリングなる言葉の意味も、ヴァローナ社なる会社が どんな会社なのかということも、クーベルチュール・チョコレートとは どんなチョコレートなのかということも、チョコレートの魔術師の最大奥義がどんな技なのかということも、アテナの聖闘士には――星矢には――知らなくてもいいことだった。 知りたいとも思わなかった。 星矢はただ、氷河の手作りチョコレートが虚礼ではないということが わかれば、それで十分だったのである。 つまり、 「つまり、おまえは、自分が瞬に告白するために、俺のチョコを犠牲にしたってのかーっ !? 」 ということが わかれば。 やっと事情が呑み込めたらしい瞬が、星矢の横で ぽっと頬を上気させる。 氷河のバレンタインデー否定演説に沈んでいた瞬の心は、星矢の怒声で 見事に浮上したらしい。 しかし、星矢は、沈んでいた心が浮上するどころか、怒りが天を衝き抜けて大気圏を突破し、更に宇宙空間で大爆発してしまいそうになったのである。 なぜ氷河はそうなのか。 自分の夢(?)を叶えるために努力を惜しまない姿勢は 称賛に値すると言えなくもないが、氷河は 周囲の迷惑を顧みなさすぎるのだ。 瞬のために努力したい気持ちはわかる。 努力しなければならないと、瞬には それだけの価値があるのだと、氷河は思っているのだろう。 その考えを否定する気は 毛頭ない。 とは言っても、だが、しかし。 瞬は、アポロチョコを1粒 渡して『好きだ』と言うだけでも、その気持ちをわかってくれる人間である。 瞬は、高価なチョコレートもプレゼントも欲しがらない。 氷河も それは知っているはずなのに――瞬が そういう人間だということを知っているからこそ、氷河は瞬を好きになったのだろうに――氷河の一途は、とにかく傍迷惑すぎるのだ。 「ん……んな、面倒で ややこしくて傍迷惑なことしなくても できる告白のせいで、俺のチョコ……俺のチョコを犠牲に……ぎぎぎぎ犠牲に――」 怒りのために、声と言葉がスムーズに出てこない。 一度 言葉を紡ぎ出すのをやめ、星矢は 大きく長く深呼吸をした。 それから、改めて 氷河を糾弾すべく、星矢は 臍下丹田に力を込めた。 ――が。 「星矢」 天馬座の聖闘士の名を呼んで、紫龍が 星矢の第二弾攻撃を 押しとどめる。 そして、紫龍は、視線で、瞬を見るよう、星矢に告げた。 怒り心頭に発している星矢の横で、氷河の手作りチョコレートを見詰め、瞬は その瞳に涙をにじませていた。 その涙は、どう考えても 悲しみの涙ではない。 瞬も氷河を好きだったからなのか、氷河に嫌われていなかったことに安心したのか、氷河の無駄な努力が、それでも嬉しかったのか――おそらく、そのすべてなのだろう。 瞳を潤ませて微笑んでいる瞬が あまりに幸せそうなので、星矢は 氷河を なじり倒すことができなくなってしまったのである。 世界が自分の望む通りのものでなかったから、氷河は、世界を 自分の望む通りの世界に改造した。 普通の人間なら、世界ではなく 自分の方を変えて世界に合わせようとするものなのだが、氷河は それをしない。 決して自分を変えない。 周囲の人間には傍迷惑の極みだし、なぜ そんな面倒なことをするのだと呆れるしかないのだが、氷河には おそらく、自分を変えることより世界を変えることの方が容易なのだろう。 何より 瞬が、そんな氷河を認め、受け入れ、許し、そんな氷河の傍迷惑を喜んでいるのだから、第三者である星矢には もはや何を言うこともできなかった。 「ありがとう、氷河。僕、嬉しい……」 瞬に『嬉しい』と言ってもらえた氷河が、表情は変えず、瞳だけを 瞬より嬉しそうに明るく輝かせる。 星矢は 盛大に口を尖らせながら、引き下がるしかなかったのである。 「まあ……瞬がいいなら、それでいいけどさー……。チョコくらい、我慢するけどさー。でも、来年は――」 来年は、何とか氷河を説得して、城戸邸のバレンタインデーイベントを復活させ、“この地上世界でバレンタインデーを迎える男たちのヒエラルキー”の頂点に返り咲きたかったのである。星矢は。 一生を共に過ごしたいと思えるほど愛している人、その人のためになら自分の命をかけることもできると断言できる人に贈るのでなければ、そのバレンタインチョコレートは虚礼だと 氷河は言うが、現代日本のバレンタインデー事情はさておいて、城戸邸で 瞬が仲間たちに贈るバレンタインチョコレートは 決して虚礼ではなかった。 瞬は、一生を共に戦いたいと思えるほど信じている仲間、その人のためになら自分の命をかけることもできると断言できる仲間に、心尽くしのチョコレートを贈ってくれていたのだから。 そう 星矢は信じていたし、事実もそうだったに違いないのだ。 何より 星矢は、とにもかくにも バレンタインデーには“可愛い子”から贈られたチョコレートを食べたかった。 今年のように 侘しいバレンタインデーは、二度と経験したくなかったのだ。 |