氷河が 次にエスメラルダに会ったのは、パリのセーヌ左岸、多くのカフェが並ぶサンジェルマン・デ・プレの一画。
伯父のナポレオン1世と違って、軍事的才能には恵まれていなかったが、ナポレオン3世は文化的素養には恵まれていた。
かつ、帝位を我が子と その子孫に受け継がせることができると信じていた。
でなければ 彼は、人口過密で不衛生を極めていたパリの街の改造計画に取り組むことはなかっただろう。
そのパリのサンジェルマン通りを、エスメラルダは一人で、なんと男の服を着て、そぞろ歩いていた。
通りの あちこちで、地方から出てきたのだろう無名の貧乏画家たちが、カフェと そこに集う人々の姿をスケッチしている。
彼女は、画家たちが描いている絵を 興味深げに覗き込みつつ、特段の当てもない様子で通りを歩いていた。

先日 ドービニェ家のサロンで会った時の感触からして、彼女が若いフランス男と知り合って恋を楽しみたいなどという希望を持っていないことは明白。
おそらく 一人で気ままな散歩を楽しんでいたいのだろう彼女に、氷河が つい声を掛けてしまったのは、彼女の姿が可愛らしすぎて、男装が男装になっていないからだった。
いくら昼日中でも、見るからに この街に慣れていない様子で、異国の若く美しい少女が一人で通りを歩いているのは、どう考えても不用心である。
現に、通りのあちこちに 佇み、歩き、たむろしている複数の男たちは、誰が最初に彼女に声を掛けることになるのかを窺い、互いに無言で牽制し合っていた。

「エスメラルダ!」
氷河に名を呼ばれても、彼女は振り返らなかった。
声が聞こえていないわけではない。
聞こえたからこそ、彼女は きょろきょろと周囲を見回したのだろう。
しかし、その見回し方が どこか奇妙。
彼女は、まるで それが自分の名前ではないように――知り合いと同じ名前の人物が 周辺にいるのかと考え、その人を探しているような様子で、その行為をしたのだ。
氷河は、彼女の正面に回り、
「エスメラルダ、こんなところで会うとは奇遇だ」
と言って、彼女の行く手を遮った。

「え?」
そこまでされて 初めて、エスメラルダは、氷河が呼んだ『エスメラルダ』が自分だと認めることができたようだった。
自分の名がエスメラルダだということを 何とか思い出してくれたらしいエスメラルダは、しかし、残念ながら 氷河の名までは思い出してくれなかった。
「あの……」
サロンの客など気に留めてもいないようだった彼女に、『どちら様でしょう』と問われるのは仕方のないことだと思うが、そこを すっ飛ばして『私はあなたを知りません』『人違いです』で逃げられるのは、いかにも体裁が悪い。
そう考えた氷河は、エスメラルダが何事かを言う前に、既に一度 彼女に知らせたことのある自分の名を名乗った。

「俺はそんなに印象が薄いのか? 先日、ドービニェ家のサロンで紹介されただろう。ヴェルソー侯爵家の氷河だ」
「ドービニェ家の……」
彼女は、氷河の顔と名前は憶えていないようだったが、幸いなことに 自分が数日前 ドービニェ家のサロンに出掛けていったことは憶えていたらしい。
エスメラルダは 軽く頷き、そして なぜか、真正面から氷河と顔を合わせるのを避けるように その顔を伏せた。

「あ、はい。氷河さん」
「氷河でいい。その姿は、ジョルジュ・サンドの真似か? ドレスの時とは、随分と印象が違うな」
『男装している方が コケティッシュに見える』という本音は、さすがに口にはできない。
「どんな格好をしていても、可愛らしい」
氷河は 当たり障りのない世辞を言い、言ってしまってから、それが世辞になっていないことに気付いた。
それは全くの事実で、事実を述べることは世辞にはならない。
「あの……僕は――」

エスメラルダが 落ち着かない様子で、周囲に視線を投げる。
日本では、独身の女性が一人で街を出歩くのは御法度なのかもしれない。
その女性の評判を落とすことなのかもしれない。
おそらく そうなのだろう。
だからこそエスメラルダは男装して 自分の性を偽っていて――その上 彼女は、自分が ちゃんと男子に見えていると思い込んでいたらしい。
ろくに話をしたこともない男に あっさり正体を見破られてしまったことに、彼女は戸惑っているように見えた。
「あの……男装している時には、僕のことは瞬と呼んでいただけますか」
上目使いに氷河の顔を窺い、彼女は 自分をエスメラルダと呼ばないことを氷河に求めてきた。
人違いということにして 氷河から逃げることを彼女は諦め、開き直ったのかもしれない。

開き直ったせいなのか、青空の下にいるせいなのか――いずれにしても、先日のサロンでは憂いに沈んでいるようだったエスメラルダの瞳が、今日は明るく輝いている。
今日のエスメラルダ――瞬――は、生気に満ちていた。
(おそらくは父親の命令で)夫探しのためにサロンに出掛けていくことが、そんなことをしている自分が、エスメラルダは不快でならなかったのだろう。
場所と服装が違うだけで、ここまで人の印象は違うものなのかと、氷河はエスメラルダ――もとい、瞬――の瞳の輝きに驚いた。
もし、実は俺にも その気はないのだと知らせてやったら、彼女の瞳と表情は もっと明るくなってくれるだろうか。
そんなことを考え始めている自分に、氷河は――自分のことだというのに――面食らっていた。
ともかく、この美しく魅力的な瞳の持ち主と、このまま別れてしまいたくない。
そうならないために、氷河は言葉を重ねた。

「君は、政略結婚には乗り気でないと踏んだんだが、好きな男でもいるのか」
「あ……あの……いいえ。僕は、そもそも そういうことには興味がないんです。僕、こういう外見でしょう。日本では、長くつややかな黒髪と黒い瞳が最高の美、それこそが日本女性の誉れ、日本人の魂。いくらお金があっても、毛唐じみた姿の嫁を迎えるくらいなら、家が滅んだ方がましという考えの家が多くて、結婚できる歳になっても 僕の許には 縁談が一つも持ち込まれてこなかったんです。でも、城戸は城戸で体面を保たなければならない。城戸の血を引く娘が、世間から いかず後家と嘲笑われるようなことがあってはならない。それで、僕の父だという人は、僕に、アメリカの大富豪の令嬢たちの真似をさせることを思いついたんです。黒髪に こだわりを持たない異国の爵位を持つ高貴な家の男性を夫に迎えれば、城戸の体面が保たれると。ですが、僕は、僕の人生を 城戸の体面を保つために使うつもりはありません」

ドービニェ家のサロンでは、意思のない人形のように口数少なく大人しかったのに、瞬になったエスメラルダは 別人のように意思的だった。
ここまで はっきり自分の考えを主張する女性は、フランスにも ごく少数しか存在しない。
滔々(とうとう)と自らの考えを語ってみせる瞬は、氷河の中にあった“従順で控えめな日本女性”のイメージを 見事に裏切ってくれた。
その裏切り振りが いっそ すがすがしくて、氷河は楽しい気分になってきてしまったのである。

「どこの国も、考え方はそれぞれだが、それぞれに馬鹿げているな。そこまで家に こだわって、何になるんだ 」
「農耕社会に入る前の狩猟採集社会だった頃の慣習に囚われているんでしょう。彼等には、マンモスやイノシシを家族総出で捕まえていた頃の記憶が残っていて、お家大事の価値観から抜け出せずにいるんですよ」
「……」
真顔で、瞬が言う。
本当に真顔だったので、それが エスプリに富んだ冗談なのか、辛味のきつい皮肉なのか、真面目な考察なのかが、氷河はすぐには判断できなかった。
言葉もなく、まじまじと瞬の顔を見詰めてしまった氷河に、
「なんです?」
やはり真顔で、瞬が尋ねてくる。
怪訝そうな瞬の視線を受けて、半ば 呆けていた氷河は、慌てて気を取り直した。

「いや、さすがに そこまで溯って考えたことはなかった」
瞬は、ドービニェ家のサロンで会った時とは、まるで印象が違う――むしろ、人が違う。
瞬は、弁舌が立ち、機転が利いていて、何より面白い。
自分の意思を持たず、常に男性を立て、男性に従う日本女性のイメージは、氷河の中では もはや完全に崩壊していた。

「それを 社会人類学上の歴史的必然と考えれば、僕の意思を尊重してくれない人たちを恨まずに済むでしょう。苦肉の策です」
「……」
いったい瞬は、きついのか優しいのか、逃げているのか前向きなのか。
血というものを無視して家の存続を希求するカミュの考え方も特異だが、瞬の考え方も変わっている。

「僕が妾腹の子だということは ご存じなんでしょう? 城戸の家も、正夫人は黒髪の慎ましやかな女性です。でも、愛人には金髪の女性でも受け入れる。日本の結婚制度は不可解で、僕は 結婚制度というものへの不審感を拭い去れない。当然、希望も持てません」
「家の体面のために結婚する気はないんだな。よかった」
それは氷河の本心だった。
氷河は、政略結婚などするつもりはなかったのだから。
もちろん それは本心だったのだが、同時に 氷河は、瞬に結婚の意思がないことを とても断念だとも思ったのである。

何にせよ、瞬が魅力的な人間であることは紛れもない事実だった。
その姿は美しく可愛らしく、その発言は いちいち小気味よく、楽しい。
到底 このまま別れてしまう気にはなれず、氷河は瞬をカフェに誘った。
実は一人ではカフェに入りにくく思っていたのか、瞬は 意外や快く氷河の誘いに応じてくれたのである。

瞬と過ごす時間は楽しかった。
目も耳も脳も心も大満足。
結婚の意思のない瞬は、だが、もしかしたら異国の地に一人でいることを寂しく感じていたのかもしれない。
『また会いたい』と氷河が告げると、瞬は『ドレス着用でなくてもいいのなら』という条件付きではあったが、氷河と再会の約束を交わしてくれた。






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