「……」
氷河は瞬時に、ひどく不愉快な気分になったのである。
とはいえ、それは、スキンヘッド男の不躾な振舞いや 居丈高な命令口調のせいではない。
同伴の女の、雛祭りイベントに ふさわしくない真っ赤で奇天烈な恰好のせいでもない。
スキンヘッド男が口にした ある言葉が、氷河を死ぬほど不快にしたのだ。
つまり、“ダンサー”という言葉が。
水瓶座の黄金聖闘士を“ダンサー”と呼ぶような男とは、たとえ 彼が地球最後の人類であっても、たとえ今日が銀河系最後の一日でも、関わりを持ちたくない。
氷河は すぐさま その場を立ち去ることを決定した。

が、氷河にとっては幸いなことに、氷河が その決意を実行に移す前に、氷河とスキンヘッド男の間に 数十人の人間が勢いよく雪崩を打つように移動してきて、氷河の視界から不愉快なスキンヘッド男の姿を消し去ってくれたのである。
どうやら フラッシュモブには第二弾があったらしい。
その人の波に紛れて、氷河は 自分を“ダンサー”と呼ぶ男の許から、瞬のいるところに逃げ帰ることができたのだった。

そこで 氷河を出迎えたのは、瞬と、
「パパー!」
という、ナターシャの元気な声。
ナターシャが見付かったのは嬉しいが、広い公園で迷子になって心細さに泣いているはずのナターシャが なぜここにいるのかがわからない。
「ナターシャ、どこに行っていたんだ」
氷河がキツネにつままれた思いで尋ねると、ナターシャは きょとんとした顔で、
「あのダンスが始まるまで、ナターシャ、ずっと パパの後ろにイタヨー」
と答えてきた。
「なに?」
“ずっとパパの後ろにいた”ナターシャは、パパがフラッシュモブの中に入っていくのに驚いて、慌てて マーマのところに避難したのだそうだった。

それはいい。
それは 極めて適切な判断と対応である。
何も考えずにパパのあとについていっていたら、ナターシャは踊る人々の中で もみくちゃにされてしまっていただろう。
ナターシャの歳で、その危機回避能力は称賛に値するものである。
だが、仮にもアテナの聖闘士が――それも黄金聖闘士が―― ずっとバックを取られていることに全く気付かずにいたとは、とんでもない不覚にして迂闊。
いくらナターシャがパパに対して攻撃的小宇宙や敵意を抱いていなかったとはいえ、それは地上の平和を守るために戦う聖闘士として いかがなものか。
氷河は、己れの未熟に 我知らず青ざめてしまったのだが、ナターシャは無邪気なものだった。
「ミテー。スタンプ集めて、桃のお花のおリボン、もらったヨー」
明るく屈託のないナターシャに 嬉しそうに 桃色のリボンを見せられて、氷河は自信を喪失し、ますます落ち込んでしまったのである。

そこに、追い打ちをかける意図はないのだろうが、追い打ちをかけるように、
「氷河、のんきに落ち込んでる場合じゃないよ!」
という瞬の叱咤が飛んできた。
「俺は別に落ち込んでなど――」
瞬相手に虚勢を張っても意味はないが、ナターシャの手前というものがある。
パパの威厳を保とうといる氷河の言い訳は、だが、瞬が氷河の前に差し出したパンフレットによって、中断を余儀なくされた。
瞬が氷河に指し示したフラワーパークシティ雛祭りイベントのパンフレット。
その紙面には、『E国ロイヤルバレエ団振付師にして リベラル・ダンスカンパニー主宰コレオ・マクレガー氏と 米国の大スター・レディGの 夢のコラボ! 雛祭りイベント最終日には、レディGのプロモーションビデオへの出演者 オーディションが同時開催!』なる文字が踊っていたのだ。

「……何だ、これは」
リベラル・ダンスカンパニーなる団体も、レディGなる大スターも、氷河は寡聞にして知らなかったが、そんな氷河にも、そのオーディションが 雛祭りイベントには どんな関連性もないということだけは わかった。
氷河に わかったのは、それだけだった。
それしか わからなかったので『何だ』と問うた氷河に、瞬が――瞬もまた少々 当惑気味に、それが何なのかを説明してくる。

「僕も、さっき このパンフレットをもらって知ったんだけど――今日、このパークシティの広場の野外ステージで、世界的に有名なダンス・カンパニーの主宰者が、米国のスターと組んで制作するプロモーションビデオに出演するダンサーのオーディションが催されてたらしいんだ」
「あの くねくねと 気持ちの悪い集団ダンス、フラッシュモブじゃなかったのか」
「踊っていた人たちは みんな 真剣だったと思うよ。世界を股にかけて活躍してる大スターのプロモーションビデオに、世界屈指の振付師の振付で 参加できるかもしれないなんて、一生に一度あるかないかのチャンスだもの。氷河は、そのオーディションのステージの ど真ん中に飛び込んで、審査の邪魔をしちゃったの」
「それで、あの男は、頭から湯気を立てて、俺を捕まえろと叫んでいたのか」

蘭子ママ系統のスキンヘッド男が いきり立っていたのは、どうやら そういうことだったらしい。
氷河は やっと腑に落ちた。
事情がわかれば、対応策を練ることもできる。
氷河は慌てず騒がず(自分のしたことを反省もせず)、まず ナターシャに確認を入れた。
「ナターシャは目当てのものを手に入れたんだな?」
「ウン。桃の お花のおリボンも、雛あられも、雛あられ風ポップコーンも、菱餅風クッキーも もらったヨー」
ナターシャから笑顔の返事が返ってくる。

その笑顔は、雛祭りスタンプラリーを完遂した達成感が作ったもの。
ナターシャが この雛祭りイベントを十分に堪能したことの証である。
ならば、氷河さんちの今日の外出の目的は果たされたのだ。
「なら、速やかに逃げるぞ。いや、帰るぞ」
公園内は、雛祭りイベントにやってきた家族連れと オーディションの見物にやってきた客で ごった返している。
今なら、どさくさに紛れて 降りかかってきたトラブルから逃げおおせることもできる――というのが、氷河の考えだった。

「このまま 素知らぬ振りで帰るわけには――謝りに行った方が……」
いくら何でも そんな無責任なことはできないと、氷河の逃亡計画に 瞬が難色を示す。
だが、氷河には 氷河の都合というものがあったのだ。
氷河の事情といっても、それは、
「俺を捕まえるように叫んでいた男が蘭子ママそっくりの化粧をした気持ちの悪い男だったんだ。あの顔は 何度も見たい顔じゃない。むしろ、できれば二度と見たくない顔だ」
という、極めて自分勝手な事情が。

「そんな……蘭子さんに失礼だよ」
「何を言う。蘭子ママは、あの迫力の外見に負けない中身があるから、俺は 彼女を それなりに尊敬している。だが、中身のない奴が あの化粧はいただけない。おまけに、その気持ち悪い男には、信じ難いファッションセンスの女がついていて――」
「中身がないも何も――多分、その蘭子さん系統の人が、E国ロイヤルバレエ団の振付師で、世界的なダンス・カンパニーの主宰者さんだよ。一緒にいた女の人が、多分 米国の大スターのレディGさんっていう人だと思う」
「大スターといったって、俺が知らないレベルだ」
「僕も そういう方面には疎いけど、E国ロイヤルバレエ団は――」

E国ロイヤルバレエ団は権威も伝統もある高名なバレエ団で――と言いかけて、瞬は その言葉を口にするのを思いとどまった。
謝罪というものは、相手が高名だから、相手が権威者だからという理由で行なうものではない。そうであってはいけない。
瞬が そう考えて 言い淀んだところに、氷河が すかさず説得という名の詭弁を畳みかけてくる。
「イベント終了時刻になると、混雑して帰るのも大変になるだろうし、今のうちに帰った方がいい」
「そういう問題じゃ……」
「悪意なく ふらふらと審査会場に迷い込んでしまっただけの罪のない一般人に謝りに来られても、向こうも どうにもできまい。その対応に、かえって手間をかけさせるだけだ」
「それはそうだけど……」

氷河に説得されかけた瞬は、その段になって初めて、パパとマーマの話し合いが“家に帰る”と“謝りにいく”のどちらに決まるのかを、ナターシャが真剣な目で見守っていることに気付いたのである。
瞬は、パパとマーマの顔を見上げているナターシャの前に しゃがみ込み、慌てて パパの振舞いの弁明を始めることになった。
「ナターシャちゃん。誰かに迷惑をかけたら、ちゃんと『ごめんなさい』を言わなきゃならないの。でも、時々、その『ごめんなさい』は後まわしにした方がいいこともあって――もちろん、あとで ちゃんと『ごめんなさい』は言わなきゃならないんだけど――」
迷惑行為を働いたパパが『ごめんなさい』を言わずに その場から逃げることを是としてしまっては、ナターシャの教育上、大いに問題がある。
瞬は、ナターシャに、『ごめんなさい』を言えない人間になってほしくなかった。
瞬の弁明を聞いたナターシャが、こっくりと頷く。

「知ってるー。朝ごはんの時、ジュースを零しちゃっても、パパとマーマが朝のキスをしてる間は、『ごめんなさい』を言って邪魔しちゃいけないんダヨー。パパがそう言ってた」
「……」
氷河はいったい 娘にどういう教育をしているのか。
瞬は、ナターシャより、むしろ 氷河の方に教育的指導を行ないたい気持ちになってしまったのである。
とはいえ、多くの人々が雛祭りイベントを楽しんでいる この場で、そんなことを始めるのは、それこそ迷惑行為になりかねない。
瞬は 結局、氷河がしでかしてしまった迷惑行為のフォローは オーディション主催者と その運営組織が適切に行なってくれるはずだと 自らを説得し、ナターシャたちとイベント会場から脱出することにしたのだった。






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