ナターシャのパパは夜のお仕事をしていて、帰ってくるのは 夜中の2時3時。時には朝方になることもある。
お仕事の日には、パパは いつも、ナターシャが眠っている時刻に帰ってきていた。
ナターシャは、だから、パパがお仕事から帰ってきた場面を見たことがない。
だが パパは、帰宅が何時になっても、必ず朝の7時には起きていて、ナターシャとマーマに『おはよう』を言う。
パパは、ナターシャと暮らすようになってから、そうすると決めたのだと言っていた。
パパがナターシャに 朝の『おはよう』を言わなかった日は これまで一度もない――ナターシャは、これまで ただの一度も、パパの『おはよう』で始まらない一日を過ごしたことがなかった。

パパは、1週間の半分とマーマが夜勤でいない時には、ご飯の支度もする。
お料理は上手。
マーマより綺麗に作る。
だが、ナターシャは、料理の味は、パパが作るものより マーマが作るものの方が好きだった。
パパが作る料理は、あまり甘くない。
ナターシャは、一度 マーマに、
「どうしてパパは甘くない お料理を作るの」
と尋ねたことがある。
マーマは、
「氷河が作る料理は、大人好みの味だからね」
と、その訳を説明してくれた。
「ナターシャちゃんが、僕の作るご飯より 氷河の作るご飯の方を おいしいと思うようになったら、その時がナターシャちゃんが大人になった時かもしれないね」
と。
ナターシャは、本当に そんな時が来るのだろうかと、不思議な気がした。

パパは、お洋服を いっぱい買ってくれる。
マーマは、
「ナターシャちゃんは どんどん大きくなって、すぐに着られなくなっちゃうんだから、買いすぎないで」
と言うのだが、パパは、
「だから、新しい服が必要だろう」
と言って、新しい お洋服を買い続けてくれた。
ナターシャは、新しい お洋服を買ってもらえると嬉しいので、お洋服のことではパパの味方をすることにしている。

だが、ナターシャが新しい お洋服を着るたびに、『可愛い』と褒めてくれるのはマーマの方で、パパは いつも、新しい洋服を着たナターシャを、ただ 黙って見ているだけ。
「この お洋服、パパは嫌いなの? ナターシャに似合わないの?」
パパには訊けないのでマーマに訊いてみたら、マーマは 笑いながら 首を横に振った。
「お洋服が似合っていないと思う時には、氷河は そのお洋服は買わずに 別の服に替えさせるよ。氷河が何も言わないのは、そのお洋服が ナターシャちゃんにとっても似合っていて、ナターシャちゃんが とっても可愛いからだよ」
「ホントー?」
「ほんと。氷河は、ちょっと照れ屋さんで、恥ずかしがりやだから、人を褒めるのが苦手なの。氷河は、ナターシャちゃんが可愛すぎて、何て言えばいいのか わからないでいるんだよ」

マーマが そう言うのなら そうなのだろうと、ナターシャは思った。
マーマは嘘は言わない。
だから 本当は、マーマが『パパはかっこいいよ』と言ってくれさえすれば、ナターシャは“パパの観察”をすぐに やめることができた。
マーマが そう言ってくれないから、ナターシャは“パパの観察”を続けなければならなかったのだ。


ナターシャの おうちは二つある。
パパのおうちとマーマのおうち。
ナターシャの部屋はパパのおうちの方にあって、大抵は マーマがパパのおうちの方に ナターシャと遊びに来てくれる。
そして、マーマは、そのあとで必ず、
「玩具やお人形で遊んだら、ちゃんと お片付けをしなさい」
と言う。
パパは、
「どうせまた出して遊ぶんだから、放っておいてもいい」
と言って、マーマに叱られている。

本当は、ナターシャが叱られなければならないのに。
パパが 自分の代わりにマーマに叱られてくれているのを見ると、ナターシャは パパのために お片付けをしなければならないと思う。
だから、ナターシャは、パパのために お片付けをするのだが、そうすると、マーマは お片付けをしたナターシャを褒めてくれて、
「氷河もナターシャちゃんを見習ったら?」
と、またパパを叱ることが多かった。
ナターシャが マーマに叱られたパパを慰めてあげると、パパは元気になるが、本や服を置きっぱなしにすることはやめないので、パパがマーマに叱られるのは仕方のないことかもしれないと、今ではナターシャは思っている。

お外で遊んでくれるのはパパ。
絵本をたくさん読んでくれるのはマーマ。
マーマは、お洋服の買いすぎは駄目と言うのに、本はたくさん買ってくれる。
お話もいっぱいしてくれる。
パパも 時々は お話をしてくれるのだが、パパのお話は、シンデレラ姫が毒りんごを食べたり、白雪姫のママハハの魔法の鏡が『世界でいちばん綺麗なのは瞬』と言い出して、いつまで経っても お姫様が出てこなかったりする。
お姫様が出てこないから王子様も出てこない。
代わりに 正義の味方が出てきて、ダイヤモンドダストで意地悪なお兄さんや魔女を退治することが多かった。

マーマの白雪姫とパパの白雪姫は 全然違うと マーマに言うと、マーマは、
「白雪姫は世界中に何人もいるんだよ」
と教えてくれた。
「シンデレラ姫もね。シンデレラ姫っていうのはイギリスっていう国の お姫様なんだけど、フランスには サンドリヨン、ドイツでは アシェンプテル、イタリアでは チェネレントラ、日本にも 灰かぶり姫っていう、おんなじようなお姫様が 何人もいるの。その お姫様たちは、国や時代で少しずつ違っているんだ。シンデレラ姫はガラスの靴を履いてるけど、ドイツのアシェンプテルは銀の靴や金の靴、イタリアのチェネレントラは木の靴を履いてるんだよ」
と。

「どの靴も痛そう」
ナターシャは思わず顔をしかめてしまったのだが、ともかく それで、パパのお話も間違いではないことは わかった。
とはいえ、パパは白雪姫やシンデレラ姫と違って 一人だけのはずである。
パパが 白雪姫やシンデレラ姫のように何人もいるのだったら、かっこいいパパとトンマなパパがいるのだと思うこともできるのだが、ナターシャが大好きなパパは一人しかいないので、ナターシャは やはりパパの観察を やめるわけにはいかなかった。


パパはナターシャよりずっと大人で、背も高いし、力もある。
けれど、大変な寂しがりやで、一人で眠れなくなることが多い――というより、毎日 一人で眠れないらしい。
だから、いつも マーマに マーマのおうちに帰らないでと お願いしている。
そういう時、ナターシャは パパに 一緒に眠ってあげると言うのだが、ナターシャに そう言われると パパは必ず、
「ナターシャは一人で眠れるようにならなければならん」
と、厳しい顔で答えてくるのだった。

それならパパも一人で眠れるようにならなければならないと、ナターシャは思う。
一度、どうしてパパは あんなに寂しがりやなのかと 紫龍おじちゃんに訊いてみたことがあるのだが、紫龍おじちゃんは、
「あれは寂しがりやなのではなく、我儘なんだ」
と言って、溜め息を一つ ついた。
その時には ナターシャも、紫龍おじちゃんが言う通り、パパはちょっぴりワガママなのかもしれないと思ったのである。

それから、ナターシャのパパはとってもおしゃれで、いつもミダシナミに気を遣っている。
お客様相手のお仕事をしているので、お客様の前では いつも ちゃんとした格好をしていなければならないから。
そのことで、パパは 時々、マーマに、
「昔は、身のまわりのこと、ちっとも気にしなかったのに」
と からかわれていた。
「ムカシのパパ……」
パパの観察を始めて しばらくしてから、マーマの その言葉を聞いた時、ナターシャは はっとしたのである。

白雪姫やシンデレラ姫は何人もいるが、ナターシャが大好きなパパは一人だけ。
そして、だが、今は大人のパパも、昔はナターシャと同じように子供だったはずである。
つまり、パパは一人だけだが、今のパパと昔のパパがいるのだ。
ナターシャが かっこいいと思っているのは今のパパ、紫龍おじちゃんたちが トンマだと思っているパパは昔のパパ。
そういうことなのではないかと、ナターシャは思ったのである。
そうなのであれば、たった一人しかいないパパが、かっこよくて トンマでも不思議ではない。

そう考えて、ナターシャは、マーマに、
「パパは ムカシは かっこよくなかったの?」
と訊いてみた。
ナターシャに そう尋ねられたマーマは、いつものように優しく楽しそうに笑った。
「氷河は、子供の頃から とっても綺麗だったの。どんなに変わった格好をしていても綺麗で――だから、お洋服のことなんか 気にする必要がなかったんだよ。今は、お客様の前に だらしない恰好で出るわけにはいかないから、気をつけてるけどね」
「……」
マーマは、また (昔の)パパがかっこよくなかったのか、かっこよかったのか、はっきりとは答えてくれなかった。
そして、ナターシャは、マーマの言う、“どんなに変わった格好をしていても綺麗”というのが、どういうことなのかが わからなかったのである。






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