「僕、ナターシャちゃんに不安を抱かせるようなことをしちゃったのかな……。ナターシャちゃん、氷河は ずっと自分と一緒にいてくれるって信じているみたいなのに、僕のことは信じきれていないみたいなんだ。僕は、ナターシャちゃんに、あとから来た よその人だと思われてるのかな……」 瞬の勤務シフトは、準夜勤と深夜勤が月に3回ずつ、計6日。 氷河が店を休むことができず瞬が夜勤の日には、彼の仲間たちがナターシャの面倒を見てくれていた。 そういう日が、平均して 週に1度。 仲間たちが氷河のマンションに来てくれることもあれば、ナターシャの方が泊まりにいくこともある。 今日は ナターシャが紫龍の家に泊まりにいくことになっていて、ナターシャは お出掛けのお洋服をどれにするか、お部屋で悩み中。 ナターシャを迎えにきた紫龍と、その来訪に合わせて氷河のマンションにやってきた星矢は、憂い顔の瞬を見て、まず苦笑した。 「黄金聖闘士が、黄金聖闘士に育児相談とは。1年前には想像もできなかった事態だ。世の中は 驚異的な勢いで変貌を遂げているな」 「こんな平和な大問題が起きるなんて、アテナの聖闘士の努力のたまものだぜ」 そんなことを感慨深げに言う仲間たちに、笑い返せばいいのか、自分は真剣に悩んでいるのだと怒ればいいのかを迷って――結局 瞬は再び元の憂い顔に戻ったのである。 そんな瞬を、星矢は今度は迷いも遠慮もなく笑い飛ばした。 「刷り込みってやつだろ。ナターシャにとって氷河は、この世界に生まれて最初に見た“動くもの”。ナターシャは、それを親鳥と信じて 後を追ってるんだよ」 「おまえが ナターシャにとっては、“パパが あとから連れてきたマーマ”だというのは、事実なんだしな」 ナターシャの人生と世界は、パパとの出会いから始まったのだ。 ナターシャの世界は、“はじめに言葉ありき。神の最初の言葉は『光あれ』”だった世界ではない。“はじめ”に あったのはパパ。 そして、パパは、その世界の光としてマーマを連れてきた。 そういう世界がナターシャの世界。 ナターシャの世界は、パパによって創られたものなのである。 ナターシャの世界の絶対者はパパなのだ。 瞬は もちろん、そんなナターシャの世界を知っていた。 決して、ナターシャにとって 氷河より重要な存在になりたいと思うわけではない。 瞬はただ、ナターシャの言葉が不思議だったのだ。 「ん……あんまり思いがけなかったから……。僕は、僕たちを置いて 飛んでいくのは 氷河の方だと思っていたから」 瞬は、いつも――これまで ずっといつも――そう思っていたのだ。 そして、紫龍たちにも、瞬がそう考える気持ちはわからないではなかったのである。 瞬には、故郷といえるものはなく、第二の故郷ともいうべきアンドロメダ島は失われてしまった。 そのせいもあって、瞬は、仲間たちが それぞれの修行地に赴いている間、城戸邸で仲間たちの帰りを待っていることが多かった――母の許に赴いている氷河の帰りを待っていることが多かった。 瞬は港、仲間たちは船。 瞬は、そういう立ち位置にいることが多かったのだ。 “待つ”という行為は、ひとり 取り残されている状況――すなわち、孤独であること――に似ており、“待つ”時間は、実際のそれよりも長く感じるもの。 待ってくれている瞬がいることは、瞬の仲間たちには心強いことだったが、待たされる瞬は その間 ずっと心細さに支配されていたのかもしれない。 もちろん、仲間たちが帰ってくることを、瞬はいつも信じてはいただろうが。 「氷河は翼を捨てて、地上に下りてきたじゃないか。今じゃあ、氷河は すっかり重力のお友だちだ」 星矢が、星矢にしては詩的な隠喩を用いて、瞬の不安を消し去ろうとする。 氷河は、今では水瓶座の黄金聖闘士。 白鳥の翼は、もはや彼のものではない。 ナターシャは、白鳥座の聖闘士だった頃の氷河やアンドロメダ座の聖闘士だった頃の瞬を知らないから――大人になったパパとマーマをしか知らないから――氷河が どこかに飛び去ってしまうことなど考えもしない。 それは正しい考えなのだ。 今の氷河は、そういうものなのだから。 「逆に おまえはアンドロメダの鎖から解き放たれた」 「乙女座のアストライアーは有翼の星乙女だもんな。神々の中で最後まで 人間の善意と更生を信じて、期待して、けど、最後には人間に絶望して、人間界を去ってく女神サマだ」 「僕は人間を見捨てたりはしないよ」 それまで不安と憂いにばかり囚われているようだった瞬が、きっぱりと言い切る。 瞬が確信を持てないのは、あくまでも自分以外の人間のことで、瞬自身の意思や信念は揺るぎないものであるらしい。 アンドロメダ座だろうが 乙女座だろうが、瞬は瞬。 瞬は変わらないのだ。 瞬のその“変わらなさ”に、紫龍が頷く。 「聖闘士が皆、堕落した下種な人間を見限っても、おまえだけは 最後まで人間というものを信じ続けるだろうな。おまえだけは絶対に人間を見捨てない」 紫龍は、乙女座の黄金聖闘士を褒めているのか、呆れているのか。 それは瞬にはわからなかったし、わかる必要もなかった。 “瞬”が変わらないということを瞬は知っていたし、それは瞬自身が知っていればいいこと。 瞬が今 不安を覚えているのは、乙女座の黄金聖闘士の心ではないのだ。 「僕は変わらないけど……氷河は また翼が生えてくるかもしれない。そして、どこかに飛んでいってしまうかもしれない……」 仲間たちを待ち続けていた頃の心と記憶は、今も瞬の中で鮮明であるらしい。 瞬の瞳は 相変わらず憂いを帯びていて――だが、瞬の不安の吐露は ナターシャの明るい声に中断させられた。 「マーマ!」 やっと今日のお洋服が決まったらしいナターシャが、リビングルームに登場。 ナターシャは弾んだ足取りで室内に入ってきて、そのまま 瞬の胸に飛び込んできた。 今日のナターシャのお洋服は、紫龍の――というより春麗の――好みを考慮したのだろう、トグルで前を留めるタイトな短い上着に、大きく広がったサテンのスカート。 ナターシャは、彼女にしては珍しく、瞬の『可愛いね』を待たずに、 「パパはお空を飛べるのー?」 と、瞬に尋ねてきた。 耳も目も勘もいいナターシャには、瞬の不安の訴えが聞こえていたらしい。 そしてナターシャは、瞬が不安に思うことを 楽しく素敵なことと感じているらしく、瞬に尋ねるナターシャの声は明るく楽しげだった。 「うん、きっと。僕たちは、地上に留まっていてほしいと、氷河に願っちゃ いけないんだろうね……」 瞬の憂いとは対照的に、ナターシャには 空を飛べることは楽しいことでしかないらしい。 ナターシャはソファに掛けていた瞬の膝に座り、 「ナターシャ、パパと一緒に お空を飛んでミタイー」 と言って、足をぱたぱたと揺らした。 向かい合ったソファに腰を下ろしていた星矢と紫龍が、実に前向きで楽天的でさえあるナターシャの様子に 相好を崩す。 そして 二人は、彼女の明るさが瞬にも伝染ってくれればいいのにと思った。 ナターシャの明るい願いに、その発想がなかったらしい瞬が驚き、彼女のように前向きになれない自分を切なく感じているような――切ない微笑を浮かべる。 「ナターシャちゃんなら、できるかもしれないね。氷河と一緒に お空を飛ぶことも」 「マーマも一緒ダヨー」 ナターシャの無邪気さを羨むように、瞬がナターシャの髪を撫でる。 「うん……。うん、そうできたらいいね」 三人で一緒に飛ぼうと ナターシャに言われても、瞬の憂いは晴れていないようだった。 |