俺は、海底神殿の遺跡のことは 誰にも言わなかった。 そこで見た不思議な美少女のことも、醜い中年男のことも、それから 瞬のことも。 信じてもらえないことを危惧したからではなく、『入るな』と言われていた海に入ったことを、自分から大人たちに知らせて怒られるのは馬鹿らしいと思ったから。 我儘な理由だが、あの神殿にいた魔女は 誰にも解放されるべきではないと思うので、それでよかったんだと思う。 南の海の底の神殿での出来事を、俺は、俺と瞬だけの秘密にしておきたかった。 シベリアに帰ってからも、海の底で見た美少女のことが忘れられなくて、俺は 何度も彼女を夢に見た。 瞬が言っていた通り、あれは 邪悪な力を持つ何かが、俺の心のどこかにあった理想を探り読んで、形にしただけのものだったんだろう。 あんなに綺麗で清らかな人間は、現実世界にはいないんだろう。 そう思うたびに絶望的な気分になったが、その絶望は、聖闘士になれば また瞬に会えるんだという希望で 穴埋めした。 小宇宙の便利さを知った俺は、自分の小宇宙の力を強大なものにすべく、真面目に修行に取り組むようになった。 そうして、それから2年後。 俺は白鳥座の聖衣をまとう資格を無事に手に入れたんだ。 マーマの眠る船に行き、彼女に会うこともできた。 彼女は、生きていた時と変わらず 美しかった。 本当に美しくて、あの南氷洋で出会った美少女のように、幻なのではないかと疑うほどだった。 美しく静かに眠る このマーマも、母を求める俺の心が 俺に気持ちが見せる幻なのかもしれないと。 幻でもいいと思った。 この女性は、俺の人生の道しるべ。 このひとに会いたいという気持ちが、俺を聖闘士にした。 その思いがなければ、俺は決して聖闘士にはなれなかったろうと思う。 そんなふうに――ついに出会うことのできたマーマが幻であっても一向に構わないと、俺は思っていたんだが、マーマが美しいままで眠っていたことに科学的説明はつくらしい。 北の激しい海流が生み出すウルトラファインバブル――細菌やウイルスを殺し、腐敗を止めるナノサイズの泡――と低温の相乗効果なんだとか。 そんなことは、俺にはどうでもいいことだが。 カミュは『諦めろ』と言う。 でも、瞬は逆。 『氷河は いつか マーマに会いに行くんだね。そして、マーマに『ありがとう』って言うんだね。強い聖闘士になった氷河に会ったら、氷河のマーマも嬉しいと思う』 瞬はそう言う――そう言ってくれた。 カミュは正しかった。 そして、瞬も、結果的には正しかった。 海の底のマーマに会った時、俺には それがわかった。 カミュは最悪の場合を危惧していた。 俺が俺の望みを叶えられず 人生の敗者にならないように、夢を叶えられず 絶望しないように、カミュは俺に危険な夢を抱かせまいとしてくれていたんだ。 そういった意味では、カミュは正しく、瞬は甘かった。 たまたま俺が聖闘士になれたから、瞬の言葉は 結果的に誤りにならなかっただけ。 甘くて――甘くて優しい瞬は、俺の可能性を信じてくれていたから、あんな甘いことが言えたんだ。 瞬は、俺が聖闘士になることを信じていた。 俺が聖闘士になれると信じてくれていた。 カミュだって、俺の力に確信を持てていたら、マーマに会う夢を諦めろなんて言わず、その夢を 修行の動機づけに利用していたかもしれない。 すべては結果論だ。 それは、結果が出た今となっては どうでもいいこと。 今になって あれこれ言ったって 何の益もないことだ。 そんなことより。 聖闘士になって帰った日本。 つらい思い出も多いが、たくさんの出会いがあった懐かしい城戸邸で、俺は、南の海の海底神殿で見た あの清らかな美少女に再会した。 小さな女の子でも、大人の女の人でもない、綺麗な人間。 綺麗で可愛くて、清らか。歪んだところが全くなく、やわらかい印象。 肌は白くて、手足は細くて、悪いことや 意地悪なことを 絶対に考えなさそうな澄んだ瞳の持ち主。 マーマを除けば、世界一美しい人。 その美少女は、俺の姿を認めると、瞳を輝かせて、俺の側に駆けてきた。 「氷河!」 澄んだ瞳。 綺麗で可愛くて、6年前に別れた時のまま――いや、もっと綺麗になって。 不思議だ。 その瞳は、幼い子供だった時より 一層 澄んで美しくなっている。 「氷河、聖闘士になったんだね! 会いたい人には会えた?」 瞬は、マーマのことを訊いているんだ。 俺は、それはもちろん わかっていたんだが。 俺は、そのために聖闘士になった。 会いたい人に会うため。 そして、その人を愛し 幸福にすることで、俺自身が幸福になるため。 「ああ。会えた」 瞬の澄んで綺麗な瞳を見詰めながら、俺は頷いた。 Fin.
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