帰宅した氷河の様子が尋常でなかったにもかかわらず、星矢たちが氷河に何も尋ねてこなかったのは、氷河の尋常でなさが 尋常でなさすぎたからだったろう。 機嫌が悪い時には 周囲の気温を下げまくるのが常の氷河が、見るからに機嫌が悪そうなのに、全く気温を下げない。 というより、むしろ 温度がない。 それは滅多にない異常事態。 否、氷河史上 空前の、そして もしかしたら絶後の異常事態だったのだ。 異常事態の原因は瞬にある――と察した星矢と紫龍が、瞬の帰宅を待つこととにしたのは、彼等の危機回避能力が働いたからであり、おそらく彼等の その判断は正しかった。 とはいえ、氷河の尋常ならざる不機嫌は、瞬の力をもってしても消除できるものではなかったのだが。 「氷河、あの……ごめんなさい……」 瞬(おそらく 氷河の不機嫌の原因)は、氷河に1時間ほど遅れて城戸邸に帰ってきた。 そして、おそらく 瞬自身には責任のないことで、氷河に謝罪した。 しかし、氷河は、瞬の謝罪を、 「おまえは、俺に謝らなければならないようなことをしたのか」 「……」 「なら、謝るな」 という、正論としか言いようのない理屈で受け入れなかったのだ。 その冷たい(温度のない)反応に、瞬が しょんぼりと肩を落とす。 瞬の左右の肩には、これ以上ないほど重そうな罪悪感が乗っていた。 そんな瞬の様子を見ても、星矢には やはり、瞬に非があるのだとは思えなかったのである。 そして、何はともあれ 瞬が帰ってきたのだから――氷河に関して最大最強の防御壁がいるのだから、我が身の安全は図られると踏んで、星矢は氷河に事情を尋ねてみたのだった。 「何があったんだよ。おまえ、なに怒ってんだ?」 「――」 星矢に問われたことに、氷河は答えなかった。 というより、氷河は、答えることができなかったのである。 『何があったのか』という質問に答えられなかったのは、何があったのかを、氷河自身が知らなかったから。 そして、『何を怒っているのか』という質問に答えられなかったのは、瞬を怒る権利を有していない自分を、氷河が知っていたから。 白鳥座の聖闘士と アンドロメダ座の聖闘士は、同じ目的のために共に戦う仲間。 強く深い絆で結ばれ、一瞬の ためらいもなく 命をかけることのできる友。 そして、幼い頃に同じ場所で同じ時間を過ごした幼馴染み。 ただ それだけなのだ。 だから、氷河は無言でいた。 瞬が、そんな氷河の代わりに、氷河の表情を窺いながら、少し おどおどした様子で、自分の非を 星矢たちに告白してきた。 「あの……僕がいけないの。僕が、氷河に知らせずに、氷河の知らない人と会ってたから」 「氷河の知らない人と会ってたから――って、それのどこが いけないんだ?」 「え……?」 星矢に問い返された瞬が、一瞬、きょとんとした顔になる。 どこが“いけない”のかと問われても、瞬には 答えが思いつかなかったのだろう。 瞬は、自分がどんな“いけない”ことをしたのかが わかっていないのだ。 おそらく、それが“いけない”ことなのかどうかということも、わかっていない。 それでも、瞬は、氷河に対して罪悪感を覚えているらしい。 ちらちらと 氷河の顔を窺い見ながら、瞬が 自信なさそうに告げる。 「僕が、その人に しがみついて 泣いたりしたから――」 その答えを聞いて、星矢と紫龍は、氷河の不機嫌の訳を察した――ほぼ正確に把握した。 『おそらく 瞬に非はないだろう』という推察を『瞬には全く非がない』という確信に変えた星矢が、氷河と瞬に――主に氷河に――第三者による客観的な判断を通告する。 「瞬が、おまえに断りなく 誰かと一緒にいたって、おまえには それを怒る権利はないし、瞬は氷河に謝る必要ないだろ。別に、おまえら二人は、恋人同士でも何でもないんだから」 その通りである。 星矢の言うことは完全に正しい。 改めて言葉にされるまでもなく、氷河は その事実を承知していた。 だから、どんな反駁もせず、沈黙を守った。 沈黙して、氷河は待っていたのである。 アルベルトサンが、瞬にとって どういう存在なのか。 瞬が アルベルトサンの正体を仲間に打ち明けてくれるのを。 瞬が『ただの知り合いだよ』と言ってくれれば、氷河はそれを信じた。 信じられなくても、信じたいから、氷河は信じた。 瞬が そう言ってくれさえすれば。 氷河には、自分の目で見たものより、自分の耳で聞いたことより、瞬の言葉の方がずっと信じる価値のあるものだったから。 だが、氷河が待てど暮らせど、瞬は 氷河の望む言葉を言ってくれなかった――何も言ってくれなかった。 だから 氷河は、瞬を信じることも、機嫌を直すこともできなかったのである。 |