「ダムナティオ・メモリアエ――って知ってる? “記憶の断罪”」 「古代ローマの? 元老院が 国家への反逆者に科す記録抹殺刑――だったか。その反逆者が生きて存在していた痕跡をすべて消し去る刑。確か、エジプトでも、アメンホテプ4世やハトシェプスト王妃が 存在を抹消されているな。スターリン時代のソ連でも、トロツキーが“いなかった人”扱いされている」 「うん。そう。そのダムナティオ・メモリアエ。日本では、“記憶の断罪”とか“記憶の破壊”って訳されることが多いかな。帝政ローマでは、暴虐の限りを尽くしたドミティアヌス帝や、カラカラ帝の弟で共同皇帝だったゲタ帝が 兄に憎まれて、その刑を受けている。ダムナティオ・メモリアエの刑を科された人は、あらゆる記録から その名が消されてしまうんだ。彫像は破壊され、肖像画やコインからは、その姿が削り取られ――」 「ああ、そうだった。それが?」 「……それだけ」 瞬は、『それだけ』としか答えなかったのに、氷河は、『それだけ』の意味を、驚くほど正確に酌み取ってのけた。 「俺たちは、明日、沙織さんを奉じて聖域に向かう。聖域は 沙織さんを女神アテナとして認め受け入れてくれるのか、もし 聖域が彼女をアテナと認めてくれなかったなら、彼女を奉じて聖域に挑む俺たちは 聖域への反逆者として、その存在を抹消されてしまうのではないか――と、おまえは不安なわけだ」 「……」 “好きで、いつも見ていれば”その人の心がわかる――という氷河の言が普遍的事実なのであれば、人は恋をすることによって 超能力者になれる生き物だと、瞬は思う。 もちろん、現実には、そんなことは滅多に起こらない。 少なくとも、氷河ほど正確に人の心を読み取ることのできる人間は、そう多くはいない。 氷河は、その能力に 著しく恵まれており、しかも その能力を ただ一人の人に対してのみ駆使しているから、そんなことも可能なのだろう。 ともかく 瞬は、氷河の その力に驚嘆した。 そして、自分は そこまで わかりやすい――隠し事のへたな人間なのかと、胸中で自嘲する。 「詰まらないことを――そうなるかどうか わからないことを心配しても無益だと、笑われるかと思ったのに」 「笑わないさ」 言葉通りに 笑わずに、氷河は、その青い瞳に“彼が好きで いつも見ている”人の姿を映しとった。 そうしてから、瞬の肩を抱き、視線を 彼方の星の方へと巡らせる。 瞬が その不安を語りやすくするために。 瞬は、氷河の胸に 軽く肩と頭を預けた。 そして、氷河と同じ星を見詰める。 「アンドロメダ島にいた時に、僕の先生から聞いたことがあるんだ。前の聖戦の時に、僕と同じ名前の聖闘士が聖域にいたらしい――っていう話を。だけど、その聖闘士に関する記録は ほとんど残っていなくて――お墓もなくて…… 一枚の紙片に その名が記されているだけなんだって。僕と同じ名前の聖闘士は、アンドロメダ座か 乙女座の聖闘士らしいんだけど、それすらも はっきりしない。ただ、その紙片は とても重要な書類として扱われていて、教皇宮の文献室で発見された時には、軽々しく公にしちゃいけないっていう但し書きが付いていて、その上に更に、ものすごく厳重な封がされていたんだって。僕の先生も 伝聞で知っただけで、直接 その紙片を見たわけじゃないそうだけど――」 聖闘士の名が記された秘匿資料。 余人に知られてはならない聖闘士の名というものがあるのだとしたら、それは、ローマ帝国の“記憶の断罪”刑のように、存在を消された聖闘士の記録なのではないかと、瞬は考えたのである。 そして、それが自分の未来の運命なのではないかと思わずにはいられなかった。 聖域の記録から抹消された『瞬』という名の聖闘士が、今の――明日からの自分に重なってならない。 それが瞬の不安だった。 “詰まらないことを――そうなるかどうか わからないことを心配しても無益だと、笑われるかと思ったのに”、氷河は笑わなかった。 瞬の不安に同調することもしなかったが。 「瞬という名は、俺にとっては世界に一つしか存在しない特別な名前だが、俺の個人的事情を考えなければ、よくある名だぞ。日本語に限らず」 だから、自分に重ねるべきではないと、氷河は言う。 それはそうである。 全くもって、氷河の言は、(氷河の言だというのに)実に普通で、一般的で、妥当で、ありきたりでさえあった。 もちろん、そうなのだ。 前聖戦の頃――二百数十年も前に存在した(かもしれない)聖闘士など、たとえ その人物か瞬と同じアンドロメダ座の聖闘士だったとしても、今の瞬に関わりのある人間であるはずがない。 瞬自身も、その聖闘士と自分の間に何らかの関わりがあるなどという、荒唐無稽なことは考えていなかった。 「でも……聖闘士が記憶の断罪の刑を科されるのって、どんな時なんだろうって……」 それは、どんな時に あり得ることなのだろうと 考えずにはいられないのだ。 聖闘士は、どんな時、どんな場合に、その存在をなかったものにされるのか。 アテナへの反逆、聖域への反逆、地上の平和を守るどころか、地上に 更なる争いや混乱を招くようなことを為した聖闘士が、そんな刑を科されることになるのではないかと。 少なくとも、帝政ローマの時代のそれのように、帝位簒奪者が前皇帝の存在と共に自らの罪を隠すために、そんな刑が実施されるわけがない。 聖域で、行ない正しい聖闘士が その存在を消されるようなことはないだろうと思うし、思いたい――のだ。 氷河が、星を見るのをやめる。 瞬の肩を抱いていた腕を解き、彼は再び その視線を、彼が“好きなもの”の上に戻してきた。 「考え過ぎだ。おまえと同じ名の その聖闘士は、戦うことより大切なものを見付けて、聖衣を返上しただけかもしれないだろう。だから、名は残っていても、聖域に墓はないというだけのことかもしれない」 「戦うことより大切なものって、どんな?」 仮にも聖闘士になった者が――高い理想を抱き、つらい修行に耐え、ついに聖衣を授かった者が――その聖衣を返上するようなことが 頻繁にあるとは思えない。 望んで聖闘士になったわけでもなく、しかも 戦いが嫌いな聖闘士でさえ、そんなことは考えもしないのに。 自嘲気味に、瞬は そう思ったのである。 そうしてから瞬は、いつもなら心配性のアンドロメダ座の聖闘士の心配事や不安を その微笑で打ち消してくれる氷河が、今夜はまだ一度も笑っていないことに気付いた。 氷河は 今夜は微笑ではなく言葉だけで、瞬の懸念を消そうとしているようだった。 「それは……恋とか」 「恋?」 また随分とロマンチックな言葉を持ち出したものだと、不安に囚われている瞬の方が つい笑みを作ってしまう。 「そんなもののために」 「そんなもののためとは何だ、そんなもののためとは」 「あ……」 瞬の苦笑は 氷河の機嫌を損ねてしまったらしい。 瞬は慌てて 自身の笑みを引っ込めた。 「ごめんなさい。そうだね。聖闘士が恋する相手が聖闘士とは限らないね」 聖闘士同士なら、共に戦うこともできる。 だから、瞬は聖衣の返上など考えたことはなかった。 だが、もし その聖闘士が恋した相手が 戦いに縁のない一般人だったとしたら、その人と共に生きるために、戦場から離れようとする聖闘士もいるかもしれない。 そんな聖闘士が絶対にいないとは言い切れない。 そんな聖闘士が絶対にいないと言い切ることは、決して できないが。 「でも、聖闘士なら、普通は――」 聖闘士というものは、地上の平和を守るために、個人的な幸福を諦めて、聖衣を授かった者なのではないのか――そう言いかけて、瞬は直前で その言葉を喉の奥に押しやった。 わざわざ そんな誰でも言えるようなことを言って、氷河の機嫌を 更に悪くするような愚を犯すことはない。 「僕は幸運だったけど――氷河と一緒に戦っていけるから」 氷河の機嫌をとるために、瞬はそう言った。 もちろん、その言葉は嘘ではない。 本心から、瞬は そう思っていた。 それで氷河が嬉しそうに瞳を輝かせる様を見ると、瞬も嬉しくなる。 “情けは他人のためならず”と言うが、恋人の睦言も同じなのかもしれない。 自分が嬉しくなるために、人は それを口にするのだ。 「僕は 氷河ほどロマンチックにできていないみたいで、恋のためだなんて、そういうこと、思いつかなかった。罪を犯して 存在を抹消されたのだと思って……。その人と僕の間には何の関わりもないって わかっていても、気落ちしていた。でも、そうだね。そういうこともあり得る。僕じゃない“瞬”は、戦うこと以外で地上の平和に尽くす道を見付けた聖闘士だったのかもしれないね」 きっと そうだったのだろう。 そうであってほしいと、瞬は、二百年以上も昔に その人生を生きた“瞬”のために願った。 「僕の先生も、その聖闘士の記録が消えているのは、アンドロメダ座の聖闘士の消えた場所に 同じ名前の僕が立つことになるという運命を示唆しているのかもしれないと言って、僕を励ましてくれたんだ」 「そして、実際に、おまえは その運命の示唆通りに、アンドロメダの聖衣を まとう資格を得たわけだしな」 「ん……。ごめんね。明日には聖域に向かうっていう時に、こんなこと」 「いや」 氷河は、彼の恋人の心が 不安の淵から浮上してくれれば、それで満足らしい。 よりにも よって、聖域に向かう前夜に気勢を殺ぐような話を持ち出した瞬を責めるようなことは、彼はしなかった。 瞬の手を取り、その指に唇で触れる。 「おまえの努力と資質、そして運命の導きによって、せっかく聖闘士になれた おまえに、こんなことを言うのは 気が引けるが、しばらく 聖闘士であることを忘れて過ごそう」 「明日の朝まで?」 「そう。明日の朝まで」 明日がくれば、二人が 聖闘士であることを忘れられる時は、最悪の場合、永遠にこないかもしれない。 瞬は、氷河に促されるまま、室内に戻った。 見えない星を見なくて済むよう、レースとベルベットの二重のカーテンを閉じる。 瞬を室内に戻すことに成功した氷河は、ベッドに腰をおろして、その様子を無言で見詰めていた。 その視線を感じる。 ベランダに面しているカーテンを閉じるのに要する時間は、どれほど ゆっくり行なっても10秒に足りない。 以前、その10秒を待ちきれず、『星に見せつけてやるというのはどうだ?』と提案してきた氷河の真顔に耐えきれず、瞬は 盛大に吹き出してしまったことがあった。 それ以来 氷河は、瞬がカーテンを閉じるのを大人しく待つようになっていた。 だから 瞬は、今夜も氷河が急かしてこないことを奇異には思わなかったのである。 だが、今夜 氷河が瞬を急かすことなく 大人しく、アンドロメダ座の聖闘士が 白鳥座の聖闘士の腕の中に来てくれるのを待っているのには別の理由があった。 |