マーマがいるわけでもないのに、俺が その海に潜ってみようと思ったのは、島に来て1週間が過ぎた頃。
滞在予定は、もともと1週間。
何事もなければ、俺とカミュは明日の船で文明社会とやらに戻る。
せっかく南半球に来たんだし、俺が赤道を超えるのは、もしかしたら これが最初で最後ってことになるかもしれないし、1回くらいは南の海の中を見ておこうって、俺は そんな酔狂を起こしたんだ。
それと、もう一つ。
島の宿舎に泊まってる、西オーストラリア大学の民俗学の教授だっていう爺さんに、この海域に伝わるアボリジニ(って呼ぶのは差別用語らしいけど)の伝説を教えてもらったから。

アボリジナル(と呼ぶのが望ましいそうだ)の伝説――創世神話なのかな。
それは、エインガナ――“虹の蛇”とか“始祖蛇”とか呼ばれてる蛇の伝説だ。
なんでも、虹の蛇エインガナは、この世界ができた頃、すべての生命を自分の腹の中に収めて、海の底に沈んでいたらしい。
コウモリもカンガルーもエミューも、木も草も花も、もちろん人間も。
でも、なにしろ腹の中に全人類。
結局 苦しくなって陸に上がって、その命を吐き出したんだとか。
人間は、また巨大蛇の腹に飲み込まれるのを避けるため、大地母神ならぬ大洋母神を 海の底の神殿に封印した。

その神殿が この海域のどこかにある――っていう伝説。いや、やっぱり神話なのかな。
「母なる蛇は、本当は醜い魔女なのに、相手の好む姿に化けて 封印を解かせようとするんだ。だから、浜辺で遊ぶのは構わないけど、海に潜ろうなんてことは考えちゃ駄目だよ」
英語だったから、よくわからない言い回しもあったけど、だいたい そんな話。
要するに、俺は、その伝説の神殿を探してみようと思ったんだ。

南氷海――っていうより、オーストラリア南岸。
海水温は、普通の人間でも海水浴ができるくらい。
南の海の中は、北の海とは全然 様子が違ってた。
いろんな形や色の珊瑚がいっぱいあって、泳いでる魚も 気持ち悪いくらいカラフル。
おまけに海水温が高すぎて、生ぬるくて、俺には気持ち悪く感じられるくらいだった。
普通の人間が行けないくらい深いところに行くと、陽光が届かないせいで、水温も下がったし、暗くなっていったけど。
その方が 俺の気分は落ち着いた。

どの方向に どれだけ潜ったのかは憶えてない。
最初は悪酔いしそうなくらいカラフル、その次に灰色、そこまでは 俺も変だとは思わなかったんだけど、最後に、俺の周囲の海は真っ白になった。

前後左右、それから床も――周囲が真っ白になった時、俺は、自分が違う世界に迷い込んだんじゃないかと思った。
それから、俺の目か俺の頭がおかしくなったんじゃなかと疑って、でなきゃ、俺は死んだのかもしれないと考えた。
目か頭が狂って 幻覚を見てるか、死者の国が そういうものなのか。
そのどっちかだって思ったんだ。
海の底に白い大理石でできた神殿(の廃墟)を見付けただけだったら、俺は そんなこと思いもしなかったろうけど、その海の底の神殿には水がなくて、酸素があった――というか、その白い海底神殿の中で、俺は息ができたんだ。

地上世界の全生命を生んだ虹の蛇。
蛇の胎内に再び閉じ込められることを恐れて、虹の蛇の腹から飛び出た人間たちは 母なる蛇を海底の神殿に封じ込めた。
その神話(なのか伝説なのか)は本当にあったことなのかもしれない。
完全に伝説の通りじゃないにしても、その伝説に似た何かが、はるか昔に この南の海で起こったのかもしれない。
ここは、神の力か、でなかったとしても 他の何か神秘的な力が働いている空間だ。

まるで、オーストラリア版竜宮城(の遺跡)。
そう思ってから、すぐに、俺は、『そうじゃない、“逆”なんだ』って考え直した。
ここがオーストラリア版竜宮城なんじゃなくて、この南の海の伝説が日本に伝わって、竜宮城の物語になったんだ――って。
命ってのは、まず暖かい場所で生まれるもんだからな。

とにかく海の底の神殿は広かった。
海の底だから、ぼやけるとか、光(と言っていいんだろうか)の屈折率が違うとか、そんな理由で陸上とは ものの見え方が違ってるのかもしれないけど、それでも。
かろうじて立ってる柱、倒れちまった柱の合計本数は、アテネのパルテノン神殿の倍くらいはある。
壁はなくて、天上は水――海水。
その神殿の奥に向かって、俺は歩いて(“泳いで”じゃなく、歩いて)進んだんだ。

どれくらい歩いたのか、時間も距離もよくわからない。
その神殿(の廃墟)の奥で、俺が見付けたのは、石の祭壇みたいなところで眠ってる人間だった。
なんていうか、それは、北の海で――俺がまだ辿り着けない北の海の深い海底で――俺のマーマも こんなふうに眠ってるんじゃないかって想像してた姿そのもの。
だけど、もちろんマーマじゃない。
ここは南氷洋、マーマがいるはずがない。
別の人間だ。

マーマより子供で、俺よりも大人で――こういうの、美少女っていうんだろうな。
小さな女の子でも、大人の女の人でもない、綺麗な人間。
眠ってるみたいで、目をつぶってるし、表情もないから、どんな人なのか まるっきり わかんないけど、でも、顔は 滅茶苦茶 綺麗で可愛い。
歪んだところが全然なくて、でも、やわらかい印象。
肌は白くて、手足は細い。
純白の――何ていうんだっけ。アクロポリスのエレクテイオン神殿の女神像が着てるみたいな、ひらひらした布みたいな服。
あれを着てて、見るからに セイジュンムクなオトメって感じ。

最初は祭壇の上に眠ってるだけかと思って 手をのばしてみたんだけど、俺は その美少女に触れなかった。
その美少女は、水でも空気でも氷でもガラスでもダイヤでもプラスチックでもない、透き通った棺の中に横たわって、祭壇の上に置かれてた。
透き通った棺――“棺”って言葉を思い浮かべはしたけど、俺は その美少女が死んでるって思ったわけじゃない。
死んでる人間の顔色じゃなかったし、俺は『眠りの森の美女』の話も知ってたし、だいいち、死んでたら話にならない。
俺はエジプトのピラミッドでミイラを探してるわけじゃなくて、神秘の海底神殿に封じられた伝説の蛇だか醜い魔女だかを探しに来たんだから。
その美少女は、蛇にも魔女にも見えなかったけどな。

とにかく、この美少女は生きてるはずで、眠ってるだけだと、俺は思った。
起きてもらわなきゃ、俺も、自分がこれからどうすればいいのかがわからない。
直接 触れないから、身体を揺さぶって起こすこともできないし、何かいい方法はないかなって考えながら、俺は その美少女の顔を覗き込んだんだ。
そしたら、その美少女は 急に目を開けた。
俺は、ちょっと――かなり――すごく、びっくりした。
その美少女が、まるで 俺の視線が 目覚まし時計のスイッチだったみたいに、ほんとに急に目を開けたから。
その美少女と目が会ったら、俺は そんな目覚まし時計のことより、その美少女の目が すごく澄んでて綺麗なことの方に、もっと ずっと びっくりしたけど。

ほんとに綺麗だった。
きっと白雪姫よりシンデレラ姫より――正直で優しくてキヨラカって言われてる 世界中のどのお姫様より絶対に、この美少女の方が ずっと綺麗でキヨラカだ。
この美少女より綺麗な人間なんて、きっと俺のマーマくらいしかいない。
つまり、この美少女は世界一綺麗なんだ。
俺のマーマは、もう生きてないから。

俺が ぽかんとして、その美少女を見詰めてたら、生きてる人間の中では いちばん綺麗で清らかな その美少女は、透明な棺の中から俺に話しかけてきた。
『私を、ここから出して、陸に連れていって』
って。
多分、声じゃなくて、音じゃなくて、思念ってやつ。テレパシーってやつ。
俺は それを耳で聞いたわけじゃなかったから。
思念やテレパシーでないなら、この美少女は 目で ものが言えるんだって、俺は思った。
それくらい、その美少女の目は綺麗で特別だった。

『私をここから出して。傲慢な女神に、この海の底に封じられてしまったの』
美少女の目に 涙が盛り上がってくる。
俺は、すぐに美少女の願いをきいてやりたくて うずうずした。
でも、何か変だとも思ったんだ。

傲慢な女神に封じられたって、どういうことだ?
伝説と違うぞ。
伝説では、虹の蛇は、神じゃなく人間たちに封じられたことになってる。
あの民俗学の教授の爺さんは、伝説の蛇は、本当は醜い魔女なのに、相手の好む姿に化けて 封印を解かせようとする――って言ってた。
てことは、この美少女は、ほんとは醜い蛇の魔女なのか?
この美少女を解放したら、人間がまた飲み込まれるのか?
でも、世界ができたばっかりの昔ならともかく、今は人間が増えすぎてるから、世界中の人間を全部飲み込むのは、地球サイズの蛇でないと無理だぞ。
俺は、頭の中で そんなことを めまぐるしく考えてたんだけど、そのうち思い出したんだ。
美少女を解放するも何も、俺は その方法を知らないんだってことに。
美少女の正体以前の問題、世界の人口以前の問題だ。

俺は、自分が考えてる そんなふうな あれこれを言葉にはしてなかったんだけど、まるで 俺の考えが読めてるようなタイミングで、その美少女は俺に 彼女を解放する方法を教えてくれた。
もちろん、直接、俺の頭の中に。
『あなたは、私を解放したいと 心の底から強く思ってくれればいいの。私の解放を願う あなたの心が、私を自由にする。そうすれば、私は あなたのものになる。それは つまり、あなたが私を あなたの世界に連れていくということなの。私に抱きしめてもらいたくはない? この棺から解放されたら、私は いちばん最初に あなたを抱きしめてあげるわ』

解放したいと強く思えばいい?
それだけでいいのか?
『そうよ。私を解放したいと思う心を、強く大きく燃やすの。究極まで燃え上がった あなたの心が、この忌々しい棺から私を解放する。そうすれば、あなたは ずっと私と一緒にいられるの。私と一緒にいたいでしょう? 私は、あなたのためになら、何でもしてあげる。あなたを、あなたのマーマのところに連れていくことも、私には できるのよ』
「マーマのところに?」

澄んだ瞳の美少女。
彼女が 俺とずっと一緒にいてくれる。
彼女が 俺をマーマのところに連れていってくれる。
それは すごく 素敵な計画で、すごく いい話で、美少女の瞳は 本当に綺麗で……ああ、なんか、頭が くらくらする。

俺は、この美少女を解放してやってもいいんじゃないかって思った。
それで、俺は、余計なことを考えるのをやめて、美少女が教えてくれた通り、この美少女を解放したいって、心の底から強く思おうとしたんだ。
『小宇宙を燃やせ』
カミュが いつも言ってるあれって、こういうことなのかなって思いながら。
でも、その時。
美少女の声でも カミュの声でもない 別の声が、ふいに 俺の頭の中に飛び込んできた。






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