双魚宮の薔薇園では、アフロディーテが 瞬に“蔑みの表情を浮かべて、フッと鼻で笑う”特訓をしているところだった。
それは、約97パーセントの聖闘士が 息をするように自然にできる行為だったのだが、瞬は もちろん 残りの3パーセントに属する聖闘士である。
残りの3パーセントの聖闘士である瞬には、それは至難の業。
“ペガサス幻想”を2番まで5秒で歌い終えることの方が、よほど たやすい仕事なのだ。
頑張っても頑張っても、アフロディーテが満足する“蔑みの表情”を作ることができず、既に100回以上の駄目出しを食らっていた瞬は、まさに爆発寸前だった。

「アフロディーテ、何をしている」
双魚宮に乗り込んできたサガとシャカの後ろに、竹ボウキを持った星矢たちの姿を認めると、それで緊張の糸が切れてしまったのか、瞬は、泣いているのか笑っているのかわからない表情になり、その場に へなへなと へたり込んでしまった。
「星矢……僕、もう、鼻で笑うの、やだ……」
瞬は、本当は泣きたいらしい。
にもかかわらず、そうすることができないのは、“蔑みの表情を浮かべて、フッと鼻で笑う”特訓で、口輪筋 及び 頬骨筋――いわゆる顔の表情筋――が引きつってしまっているからのようだった。

「瞬、大丈夫かっ !? 」
手にしていた竹ボウキを放り投げて、瞬の側に駆け寄った星矢が、瞬を助け起こす。
「瞬。そこまで無理して アフロディーテに付き合うことはないんだぞ」
星矢が放り投げた竹ボウキを拾い上げた紫龍が、瞬に いたわりの言葉を投げかけ、
「あの大馬鹿野郎、ブッ殺してやる!」
氷河は、アフロディーテに ぶつけるための小宇宙を燃やし始めた。

「キグナス。やめたまえ」
シャカが氷河を止めたのは、氷河ではアフロディーテに敵わないと思ったからなのか、それとも、『ブッ殺す』も何も、既にアフロディーテが死んでいるからなのか。
無論 氷河は それで大人しく引き下がるつもりはなかったのだが、彼が攻撃に移る前に、彼とアフロディーテの間に サガが ずいっと割り込んできたため、氷河は瞬の敵討ちをすることができなかったのである。
氷河のアフロディーテへの怒りの小宇宙を背中で遮り、サガは 重々しい口調でアフロディーテに語りかけた。

「アフロディーテ。おまえは、あのアンドロメダを本気にさせるという偉業を成し遂げた恐るべき男だ。しかも、自らの信念を貫くために、負けるとわかっている勝負に あえて挑んだ、高潔な魂の持ち主」
「なに?」
「おまえは、私にもシャカにも――いや、白羊宮から宝瓶宮までの黄金聖闘士の誰にも成し遂げられなかったことを成し遂げた。尊敬に値する。おまえは全聖闘士の中で最も豪胆かつ果敢な聖闘士だ」

サガが、いったい なぜ、何のために、そんなことを言い出したのかを、アフロディーテは わかっていなかっただろう。
自分は褒められているのか、それとも馬鹿にされているのかすら、おそらくアフロディーテは判断できていなかった。
瞬を最強の聖闘士にすることで 自分の名誉を回復することしか考えていなかったアフロディーテには――ごく狭い、自分の周囲のことしか考えていなかったアフロディーテには――サガが 地上の平和を守るために そんなことを言っているのだと思い至ることができなかったのだ。

それは瞬も同様である。
アンドロメダ座の聖闘士を本気にさせないことが 地上の平和を守ることにつながると考えたサガが、地上の平和を守るために アフロディーテを持ち上げようとしていることなど、瞬に わかるはずもない。
瞬は 自分の“本気”を そこまで 重大なものだとは思ってもいないのだ。
しかし 瞬は、サガの その言葉をアフロディーテの特訓から自分を解放する口実にできるということには、すぐに気付いたのである。

アフロディーテはアンドロメダ座の聖闘士に敗北したことで地に落ちた自らの評価を 旧に復することを望んでいる。
そのために、アンドロメダ座の聖闘士を最強の聖闘士にしなければならないと思っている。
しかし、それは間違った対応なのだ。
正しい対応は、アフロディーテ自身が最強の聖闘士になること――黒を白と言いくるめても、鷺を烏と言いくるめても、アフロディーテ自身を最強の聖闘士にすること――なのである。
サガのアフロディーテ礼賛は、アンドロメダ座の聖闘士を媒体とすることなく アフロディーテを最強の聖闘士にするための言葉だった――瞬には そう聞こえた。

これでアフロディーテの過酷な特訓を受けなくてよくなる――つらい試練の終わる時が、すぐ そこに見えている。
その予感が、瞬を希望の光でいっぱいの笑顔にした。
「よかったですね! サガもシャカも、あなたが 黄金聖闘士たちの中で最も優れて素晴らしい聖闘士だと認めてくれているんです」
横で氷河が何か言いたそうに口をもごもごさせたが、瞬が嬉しそうに にこにこしているので、結局 氷河は口出しをしなかった。
瞬を いじめた悪党をブッ殺したいのは山々なのだが、そんなことをしても瞬は喜ばない。
氷河は、その事実を知っていた。

「私が、黄金聖闘士たちの中で最も優れて素晴らしい聖闘士……? そんなことはないと言うつもりはないが、しかし、なぜ そういうことになるのだ」
「それは 当然、あなたが黄金聖闘士たちの中で最も優れて素晴らしい聖闘士だからでしょう。最強のイメージ戦略に最も成功している二人が、あなたこそがと黄金聖闘士たちの中で最も優れて素晴らしい聖闘士だと認めてくださっているんです。僕が“蔑みの表情を浮かべて、フッと鼻で笑う”をマスターしなくても、あなたは素晴らしい最強の聖闘士なんですよ!」

瞬はアフロディーテの質問に 全く何も答えていなかった。
アフロディーテが そのことに気付いていたかどうかは怪しいところであるが、アフロディーテの そもそもの目的は、自分が弱い(= 醜い)聖闘士でなくなることであり、その目的は、サガとシャカという最強のイメージ戦略に最も成功している二人から称賛を受けることで叶うものだったのである。
「うむ。瞬を本気にさせることなど、私には到底 できることではない」
「それは、真の強者にのみできること。黄金聖闘士たちは――いや、聖闘士の誰もが 魚座の黄金聖闘士の前人未到の果敢に一目置くことだろう」

黄金聖闘士が 自分以外の黄金聖闘士当人を、ここまで おだて持ち上げることは滅多にない。
しかも持ち上げているのが、最強のイメージ戦略に最も成功している双子座の黄金聖闘士と乙女座の黄金聖闘士なのである。
なぜ そういうことになるのかは わからなくても、アフロディーテは すっかり いい気分になっていた。
彼は、アンドロメダ座の聖闘士を最強の聖闘士にする計画も忘れてしまっているようだった。
当然だろう。
アフロディーテが欲しているのは、自分が みじめで醜い敗者でなくなることであり、彼は今 確かに それを手に入れた(つもりになっている)のだから。


つらい特訓から解放された喜びに にこにこしている瞬を見やりながら、星矢と紫龍は ほっと安堵の胸を撫で下ろしたのである。
何はともあれ、これで 瞬が本気になる事態は回避され、地上の平和は今日も無事に守られたのだ。

「アフロディーテが乗せやすい奴でよかったな」
「そもそも 『力こそ正義』『強い者が正義』という考え方が間違っているんだ。強さほど あやふやなものはない。太陽の光を遮ることのできる雲は 風に吹き飛ばされ、風が吹き倒すことのできない壁はネズミに齧られる」
「本気になれば黄金聖闘士も倒せる瞬が、氷河と戦えば十中八九 負けるだろうしな。『力こそ正義』なんて、馬鹿の理屈だよ」

では、正義とは何なのか。
その答えは、星矢も知らなかった。
しかし 星矢は、『力が正義』でないことだけは知っていたのである。
こうして地上の平和が守られることが正義であるなら、正義とは 騙し合いなのかもしれない。

「あんなアブラムシの我儘に付き合わされて、つらかったろう。今夜、俺が 全力で慰めてやるからな」
「うん……氷河、ありがとう。氷河は、いつも優しい……」
氷河の助平心を優しさと解した瞬が、氷河の胸の中で、嬉しそうに大人しくしている。
あるいは、正義とは、誤解の産物なのかもしれない。

正義が 騙し合いでも、誤解の産物であっても、それは 世界と人への愛から生まれ出るものなのだ。






Fin.






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