「マーマ!」
子供らしいトーンの高い声で“マーマ”を呼び、ナターシャが瞬の許に駆けてくる。
腰掛けていたベンチから立ち上がり、そこにしゃがんで、瞬はナターシャの小さな身体を抱きとめた。
「ナターシャちゃん、どうしたの」
氷河は、ナターシャとボール投げをしていた場所から動いていない。
何があったのかと訝った瞬に、ナターシャは 氷河が立っている方を振り返り、首をかしげた。
「アノネ、マーマに似た人がいるの。パパとマーマを見てるの」
「え?」

自分が人の目を引く特異な容姿をしていることを、今では瞬も自覚していた。
以前は――氷河に『綺麗だ』と言われることには慣れていたが、それは氷河の目にだけ映る虚像なのだと、瞬は ずっと思っていた。
人が自分を見て驚いたように目をみはるのは、アテナの聖闘士である自分が その身に常人とは異なる空気を帯びているからなのだろう。
瞬は、ずっと そう思っていたのである。
そうではないことを はっきり自覚したのは、同じアテナの聖闘士である星矢に、
「俺を見て驚く奴なんかいねーよ。おまえはフツーに綺麗なの。いや、別格で綺麗、か」
と言われた時。
『フツーに綺麗』とは どういうことなのかがわからず、わからない顔をした瞬への星矢の説明は、
「人類の9割くらいが“綺麗”だと認めるのが“フツーに綺麗”。おまえは、99パーセントの人間が 人類ベスト5に入るって認めるくらい綺麗だから別格。ま、でも、それは ただそれだけのことだけどな。それ以上の意味も それ以下の意味もない」
星矢に『ただ それだけ』と言われて、瞬は 自分はそういう容姿の持ち主なのだと 素直に認める気になったのだった。

だが、だからこそ、誰かに似ていると言われたことはない。
兄がデスクィーン島で出会った幸薄い少女が 自分に似ていたらしいのだが(兄は そう言っていたが)、瞬自身は その少女に直接会ったことはなく、当然 彼女が本当に自分に似ていたのかどうかも知らない。
瞬は、それは事実ではないのだろうと思っていた。
それは、心優しく健気な一人の少女に惹かれた理由を欲した兄が、自分を納得させるために作り出した言い訳にすぎないと。

星矢の言う通り、“99パーセントの人間が 人類ベスト5に入ると認めるほど美しいこと”は、“ただそれだけのこと”でしかない。
美しさは、人の心が感じるもの。
99パーセントの人間に人類ベスト5に入るほど美しいと認められる人間より、たった一人の人に“世界一美しい”と思ってもらえる人間の方が、本当に美しく幸福な人間なのだ。
たとえば、ナターシャや瞬に“世界一 美しい”と思われている氷河のような男こそが。
その世界一幸福な男は、小さな薄緑色のボールを手にしたまま、ナターシャが指し示した 一人の人間を見詰めていた。

氷河が身じろぎもせずに見詰めている その人物は、確かに瞬に似ていた。
ただし、十代の頃の瞬に。
女の子なのだろうと、瞬は自然に思った。
思ってから、自分以外の人間が 自分を女性と誤認するのは、“自然な”誤りなのかと思う。
そう誤認されることは、瞬には全く嬉しいことではなかったが、その誤認に、瞬は悲しいかな、今では すっかり慣れてしまっていた。

そんな瞬に、その少女(少年?)は似すぎていた。
氷河も、その少女を“見ている”というより“視界に映して 呆然としている”ようだった。
その少女が アテナの聖闘士だということは、小宇宙でわかった。
弱いのか強いのか、小さいのか大きいのか、黄金聖闘士にも見極められないほど不安定な小宇宙。
だが、必要に迫られれば恐ろしく強大になると確信できる小宇宙。
その小宇宙は、バルゴの瞬ではなく、アンドロメダ瞬のそれだった。
瞬には、もう わかっていた。

ナターシャの手を引いて、“彼”の側に歩み寄っていく。
バルゴの瞬より、数センチ 背が低い。
そして、バルゴの瞬より細い。
この年頃の自分は もう少し ふっくらしていたと記憶しているのに。
そう思いながら、瞬は彼に、
「君は僕?」
と尋ねたのである。

『そうだ』という返事は返ってこなかった。
どうやら、突然 目の前に現れたアンドロメダ座の聖闘士に 氷河が呆然としていたように、アンドロメダ座の聖闘士もまた、バルゴの瞬と その家族が作っている光景に呆然としていたらしい。
『そうだ』の代わりに――むしろ、『そうだ』を省略して――彼は、瞬に、呟きでできた質問を返してきた。
「氷河と僕と――その女の子は……」

「あ、この子は ナターシャっていうの。氷河がナターシャのパパで、僕はナターシャのマーマ」
そういう説明になったのは、ナターシャの前で、『両親のない子』『親代わり』といった言葉を使いたくなかったからだった。
ナターシャの前で、『この子は、僕たちが引き取った親のない子で、僕と氷河は 彼女の親代わりを務めているんだ』という説明はしたくない。

「ナターシャダヨー」
瞬と つないでいない方の手を ひらひらと ひらめかせ、ナターシャが笑顔で自己紹介をする。
それでも自分の名を名乗らないところを見ると、ナターシャとナターシャのパパとマーマが描く 家族の肖像が、彼には それほどの衝撃だったということなのか。

「ナターシャ――氷河のマーマの名前……」
「うん……」
ナターシャは、パパにもマーマにも似ていない。
それで 彼も おおよそのことは察してくれるだろうと 瞬は期待したのだが、十代の瞬は、そんなことより もっと本質的で ずっと重要なことに気づいてくれた。
すなわち、
「あなたたち、幸せそう……」
ということに。

覇気の感じられない声、つらそうな表情。
ナターシャのパパとマーマが“幸せそう”なことを羨むことすらできないほど、彼の心は傷付き 憔悴しているのだ。
瞬は、そう察した。
――が。

十代のころ、自分が これほど気力を失っていた時期があっただろうか。
瞬には 思い当たる時期がなかった。
無論、物心ついてから今に至るまで、“瞬”の人生の道すがらには、つらいこと、悲しいこと、苦しいことが数多くあった。
それしかなかったと言っても、言い過ぎではないほど。
しかし、その つらさ、悲しさ、苦しさに打ちのめされている時間は、アテナの聖闘士たちには――瞬には――持ち得ないものだった。
アンドロメダ座の聖闘士が、これほど儚げな、これほど影の薄い人間であったことはない。
では、彼は、過去の自分ではない――彼は、今ここにいる 元アンドロメダ座の聖闘士とは別のアンドロメダ座の聖闘士――なのだ。

「君は、僕が幸せではない世界から来たの? どこから来たの? 歳はいくつ?」
死んだ者や殺された者たちが、特段の法則性も感じられない年齢で蘇っている この世界。
その生を生き直し、あるいは、世界そのものを作り直そうとする者もいる この世界、この時の流れ。
クロノスが関わると、時の流れも 世界の様相も狂い、混乱する。
そういうことなのだろうと、瞬は思った。
彼は、異世界のアンドロメダ瞬なのだ。

「15歳。場所は――わかりません。地球……日本とギリシャです」
「うん」
場所の説明は不可能だろう。
この世界の 千代田区千代田1丁目1番1号と、彼の世界の千代田区千代田1丁目1番1号は、同じ座標に存在しながら、違う場所なのだ。
異世界を区別する呼び名はない。
瞬は、質問を変えた。

「君は まだアンドロメダ座の聖闘士なの?」
「え?」
「僕、今は乙女座の黄金聖闘士なの」
「そ……そうなんですか」
異世界のアンドロメダ座の聖闘士が、心許なげに瞼を伏せる。
そんな未来など、自分には やってこない。そんな未来は、自分には無関係だというように。
若いアンドロメダ座の聖闘士は、アンドロメダ座の青銅聖闘士が 乙女座の黄金聖闘士になることに驚いた様子も、嬉しがる様子も、恐れる様子も見せなかった。
“自分”には全く興味がないようで――ただ大人の氷河の視線には 怯えているように見えた。

15歳の頃の自分は これほど おどおどしていただろうか――と、瞬は疑った。
聖衣を まとう資格を得る前の自分なら、わかる。
だが、15歳といえば、アンドロメダ座の聖闘士は 既に先代黄金聖闘士たちとの戦いを経験し、神との戦いも幾度か終えたあとのはず。
時の神クロノスの気まぐれも知っているアンドロメダ座の聖闘士が、時空の法則からの逸脱に怯えていることも考えにくい。
では、いったい彼は なぜ こんなに びくびくしているのだろう。
なぜ、こんなにも暗く、重苦しい空気を その身にまとっているのか。

尋ねれば、彼は答えてくれるだろうか。
自分から語り出そうとしないところを見ると、彼は 何らかの問題を解決するために この世界に やってきたのではなさそうである。
そもそも それは解決することのできる問題なのか。
瞬は、彼が それを話す気になってくれるのを待つしかないようだった。

「これはクロノスの仕業? 君はここに遊びに来てくれたの?」
自身に与えられた長い時を持て余し 退屈している時の神クロノスなら ともかく、“人間”が 遊びのために時空を超えるようなことをするはずがない。
瞬は、半ば冗談で尋ねたのだが、彼の答えは意外なものだった。
「クロノスは関係ない――と思います。でも、いつのまにか、僕はここにいて……」
その答えに、瞬と氷河は互いの顔を見合わせた。

クロノスが関与していない。
では 彼は、彼の力で ここに来たのだろうか。
聖闘士といえど 人間である者に、そんなことが可能なのだろうか。
しかも、彼はまだアンドロメダ座の聖闘士――青銅聖闘士だというのに。
それは、“神の域に達する”と評されているバルゴの瞬にさえ持ち得ない力だというのに。
彼は どこから、どうやって、その力を生んだのだろう。
「クロノスの仕業でないなら、君はどうやって――」
「パパ、抱っこー」

パパとマーマの意識が 見知らぬ少女に注がれていることに不満を覚えたらしいナターシャが、氷河に抱っこをねだってくる。
氷河はナターシャを抱き上げ、二人の瞬に、視線で、ベンチに移動することを提案してきた。
大人になった瞬と並んでベンチに腰を下ろした十代の瞬が、その腕に小さな女の子を抱えている氷河を、不思議なものを見るような目で見上げる。
ナターシャは、氷河の髪を引っ張ったり 鼻をつまんだりと、パパとのスキンシップに余念がなく、氷河はナターシャに やりたい放題を許している。
十代の瞬には、それは想像を絶する光景なのだろう。
彼はまだ、クールを気取ろうとしてクールになり切れず、それでもクールを装い続けている氷河をしか知らないはずだった。






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