そんな楽しい一幕はあったが、それは瞬が勝手に楽しいと感じただけで、ウティス当人は 何も楽しんでおらず、その表情には 喜怒哀楽等の感情も覇気も意欲も感じられない。
あるのか ないのかわからない小宇宙も無色無感触なままだった。

なにしろ、
「君は欲しいものはないの」
という問い掛けへの答えすら、
「ない。……と思う」
といった調子で、断言されないのだ。
あげく、
「こうなりたいという自分の理想像は?」
への答えが、
「……何物かになりたい」
なのである。

「第三身分とは何か。すべてである。それは 今日まで何であったか。無である。それは 何を欲するか。何者かになることを」
氷河が シェイエスの檄文を引用するのも むべなるかな。
仮にもアテナの聖闘士になれた者の内面が これほど空虚であることが、氷河には信じられない――ほとんど驚異でさえ あるのかもしれなかった。
「伝説の聖闘士探訪は 実は単なる名目で、本当は 自分探しなんて、生ぬるいことを目論んでいるのではないだろうな。“自分”は、探すものではなく、作るものだぞ」
氷河の意見は、これまた至極尤も。
しかし ウティスは、作りたい自分の姿も なりたい自分の姿も思い描けない――と言っているのだ。

「何物かになりたい――かあ……。アテナに代わって聖域を支配したいとか、地上世界を我が物にしたいとか――それが多くの人に幸福をもたらす望みでなくても、一つでも望むことがある人の方が、望むことが何一つない人より、主観的には幸せなのかもしれないね」
何を欲するのかが、その人間の個性を決める。
その“欲しいもの”がないと、ウティスは言うのだ。
完璧を自負するほどの力を持つ聖闘士の中の虚無。
ウティスが その力を 聖域支配などという野心のために用いないのは、聖域にとって幸運なことだが、彼が それほどの力を 地上の平和を守るために用いたいと願わないのは、世界にとっての不幸である。
ウティスの無気力無意欲は、瞬には共感できない何かだった。

「そんなガキが、なぜ聖闘士になったんだ。聖闘士にならなければ死ぬような状況に追い込まれでもしたのか」
「聖闘士になれば、何かになれると思ったんだ。だが――」
だが、なれなかった――と、彼は言うのだろうか。
何者かになれるかもしれないと期待して、技を磨き、尋常の人間には持ち得ない強大な力を得て、それでも その力を用いて成し遂げたいことはない、欲しいものもない、訴えたい主張もない。
その小宇宙には――アテナの聖闘士に小宇宙がないはずがない――色も温度もなく、存在感すらない。

そんな聖闘士が――そんな人間が――いていいものか。
氷河と瞬は言うべき言葉を見い出せず、無言で視線を交わし合った。
子供用の椅子に掛けて 目玉焼きと格闘していたナターシャが、さすがに二つ目の目玉までの完食は諦めたらしく、残りの目玉の載った皿をパパに“あげる”。
ナターシャは、目玉焼きと丁々発止のやりとりをしながら、大人たちの会話を ちゃんと聞いていたらしい。
フレンチスタイルのミルクセーキを飲み干すと、ナターシャは 自分の奮闘振りに満足したように 顔を上げ、
「ナターシャ、ウティスお兄ちゃんが好きダヨー」
と告げた。

「……なぜだ」
ウティスが真顔で問いかけたのは、たかが食事に一生懸命になれるナターシャが羨ましかったからなのか、呆れたからなのか。
昨日は『わからない』と言っていたナターシャの答えが、今日は違っていた。
「パパに似てるからー」
「……」
ナターシャの答えを聞いたウティスが 初めて、感情めいた何かを その顔に浮かべる。
否、それは感情といっていいようなものではなかったかもしれない。
ウティスは顔を強張らせたのだ。
ウティスの そんな様子を見て、瞬は ある一つの可能性に思い至ったのである。


瞬が思い至った、一つの可能性。
それは、もしかしたらウティスは氷河の血縁か子孫なのではないか――という考えだった。
もし そうなのであれば、聖闘士にならなければならない切実な理由がなくても、何としても叶えたい理想や夢がなくても、ウティスが聖闘士になれてしまったことに合点がいく。
ウティスには、氷河から受け継いだ才能と資質が備わっていたのだ。

しかし、だとしたら――彼が氷河の血を受けた未来人なのだとしたら――別の疑念が生まれてくる。
もちろん、氷河が誰かとの間に子を成したのだとしても(これから成すのだとしても)、今更 そんなことで嫉妬などしない。
嫉妬などという感情を生むには あまりにも、“氷河”と“瞬”は強く結びつきすぎてしまっていた。
そうではなく――別の疑念というのは、つまり、『そんなことを氷河がするとは思えない』という疑念だった。
ナターシャという娘を手に入れて、氷河が更に 別に子を持ちたいと思うことがあるとは、どうしても思えなかったのである。瞬には。

それでなくても、命を預け合った仲間同士、そこにナターシャというかすがいを手に入れて、“氷河”と“瞬”は 互いを完全な他者として見ることができなくなるほど強く結びつきすぎてしまった。
ここは、もう少し 客観的な目を持つ人間に、現状を見て判断してもらうしかない。
そう考えた瞬が頼ったのは、もちろん彼の仲間たちだった。






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