春の夏の間の暖かい空気。
氷河の腕の中で、ナターシャは幸せな夢を見ているのかもしれない。
ナターシャの寝顔は あどけなく、安らいでいた。
ナターシャの命は、どこから どんなふうにして生まれたものであるのかも わからない命。
それでも、どんな命でも、どんな人間であっても、幸福になるのは不可能なことではない。

まるで終わりかけた春が見せた夢か幻のように、まだ幼ささえ残っていた異世界の瞬が消えてしまった世界。
その世界で、瞬は、
「あの瞬が生きている世界は、僕たちにも あり得た世界なんだろうね……」
と、小さく呟いた。
「僕たちが生きている この世界は、僕たちには現実だけど、今 幸福でいる僕たちの方が、異世界の瞬には幻影でしかないのかもしれない」
氷河が無言でいるのは、それが『そうだ』と言って頷く必要のないことだから。
『そうではない』と言い切る根拠を、氷河も持ってはいないからだったろう。

「すべてが夢である可能性――っていう命題を知ってる? この世界が誰かの夢の中の世界で、その誰かが目覚めてしまえば、この世界は消える――っていう考え」
「“神の見る夢”か。デカルトが否定するために四苦八苦した命題だな」
四苦八苦して、合理主義哲学の祖であるデカルトでさえ、否定しきることのできなかった命題。
瞬は、誰にともなく頷いた。

「僕たちが今のいる この世界は、氷河を失ったあの瞬が見ている夢の中の世界かもしれない。アンドロメダ島で泣いている僕が見ている夢の中の世界かもしれない。ナターシャちゃんが見ている夢の中の世界なのかもしれないよ」
それほど、人間というものは、世界というものは、不確かで頼りないもの。
そんな世界を命をかけて守ろうとするアテナの聖闘士の戦いは、この世界を夢見ている者には滑稽な足掻きでしかないのかもしれない――。

「なら、俺たちは、可能な限り 幸せになって、あの瞬の心を慰めてやろう。アンドロメダ島で泣いている おまえの心を力付けてやろう。ナターシャの心を温かくしてやろう」
事もなげに そう言ってのける氷河が、ここに――自分の世界に、自分の氷河としていてくれることが嬉しい。
嬉しいと、瞬は思った。
「ん」
どんな世界でも、人は一生懸命に 生きていくしかないのだ。
幸福になるために。
この世界に存在する大切な人たちを幸福にするために。

「パパ……マーマ……」
まだ夢の中にいるナターシャが、夢の中で、氷河と瞬を呼ぶ。
彼女はどんな夢を見ているのか。
氷河の腕の中で まどろんでいるナターシャは、幸せそうな微笑を浮かべていた。






Fin.






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