ナターシャとマーマの他にも たくさんの親子連れがいた児童公園から、人の姿はすべて消えていた。 それまで公園内に響いていた よそのおうちの子供の歓声も、よそのおうちのママたちの声も、今は聞こえてこない。 ここは、ナターシャがいつも遊びに来ている公園でありながら、いつもの公園ではない場所。 ナターシャの悲鳴は、マーマ以外の誰の耳にも届かないはずだった。 誰も、マーマを助けに来ることはできないはずだった。 だが、救いの手は 差しのべられたのである。 もう駄目だと、マーマの身体は偽物のカミュの氷の斧に打ち砕かれてしまうのだと、ナターシャが諦めかけた その瞬間。 「瞬っ! ナターシャ!」 アンドロメダ姫を救う正義の味方が登場したのだ。 その人は、白馬にもペガサスにも乗ってはいなかったが、王子様より ずっとかっこよく、ずっと頼もしく、ずっと輝いていた。 「パパっ!」 パパの声が その場に響き渡った途端、偽物のカミュの姿は 歪み、ぼやけ始めた。 どうやら この“変な敵”は、複数の敵に同時に攻撃を加えることができないらしい。 自失している瞬を見て、その異様な様子に、パパが眉をひそめる。 「瞬は何を見ているんだ! 瞬、何をしている!」 「パパ! 星矢おにいちゃんたちが言ってた、変な敵なの! マーマは、その人のこと、カミュって呼んでた!」 「カミュ……?」 一瞬 パパは、なぜ そんなことがあり得るのかと訝るような目で マーマを見やり、だが、すぐに その視線を敵の上に移した。 「瞬と一緒に下がっていろ、ナターシャ!」 「うんっ!」 パパが来てくれれば、もう大丈夫。 パパは明るく、覇気があり、ナターシャとマーマを守ろうという気概に満ちていた。 パパは、敵を倒し、ナターシャとマーマと共に生き続けることしか考えていない。 パパの小宇宙は、ナターシャを元気にした。 “変な敵”は、その攻撃対象をパパに変えたらしい。 一度 灰色の煙に戻った それは、誰かの姿を作ろうとして奇妙な動きを見せていた。 長い金髪の女性、金色の鎧を身にまとった男、ピンクの鎧を身にまとった(もしかしたら)マーマ、ツインテールの幼い少女。 何になればいいのか わからず迷っているような敵に、パパは自信に満ちて言い放った。 「何になっても無駄だぞ。俺が恐れるのは孤独だけだ」 「孤独……?」 “変な敵”は、それが どういう姿をしているものなのかが わからなかったらしい。 攻撃を仕掛けられない悪者は、アテナの聖闘士の敵にすらなれなかった。 パパは、周囲の空気を凍らせて 無数の光のきらめきを作ると、それで灰色の煙を取り巻き、そのまま粉々に打ち砕いてしまった。 その間、僅か数秒。 途端に、公園の中に、よそのおうちの子供たちとママたちの声と姿が戻ってくる。 パパが倒した敵は、跡形もなく――どんな痕跡も残さず――すっかり消えてしまっていた。 「パパ、パパ、パパーっ!」 ナターシャは全速力でパパの許に駆け寄り、パパが差しのべてくれた腕の中に飛び込んだ。 パパが、小さな花束を手に取るように軽々と、ナターシャの身体を抱き上げてくれる。 ナターシャは嬉しくて――パパが来てくれたこと、パパがナターシャとマーマを守ってくれたこと、マーマが“変な敵”に倒されずに済んだこと、何もかもが嬉しくて――パパの首に しっかりと しがみついていったのである。 晴れた日曜日の喧騒が戻った公園。 ブランコの横に 心許なげに立っているマーマの許に、ナターシャを抱きかかえたパパが歩み寄っていく。 「瞬」 パパは、少し迷っているようだった。 マーマを責めるべきか 気遣うべきなのかを迷って、結局 いつも通りに平坦で平淡な口調になる。 「今のが、星矢たちの言っていたカーサもどきか。いったい どういうことだ。カミュというのは……」 「ご……ごめんなさい。不意打ちで……思いがけなさすぎて……。ナ……ナターシャちゃんは――」 「無事だ。どうした。なぜカミュなんだ」 「……」 パパには、マーマを責めるつもりはなかっただろう。 だが、マーマは、はしゃぎすぎて玩具を壊してしまった時のナターシャのような目になって、それから静かに目を伏せた。 パパがマーマの答えを待つのをやめないので、観念したように ゆっくりと、重い口を開く。 「負い目っていうんじゃないけど、僕……幸せすぎて 恐いと思うことはあったの……」 「幸せすぎて 恐い――?」 「僕だけが幸せで……僕より 幸せになっていい人は たくさんいたのに、僕だけが幸せで、これでいいんだろうか――って……」 「瞬……」 パパには、マーマの その言葉こそが思いがけないものだったらしく、ひどく戸惑ったように、その瞳の青を 切ない色に変えた。 パパが何をしたいのかが、ナターシャには すぐにわかったのである。 ナターシャは パパのほっぺを すりすりと撫でて、 「パパ。ナターシャを下ろして。マーマを抱っこしてあげて」 と、パパに言った。 「ナターシャは、本当にいい子だ」 パパが嬉しそうに微笑んで、ナターシャの薦めに従う。 いつもは 外で そんなことをされるのを嫌がるマーマが、今日は パパの腕に大人しく抱きしめられた。 「僕、幸せに不慣れだったのかもしれない。今が あんまり幸せで――」 「それは よかった」 いつも通りに平坦で平淡なのに、パパの声は嬉しそう。 まるでナターシャにするように、パパはマーマの髪を撫でた。 「おまえは どれだけ幸せになってもいいんだ。そのために、俺がいる。おまえが幸せでいることが、俺の幸せだ。おまえは、俺を悲しませるな」 「……うん」 マーマは パパの胸の中で頷いて――マーマは いつもパパを叱っているマーマではなかった。 マーマに『いい子にしてて』と言われて、いい子にしている時のナターシャのように、パパの腕の中で 大人しくしている、“いい子”のマーマ。 星矢おにいちゃんも紫龍おじちゃんも――誰もが、マーマを綺麗で優しいと言う。 みんなが『綺麗』と言うマーマを、パパだけが 時々『可愛い』と言うことがあった。 ナターシャも、今のマーマは“可愛い”と思う。 マーマを『可愛い』と言わない人たちは、“可愛い”マーマを見たことがないから、だから、『綺麗』としか言わないのだ。 ナターシャは そう思った。 マーマは“綺麗なマーマ”と“可愛いマーマ”が二人いるのではなく、マーマは一人だけで、綺麗で、その上 可愛いのだ。 そして、人は、自分が見知っていることだけで 人を判断し、『ナターシャのマーマは綺麗だ』と言ったり、『瞬は可愛い』と言ったりする。 “かっこいいパパ”と“トンマなパパ”も、きっと そういうこと。 パパは かっこいいと思うナターシャが間違っているわけではなく、『氷河は トンマだ』と言う紫龍おじちゃんや星矢おにいちゃんが 嘘を言っているわけでもないのだ。 ナターシャは“可愛い”マーマを見て やっと、すっかり謎が解けたような気がした。 「ナターシャちゃん、ごめんね。僕、諦めかけて――」 パパに肩を抱かれてナターシャに謝ってくるマーマの姿が、ナターシャの目には、パパに付き添ってもらってマーマに『ごめんなさい』を言いにいく時の自分のように見えた。 そんな“可愛い”マーマを見て、ナターシャは、ますます楽しくなってしまったのである。 マーマが諦めかけたのは マーマ自身の幸せで、ナターシャを守ることは諦めなかった。 もちろん マーマは、マーマ自身の幸せを諦めてはいけないと思う。 けれど、マーマの幸せは きっとパパが守り抜いてくれるだろう。 現に今日、パパは マーマとナターシャを助けに来てくれたのだ。 「パパ、来てくれたね! よかったね!」 何より、それが嬉しい。 ナターシャは、それが嬉しくてならなかった。 パパがナターシャとマーマを助けに来てくれたことが。 ナターシャとマーマを助けに来てくれたパパが とても かっこよかったことが。 「パパ、すっごく すっごく かっこよかったー!」 嬉しくて、ナターシャはパパとマーマの前で ぴょんぴょん撥ねた。 マーマが そんなナターシャを見て、笑顔になる。 「そうか?」 マーマが笑顔になったのに安心したのか、パパは 唇の端を少し上げて、珍しく ちゃんとした微笑の形を作った。 「やっぱり、パパは世界でいちばん かっこよくて、世界でいちばん 強くて、世界でいちばん 優しくて、世界一のパパだったんだ!」 ナターシャの大絶賛に、 「瞬とナターシャがいるからな」 パパは そう答えて、ナターシャの頭を撫でてくれた 『瞬とナターシャがいるから』 パパは もしかしたら、“トンマ”なのかもしれない。 少なくとも 星矢おにいちゃんと紫龍おじちゃんの前では そうなのだろう。 だが、パパは、“瞬とナターシャがいるから”、マーマとナターシャのために、マーマとナターシャの前では かっこいいパパなのだ。 「ナターシャのパパは 世界でいちばん かっこいいパパだよ!」 ナターシャは、自分が“ナターシャ”で本当によかったと思ったのである。 心から、そう思った。 星矢おにいちゃんや紫龍おじちゃんではなく ナターシャだから、ナターシャは 誰よりも かっこいいパパを いつも見ていることができるのだ。 Fin.
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