アンドロメダ座の聖闘士が タルタロスに閉じ込められていたのは、10年どころか、実はたった10日ほどでしかなかったらしい。 仲間たちに救い出され、光があふれている地上世界に戻ってからも、その光の中で 十二宮の戦いを戦った時と何も変わっていない仲間たちの姿を見ても、そして、仲間の救出に10日もの時間がかかってしまったことを 幾度 氷河に詫びられても、瞬は 奇妙な時差ぼけから脱することが なかなかできなかった。 孤独が人間の感覚を狂わせるといっても、たった10日を10年と錯誤することがあり得るだろうか。 その上 瞬は、タナトスの術で、大人になった氷河の姿を 自分の目で 確かに見たのだ。 「タルタロスは、不死の神々を封じるための牢獄。時間も空間も複雑に捻じれ乱れているのでしょう。もしかしたら、あなたをタルタロスに閉じ込めた あの二人は、時の神クロノスの力を借りて、あなたの周囲の時間の流れを狂わせていたのかもしれないわ。そうでなかったとしても――時間の流れというものは、個々人の感覚で 長くも短くもなり、速くも遅くもなるものだから」 気遣わしげな面持ちで そう言ってから、瞬以外の人間に共通して経過した客観的な時間は、間違いなく10日――瞬がタルタロスに囚われていた期間は確かに10日間だけだったと、アテナは瞬に確言した。 「瞬の幽閉には、オリュンポスの神々は関わっていないのよ。あなた一人に すべての人間の罪と罰を負わせるなんて、そんな決定をオリュンポスの神々は下していない。今回のことは、冥府の王ハーデスの従属神タナトスとヒュプノスが勝手にしたことで、彼等が言っていた神々の決定というのは、あなたにタルタロスからの脱出を企てさせないために、彼等がついた嘘。彼等は おそらく、そうすることが彼等の仕えるハーデスのためになると考えたのでしょう。彼等は あなたの心を汚そうとしていたらしいの」 「何のためにです」 冥府の王ハーデスが、アテナの聖闘士と聖域が いずれ雌雄を決しなければならない宿敵だということは聞いている。 だが、ハーデスに仕える従属神が――仮にも神が――たった一人の聖闘士の力を殺ぐために、ここまで手の込んだ策を巡らし実行することの意味と意義が、瞬には わからなかった。 沙織が、暫時、何事かを考え込む素振りを見せ、だが 結局 頭を横に振る。 「さあ……。彼等は人間ではなく神だから……これから彼等の主が戦う人間がどういうものなのかを、戦いの前に知っておこうと考えたのかもしれないわね。彼等の企みには、ハーデスも薄々気付いてはいたようなのだけど、彼は 彼の従属神たちを放っておいた。ハーデスも、彼等の企みの結果に興味があったのかもしれないわ」 “これから彼等の主が戦う人間がどういうものなのかを、戦いの前に知っておこうと考えた”。 そんなことのために、神ともあろうものが わざわざ? そして、彼等はなぜ アンドロメダ座の聖闘士を その実験台に選んだのか。 人間というものを知ることが 彼等の目的だったのなら、彼等はもっと普通の人間を選んでいたはずだし、聖域の戦力を減じることが目的だったのなら、彼等は 聖闘士としては最も下位の青銅聖闘士ではなく、もっと有力な聖闘士を捕えた方が その後の戦局を有利にすることができたはず。 彼等の人選が、瞬には得心できなかった。 瞬と同じようなことを、瞬とは全く逆の意味で、星矢も考えていたらしい。 無事に救出できた仲間に、一度 安堵の表情を向けてから、彼は呆れたように その肩をすくめた。 「神サマって、ほんと馬鹿だよな。よりにもよって瞬を選んで、アテナを裏切らせようとするなんてさ。その神サマたちって 絶対、瞬がアテナの聖闘士の中で いちばん大人しそうで、言うこと聞きそうだと思って、瞬を さらってったんだぜ。見る目がないにも ほどがあるだろ」 「確かに。瞬は戦いの目的意識の高さでは、聖闘士随一だ。瞬をさらっていった神たちは、瞬の女の子のような外見に騙されたんだろうな」 星矢のぼやきに、紫龍が 苦笑しながら同意する。 彼等は おそらく、瞬の心を気遣い、瞬を力づけるために、そう言ってくれていた。 彼等は、タルタロスで、覇気も生気も失い、静かに死の時を待っていた仲間の姿を見ているのだ。 「僕は、弱くて……すべてを諦めかけてたよ」 星矢たちの気遣いは嬉しいが、それが事実である。 瞬は 沈んだ表情で、事実を正直に仲間たちに告げた。 アテナが、瞬のその告解を否定する。 「あなたが諦めかけたのは、あなた自身の命であって、仲間たちの命でも 地上の平和でもないわ。あなたは、あなたの仲間たちを信じていたわ」 「それは、だって――星矢たちが僕を裏切ることなんてあるはずないもの」 それは――それだけは、確信をもって断言することができる。 仲間を信じていることは、瞬には 極めて容易なことだった。 自分自身を信じ続けることにくらべれば、はるかに。 「ええ。そうね……」 アテナが、軽く浅く、瞬に頷く。 それが瞬にとって幸福なことなのかどうかを、沙織は判断しかねている――ように、瞬の目には映った。 「ハーデスにとって、あなたは とても魅力的な存在なのでしょうね。ハーデスは、今回のことで、きっとその確信を強めてしまった――」 「え?」 アテナの呟きが、瞬に首をかしげさせる。 アテナは、瞬の疑念から逃げるように、その視線を氷河の上に移動させた。 「ともかく、瞬。あなたは 急いで氷河の機嫌を直す仕事に取り掛かってちょうだい。タナトスとヒュプノスに妻子持ち聖闘士にさせられただけなら まだしも、あなたが その嘘を信じてしまったことに、氷河は すっかり拗ねてしまっているから」 「あ……」 タルタロスで自分が経験したことをすべて 正直に仲間たちに打ち明けたのは きずかった――と、今になって瞬は後悔していた。 氷河の機嫌を損ねないためにも、自分は その件については言及せずにいた方がよかったのだ。 だが、あの幻影の件に触れずにいると、アンドロメダ座の聖闘士の“諦め”を どうしても仲間たちに正確に伝えられなくて――仲間たちに嘘をつくことになるような気がして――瞬は仲間たちにすべてを正直に打ち明けてしまったのだ。 幸福な家庭を持った氷河の姿を見て、嬉しくて悲しくて、僕は死んでもいいような気持ちになってしまったのだと、正直に。 瞬のその告白を聞いてから、氷河は ずっと おかんむりだった。 あの小さな女の子は いったい誰だったのだろう――と思う。 ハーデスの従属神たちの完全な捏造だというのなら、あの二柱の神は 相当 夢見がちな神である。 そして、改めて人間を知ろうとするまでもなく、人間にとっての幸福がどんなものであるのかを知っている神だと言えた。 「それにしても、この氷河を題材に、よく そんなハートフルな未来図を描けたものだと感心するな」 ふてくされきっている氷河に どんな言葉をかければいいのか わからずにいる瞬の代わりに 紫龍が、氷河の機嫌を直す作業の口火を切る。 「馬鹿げた妄想だ! この俺に、ガキの世話などできるわけがない!」 「だよなー」 星矢が、紫龍ではなく氷河に同調し、瞬は 曖昧に 言を左右にした。 「……うん。でも……」 あれは、氷河が望む幸福そのものの光景に思えた――思えるのだ、瞬には。 氷河が 思い描く通りの幸福。 実際、あの光景の中で、氷河は これまで見たこともないほど幸福そうだったし、そんな氷河が、瞬の目には ひどく自然で納得できるものに映った。 曖昧な瞬の態度を見た氷河が、怒声じみた悲鳴を上げる。 「瞬! おまえは俺を信じていないのか!」 『信じていないのか』と問われれば、瞬は『信じている』と答えるしかなかった。 もちろん 瞬は、心から氷河を信じていた。 「信じてるよ。氷河はどんなに つらい時にも、幸せになることを絶対に諦めず、生き抜き、戦い抜いてくれるって」 「多分、それ、氷河がおまえに期待してる信頼とは違うぜ」 星矢の鋭い指摘に、氷河が牙を剥く。 彼は、そして、彼が期待する信頼ではなく 彼自身の信念とスタンスを、仲間たちに向かって 力強く主張し始めた。 「俺は、必ず、おまえとの愛を全うする! 決して諦めない!」 氷河が そうしたいのなら、そうして ほしいと思う。 そうすることが、氷河の幸福なのだろうと思うから。 だが――。 「僕は、そんなことを言った氷河が、自分を自分の言葉に縛りつけて 不幸にならないでほしいって思うだけだよ。それが 僕には何より つらいことだから……」 「俺が縛りつけたいのは、俺自身ではなく、おまえの心だ! もし この先、俺がガキの世話をするようなことがあったとしても、せいぜい 俺が聖闘士志願の弟子をとったパターンくらいしか考えられない!」 なぜ わかってくれないのだと焦れるような氷河の咆哮。 瞬は、氷河をなだめるために、慌てて 彼に提案したのである。 「じゃあ、氷河、約束して。いつか――もし氷河が小さな子供を引き取って暮らすことになったら、その子のマーマ役は 僕に任せるって」 「なに……?」 その提案は、なかなか氷河の気に入ったらしい。 彼は 即座に吠えるのをやめ、 「それは悪くないな。俺が、その子のパパで、おまえがマーマ。うん。それは 悪くない」 と、やにさがり出した。 「氷河がパパぁーっ !? 」 「氷河、いくら何でも、それは……。おまえをパパと呼ばなければならない子供が気の毒だ」 星矢と紫龍の極めて妥当なコメントを、氷河は無視した。 その時、氷河は既に、彼の幸福な未来図を思い描き、その幸福を実現するために、どんなに つらい時にも、絶対に諦めず、生き抜き、戦い抜くことを決意していたのかもしれない。 時の流れは、時折、人を不思議な場所に導いていくものである。 Fin.
|