「おお、彼だ! 間違いない!」
翌日。
開店1時間前に、氷河のバーに乗り込んできた世界的に有名な蘭子ママ系統の振付師は、カウンターに立つ氷河の姿を見るなり、興奮しきった歓声を上げた。
同行の米国の大スターの今日のコスプレテーマはロボットか宇宙人らしく、全身銀色。
ヒールが15センチはあるロングブーツだけが、どぎつい紫色だった。
「ええ、彼だわ! 間近で見ると、一段と愛想がないわね。なんてチャーミングなの!」
口にしているのは普通に英語だったが、氷河には それが宇宙人の言葉にしか聞こえなかった。
地球の礼儀を知らないらしい宇宙人が、
「さあ、契約書にサインを! 君は明日の世界的大スターだ!」
と、訳のわからないことを わめきながら、カウンターテーブルに一枚の書類を広げる。

『こんばんは』には少々 早く、『こんにちは』には少々 遅い時刻。
どちらを用いるべきかを迷っているのなら 許す気にもなるが、最初から そのどちらも口にする気がないらしい二人の失礼に、氷河は思い切り不快になった。
だから、氷河は無言でいたのである。
客でもない宇宙人に『いらっしゃい』を言う義理も義務もない。

店内には、万一のことを考えて(?)、彼の仲間たちが揃っていた。
最終兵器として、ナターシャも待機。
もっともナターシャは英語がわからないので、宇宙人の恰好をした大スターと 蘭子ママによく似た髪のない人を、テーブル席から 不思議なものを見る目で見詰めているだけだったが。
意地でも口をきくものかと 頑なな態度を堅持している氷河に代わって、瞬が にこやかにカウンターの二人の側に歩み寄っていく。

「はじめまして、こんにちは。失礼ですが、リベラル・ダンスカンパニー主宰のコレオ・マクレガーさんと 米国の大スター、レディGさんですか?」
自分の命を狙う敵にも敬語を使う瞬は、宇宙人にも礼儀正しく挨拶する。
そんな瞬を見ても、宇宙人たちは 自分たちの失礼に気付いた様子を見せなかった。
ただ、瞬の特異な容貌に瞳を見開き、やわらかく親しみやすい瞬の表情に 相好を崩しただけで。
「これはまた、実に美しい。その身のこなしから察するに、君もダンサー志望なのか」
「いいえ」
「では、演技の方? ミュージカル? 君なら、オンディーヌでも シルフィードでも ジゼルでも ジュリエットでも、素でできそうだ」

可憐な美少女の役名(だけ)を羅列されても 微笑を消さない瞬の大人な振舞いに、氷河は胸中 密かに感嘆していた。
慣れているとはいえ、瞬の この寛大寛容には いつも頭が下がる。
もしかしたら 瞬は、彼の仲間たちに『(ナターシャの)マーマ』と呼ばれても 腹を立てることはないのかもしれなかった。
だからこそ、氷河は、なるべく瞬を(ナターシャの前でも)『マーマ』と呼ばないようにしていたが。
氷河にとって、瞬は、ナターシャのマーマである前に 彼のただ一人の恋人であり、同じ目的のために共に戦う仲間であり同志だったから。

ともかく 瞬は、失礼な宇宙人たちの前でも、その やわらかな微笑を絶やさなかった。
微笑んで、世界的に有名な振付師と米国の大スターに語り続ける。
「僕は 彼の友人――いいえ、家族です。その契約を結ぶ前に、お二方に重要な情報を提供したいと思いまして。もちろん、彼――氷河に関する」
「重要な情報? それは有難い。我々は、彼について、氷河という名前と その驚異的な運動能力以外、何も知らないのだ。年齢も国籍も経歴も」
「ええ。氷河は、運動神経も身体能力も抜群。体力も驚異的。ご覧の通り、容姿も申し分のないものを持っています」
「ああ、実に見事だ。彼なら、ただ ステージに立っているだけでも、一つの作品になる 」
「同感です。ですが、氷河には センスの方に少々 問題がありまして」
そう言って、瞬がカウンターテーブルの上に持ち出したのは、11インチのノートパソコンだった。
にこやかに――あくまで にこやかに――瞬が その白く細い指でパロコンのエンターキーを押す。
「こちらをご覧ください。コスチュームを氷河が選び、振り付けも氷河自身が行なった作品なのですが」

カウンターの中にいる氷河には、そのパソコンのディスプレイに何が映し出されているのかを、自分の目で確かめることはできなかった。
瞬の説明と、アクエリアスの氷河が小宇宙を燃やしたわけでもないのに凍りついていく世界的に有名な振付師と米国の大スターの顔を見ているだけで、実に不本意ながら、大体の予測はできてしまったが。
「……」
「……」

瞬が提示した“重要な情報”は、オーロラエクスキューション以上の衝撃を、世界的に有名な振付師と米国の大スターに もたらしたようだった。
二人の凍りついた顔は、一向に解ける気配を見せない。
「な……何だ、これは……」
かろうじて 口だけが動くようになったらしい世界的に有名な振付師の質問に、瞬が 春そのものの微笑で答える。
「氷河のオリジナルダンスです。強く美しい白鳥のイメージで」

「……」
世界的に有名な振付師が再び絶句。
「……」
米国の大スターは絶句継続中。
そして、
「……」
星矢の沈黙。
「……」
紫龍の沈黙。

すべての生物の命が凍りつく長い氷河期。
生き物の声一つ存在しない その時期に、地球はいったい何を考えていたのだろう。
ついに目覚めた地球が、地上で最初に発した声は、
「スプリッツァーをくれないか」
だった。

氷河が、無言で、求められたものを作り、世界的に有名な振付師の前に置く。
よほど喉が渇いていたのか、そのシャンパングラスを手に取った世界的に有名な振付師は、それを一気に、一瞬で、一息に、飲み干した。
「美味い」
到底 カクテルの味を味わう余裕があったとは思えないのだが、彼の『美味い』には万感がこもっていた――こもっているように、アテナの聖闘士たちには聞こえた。
事実、こもっていただろう。
彼は、瞬が提供した“重要な情報”のおかげで、氷河を縛りつけると同時に 彼自身をも縛り付ける危険な契約を、かろうじて結ばずに済んだのだから。

「これほどのカクテルを作れるバーテンダーを、馴染み客から奪うのは酷だ――いや、罪だ。非常に残念だが、契約の件は なかったことにしよう」
「白ワインをソーダで割っただけだが」
初めて氷河が発した声が、世界的に有名な振付師たちには 不吉な呪いの声にでも聞こえたのだろうか。
彼等は、『情報提供者への情報提供料は振り込んでおく』と それだけ言って、アテナの聖闘士の光速拳も かくやとばかりの慌ただしさで、氷河の店を飛び出ていってしまったのだった。






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