薔薇とジャガイモ






1870年に勃発した普仏戦争に敗れたことを きっかけに、フランス第二帝政は崩壊し、フランス皇帝ナポレオン3世は ナポレオン・ウジェーヌ皇太子、ウジェニー皇后と共に 英国に亡命した。
フランスは第三共和政に移行し、ナポレオン3世ことシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトはフランス最後の君主となる。
フランスは、いよいよ ベル・エポック――良き時代、美しい時代と呼ばれるシーズンに突入しようとしていた。

カミュが当主を務めるヴェルソー侯爵家(もはやフランスには侯爵家も伯爵家もないのだが)は、14世紀ヴァロア朝にまで溯る由緒正しいある権門である。
ヴァロア朝、ブルボン朝、フランス革命とナポレオン帝政時代、復古王政、七月王政、第二共和政、第二帝政。
代々の当主の才覚で 激動のフランスを生き延びてきた由緒正しい侯爵家は、今、滅亡の危機に瀕していた。
言葉を飾ることなく、有りていに言えば、金がないせいで。

「だからといって、どうして俺が政略結婚なんてものをしなければならないんだ!」
氷河は、彼の養父であるカミュの命令に 真っ向から刃向かっていったのである。
当然だろう。
氷河の価値観からすれば当然だった。
血のつながらない一介の孤児を引き取り、十数年間 養育してくれたことには感謝している。
もちろん、心から感謝している。
衣食住の面倒を見てもらった。
教育も受けさせてもらった。
ナポレオン3世が亡命するまでは、テュイルリー宮殿への出入りも自由。
すべては、ヴェルソー侯爵家の財と権威によるものである。
カミュは帝政下で 意図的に地位を望まなかったので、帝政崩壊後にも、生命の危険にさらされるようなことはなかった。
カミュは、その点では先見の明があったといえる。
成り上がりの英雄ナポレオンの血脈は 戦争に敗れれば君主たる資格を失うことを、彼は見越していたのだ。
さすがは500年以上の長きにわたって家名を保ってきた侯爵家の当主だけある――と、それは氷河も認めていた。

しかし、それほどの侯爵家も、帝政崩壊の余波で経済的打撃を受けることは避けられなかった。
というより、カミュは家名を保ち、かつ 故国フランスに留まるために、パリの邸宅や領地のほとんどを、自発的に共和制政府にただ同然で供出したのである。
そうしたからこそ、ヴェルソー侯爵家は、パリ郊外の広い薔薇園を抱いた小さな城館と、氷河名義にしていた ブルゴーニュの葡萄畑とワイナリーは失わずに済んだ――という見方もできた。
が、そういう経緯で、領地のほとんどを手放した現在のヴェルソー(元)侯爵家は、ブルゴーニュの葡萄畑からの上がりで パリの城館を維持するだけで精一杯。
共和政政府は不安定で、へたに要職に就くと、自身に不手際がなくても失政の責任を負わされ、早晩 失脚の憂き目を見るのは 火を見るより明らか――今より ひどい状態に陥るのは自明の理。
フランスは、血統や身分、政治的権力ではなく、金がすべてを決める時代になった――と、カミュは言った。

「イギリスでは最近、没落貴族がアメリカの成金令嬢を妻に迎え、その持参金で家格と体面を保つのが恥ではなくなりつつある。アメリカの成金の恩恵に浴した英国の貴族は、ポーチェスター伯爵家、アスター子爵家、ノリッジ伯爵家、枚挙に いとまがない。無論、私は、おまえに 自由主義に毒された我儘なヤンキー娘と結婚しろなどという無体なことは言わないぞ。おまえの妻候補は、“女 三界に家なし”――父に、夫に、息子に黙って従うことが美徳という教育を受けた、日本の、控えめで つつましやかな令嬢。日本の富の10分の1を有しているという、城戸家の令嬢だ。半分日本人のおまえなら、人種的偏見もないだろう」

ナポレオン3世は、英国への対抗心もあって、在位中は日本政府に各分野の技術を提供し、様々な物品を贈っていた。
これから日仏関係が どう転ぶかはわからないが、現時点で、日本とフランスの関係は極めて良好。
日本政府は国費で多くの留学生をフランスに送り込んできている。
フランスでは、特に 芸術の分野で、日本ブームの兆しが見え始めていた。
そういう意味で、日本という国は、フランスで認知されつつある。
その文化は受け入れられつつある。
しかし、国の存在が認知されること、文化が受け入れられることと、日本人が受け入れられることは、全く別問題なのだ。

「俺には人種的偏見はないが、このフランスは徹底した人種差別の国だぞ」
英雄ナポレオンの時代を除けば、戦争に負けてばかりだったフランス。
そのフランス国民のプライドが むやみやたらに高いのは、フランスが高い文化を有しているからである。
そして、フランスが高い文化を誇っていられるのは、たとえば 日本の文化を受け入れ 取り込むことのできる度量の広さがあるから――と言っていいだろう。
だが、そこに住む人間は。
フランス人は、彼等の“文化”とは全く矛盾した国民性を持つ“人間”なのだ。
フランス人のプライドの高さは、実は 文化以外に誇れるもののない国民の劣等感の裏返しなのではないかと、以前から氷河は疑っていた。

そのフランスは 先の普仏戦争でプロイセンに敗れ、首都パリは一時 プロイセンの占領下に置かれた。
今 フランス人のプライドは深く傷付き、それゆえに異様に高揚している。
日本人との政略結婚など、それこそ 侯爵家の家名を傷付ける行為なのではないかと、氷河は懸念していた。
カミュは そんなことより、彼の薔薇園と侯爵家の尊厳維持の方が大事なようだったが。
フランス人としてのプライドで家は保てない。
大事なのは、そんなプライドより、明日食うパン。つまり、侯爵家の人間の命をつなぐこと。
高い文化も 人間個々人のプライドも、すべては命あっての物種。
カミュの その判断は正しい。
だが、カミュの場合は、そこにヴェルソー侯爵家の尊厳を損ねたり 失ったりするようなことはできない――という条件が加わる点が厄介だった。
フランス人としてのプライドより、ヴェルソー侯爵家の人間の命の方が大事。
しかし、侯爵家の人間の命は、侯爵家の尊厳が保たれてこそ――というのが、カミュの価値観なのだ。

「徹底した人種差別の国でも、金と美貌があれば、そんなことは問題にならない。更に 教養があり、美しいフランス語が話せれば、フランスの上流社会でも 人々の尊敬を集めることはできるし、さしたる問題は生じない。重度のマザコンが幸いして、今のところ、おまえには決まった恋人も婚約者もいない。ないない尽くしで、何の不都合もないな」
「言っておくが、俺の理想は高いぞ」
「おまえのマーマとはタイプが違うだろうが、美形なのは確認済みだ。もちろん、若くて健康。先日 サロンで会った時には、バッスルスタイルの濃紺のドレスを見事に着こなしていた。プロポーションもなかなかのものだったな。あれなら 健やかな子を産めるだろう。これで 我が侯爵家の未来は明るい」

日本の富豪令嬢と氷河の間に子ができても、その子には カミュ(ヴェルソー侯爵家)の血は一滴も流れていない。
政略結婚の何のと無茶を言い出すカミュを、氷河が見限ってしまえないのは、カミュの そういう考え方が価値あるものに思えるからだった。
カミュは侯爵家の存続繁栄を望んでいる。
しかし、それは、自分の血が末代まで受け継がれることと同義ではないのだ。
彼の願いは、血脈の存続ではない。
自分の愛した者の心が永遠に受け継がれていくこと。
ヴェルソー侯爵家の尊厳、ヴェルソー侯爵家のプライドが不滅であること。
それが彼の望み。
カミュは、合理主義者ではあるがロマンチストなのだ。
血に こだわりはない。
問題は、氷河を育てたことで 自分は侯爵家の後継者を育てるという義務を果たしたと、カミュが考えていることだった。

「令嬢は、妾腹で――城戸家の当主たる父親は もちろん日本人なのだが、母親はアフリカ系フランス人なのだそうだ。日仏ハーフの16歳。日本では、異国人めいた容貌のせいで差別されることが多く、よい縁談も望めないので、フランスに留学してきたらしい」
「人種差別はフランスだけの十八番ではないというわけか。気の毒に。しかし、それとこれとは――」
『話が別だ』と、カミュは氷河に言わせなかった。
言葉で、氷河の口を封じる。

「おまえは 好きな女がいるわけではないんだろう? それとも、あれか。女の扱いに自信がないのか」
「ノーコメント。そういう挑発には乗らない」
氷河は、きっちり釘を刺したのだが、カミュは挑発をやめなかった。
「愛嬌がなくても、愛想がなくても、歯の浮くようなセリフが言えなくても、おまえの美貌があれば、大抵の女は ぼうっとなって、おまえが野暮な男だということには気付くまい」
「そういう問題じゃない。俺はその気の毒な令嬢を知らない」
「だから、これから知り合えと言っているんだ」
「俺は その令嬢を愛していないんだ! 金のために近づくような、さもしい真似もしたくない」
「そこは何とか努力してくれ。いや、努力の必要もあるまい。あれほどの美形に心を動かされない若い男というのは問題だぞ。よほどのマザコンか、男としての機能に障害があるとしか思えない。彼女に会い、彼女を愛するだけでいいんだ。それが 誇り高い我が侯爵家のためになる」

『彼女を愛するだけでいい』とは、軽く言ってくれるものである。
万一、本当に愛してしまったら、それこそ問題ではないか。
愛する人を金を得るための道具に使うことはできない。
本当に愛してしまったら、その愛のために、政略結婚などという卑劣なことはできなくなってしまうのだ。
フランス人のプライドや ヴェルソー侯爵家の尊厳がどうであれ、氷河のプライドは そうだった。

プライドの拠りどころが異なる人間同士の話し合いは、どこまでも平行線を辿ったまま、決して交わることはない。
「フランスに、もう爵位はない」
カミュの心を慮って、これまで禁句にしていた事実を、氷河は口にしたのである。
しかし、カミュは動じなかった。
「爵位の有無は関係ない。これは気概の問題だ。私は永遠に貴族だ」
高貴な魂の持ち主であるところの貴族は、家名家格を保つために政略結婚も辞さないということなのか。
問題は、ヴェルソー侯爵家の後継者たる氷河に、貴族の魂の持ち合わせがないということだった。






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