強大な力を持つ冥府の王がいる場所だというのに、そして、冥府の王は大層 美しい姿の持ち主だったのに、ジュデッカにも 光はありませんでした。
ただ、そこには瞬にとっての光があったのです。
懐かしい王妃様が、そこには いらしていました。
生きていた頃と変わらず お美しい姿、優しい瞳。
王妃様は、けれど、瞬の姿を認めると にわかに厳しく悲しげな お顔になりました。

「瞬。どうして あなたが死者の国にいるの」
「王妃様に生き返っていただくために、お迎えにまいりました。氷河が 王妃様の死を悲しんでいて、生きているのも つらそうなんです」
「だとしたら――そんな時こそ、あなたが氷河の側にいてやらなければ、氷河がひとりぽっちになってしまうでしょう」
「僕では駄目なんです。王妃様でないと」

王妃様が お亡くなりになった時、自分の深い悲しみに必死に耐えて、瞬は氷河王子を慰め 力付けようとしたのです。
けれど 氷河王子は、まるで自分の悲しみの中に引き籠もるように 瞬を遠ざけて、瞬は氷河王子を力づけるために彼の側に行くことすらできませんでした。
そうしているうちに、いつのまにか、氷河王子は怠け者の無気力王子と呼ばれるようになってしまったのです。
自分では 氷河王子の支えになることはできない。
つらく悲しいことでしたが、その事実を思い知らされたから、瞬は ここにやってきたのです。
王妃様に 無力を責められても、瞬は このまま一人で氷河王子の許に帰るわけにはいきませんでした。

「僕の命を差し上げます。王妃様を生き返らせてください。王妃様を、氷河の許に帰してあげて」
瞬は、王妃様が止めるのを振り切って、冥府の王にお願いしました。
一段 高いところにある玉座から、冷ややかな目で 瞬と王妃様のやりとりを眺めていた冥府の王は、その眼差し同様 冷ややかな声で 瞬に告げました。
「せっかく美しい魂が 手に入ったのに、地上に帰すのは惜しいが、そなたの魂も また、実に美しい。そなたが その命を余に差し出すというのなら、余は それでも構わぬぞ。そなたの魂と命なら、王妃の魂と命と引き換えにしても、十分に割りに合う」
ハーデスは、瞬に そう言いました。
そう言ってくれました。

けれど、王妃様は首を横に振って、瞬を止めようとするのです。
「瞬。人はいつかは死ぬの。私は、その時がきて、冥府に下りてきました。けれど、あなたと氷河は生きている。残された者は 生者の世界で生き続けなければならないのよ」
「そのために……氷河が生き続けるために、王妃様が必要なんです」
王妃様は、そういう意味で言ったのではなかったでしょう。
それは、瞬にもわかっていました。

オルフェが悔いていたように、自分は愛し方を間違っているのかもしれないという思いも、瞬の中にはありました。
ルネが言っていたように、自分は 愛してはならない人を愛していて、だから その罰として 愛する人の力になれないのかもしれない――とも思っていました。
カロンのように、人を愛することをしなければ、自身の無力に苦しむこともなかったのかもしれないと思う気持ちも、瞬の中には ありました。
けれど、それが何だというのでしょう。
瞬は、氷河王子に出会ってしまいました。
氷河王子を愛していましたし、氷河王子に 元の元気で明るい王子様に戻ってもらうことこそが、瞬の願いで、瞬の幸福だったのです。
そのために、瞬は、どうしても王妃様に生き返ってもらわなければなりませんでした。
間違っていても、瞬の望みは それだけだったのです。
氷河王子の幸福。
ただ、それだけ。

「余はどちらでもいいぞ。そなたたちは、どちらも甲乙つけがたく美しい。とにかく、美しい魂、美しい命が一つ、余のエリシオンを更に美しく彩ってくれさえすれば」
今 どちらを手放すことになっても、いずれ そなたたちは二人共が 余のものになる。それが、有限の命をしか持たない人間の定めなのだ――と、ハーデスは無感動な声で淡々と 瞬たちに告げました。

いつかは やってくる、その時。
限りある命を生きる人間には、けれど、その時までの短い時間が、世に二つとない宝石のように貴重なものなのです。
この気持ちは、永遠の命を持つ神には理解できないものなのかもしれません。

「氷河は王妃様がいらっしゃらないと、幸福になれないんです。王妃様が亡くなってから、氷河はすっかり気落ちして、生きていることも つらそうなんです。僕じゃ駄目。生きている者じゃ駄目。王妃様でないと。だから、僕がここに残ります。王妃様は氷河のところに戻ってあげて」
瞬は懸命に王妃様に訴えました。

「私の氷河が、そこまで愚かかしら……」
瞬の訴えを疑うように、王妃様が呟きます。
王妃様が何を疑っているのかが、瞬にはわかりませんでした。
氷河王子が王妃様を深く愛していることは、王妃様だって知っているはず。
王妃様が 氷河王子の悲しみを想像できないわけがありません。
そのはずなのに――王妃様は瞬の言葉を信じかねているようでした。
あげく、王妃様は、
「瞬。あなたは 一度、氷河の許に帰りなさい。そして、氷河の真意を確かめて。私の氷河が そんなに愚かで弱い子のはずがないわ」
とまで言うのです。

王妃様の言う通り、氷河は弱い人間でも愚かな人間でもありません。
王妃様がいてくれれば。
どんなに強い人間も、どんなに賢明な人間も、誰よりも愛する人を失ったなら、悲しみに打ちのめされ 混乱するでしょう。
その衝撃から立ち直ることは容易なことではないでしょう。
氷河王子は、誰よりも王妃様を愛していました。
そのことを知っている瞬の目には、氷河王子の嘆きと変貌は ごく自然なことに映りました。
氷河王子の嘆きと変貌より、王妃様の疑いこそが、瞬には不可解でした。

困惑する瞬と 疑う王妃様の間を仲介してくれたのは、意外にも親切な(?)冥府の王でした。
彼は、どこから いつのまに運んできたのか、一輪の小さな白い花を手にしていて、彼の傍らに控えていた黒衣の女性に それを預けました。
黒衣の女性が、更に それを瞬の手に運びます。
白い花が瞬の手に渡ると、ハーデスは、不吉な色の瞳の中に瞬の姿を映し、冷たく抑揚のない声で、その花がどういうものであるのかを、瞬に教えてくれました。
「それは、瞬、そなたの命を宿す花だ。その花を使って、王妃の命と そなたの命のどちらを選ぶのかを、そなたたちの大事な氷河に決めさせよう」
冷たく抑揚がないのに、どこか楽しそうなハーデスの声。
瞬はなぜか、彼の声に ぞっとしました。

「そなたが その花を氷河に渡した瞬間、そなたの命は その花に同化する。もし 氷河が母の生還を望むなら、ステュクス河のほとりで、『流れ行け、命の花。嘆きの河を越え、記憶の河を越え、命の河を越え、死の河を越え、母なるものの命 目指して』と唱えて、その花を河の流れに投ずればよい。さすれば、河に投じられた花と共に そなたの命は余の許に流れ着き、王妃は生者の国に帰ることができるだろう。それが、そなたの望みなのだな?」
冥府の王の言う通り、それが瞬の望みでした。
瞬はハーデスにお礼を言って、その小さな白い花を自分の胸に 押しいただいたのです。

「王妃様。今しばらくの 辛抱です。すぐに王妃様を氷河の許に戻してさしあげます」
「瞬。その花に あなたの命が宿っていることを、ちゃんと氷河に伝えるのよ? そうすれば、きっと――氷河は決して選び間違えることはないでしょう」
心配顔の王妃様の心を安んじさせるため、瞬は王妃様に笑顔で頷き返したのです。
「はい、王妃様」
瞬が そう答えた次の瞬間、瞬は 元の世界の神殿の前に立っていました。



おそらく ハーデスが、神の力で 一瞬のうちに 瞬を地上世界に送り返してくれたのでしょう。
ですから、瞬は聞くことがなかったのです。
つい先ほどまで瞬がいた冥界のジュデッカ。
そこで、ハーデスが、
「王妃。そなたの命が生き返るために失われるのは、あの花を河に投じた者の命だ。瞬の命を乗せた あの花が余の手に戻ってきた時、余は、花を投じた者の命を地上から消し去る。余は、美しい魂や命を愛でることが好きだが、それ以上に 我欲で人の命を犠牲にするような身勝手な人間を罰することが好きなのでな。それが冥府の王の仕事でもある」
と、王妃様に告げた言葉を。
そして、王妃様が、
「瞬の命より 死んだ者の命を選ぶ氷河だったなら、氷河には 生きている価値も意味もありません」
と、ハーデスに告げた言葉を。






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