愛の聖闘士

- LOVE FIGHTER -







アンドロメダ座の青銅聖闘士・瞬を抹殺せよ。
これまで地上の平和を守るために共に戦ってきた仲間の抹殺命令に、瞬の仲間である天馬座の青銅聖闘士・星矢、龍座の青銅聖闘士・紫龍、白鳥座の青銅聖闘士・氷河は 呆然とした。
もし この場に瞬の兄である鳳凰座の青銅聖闘士・一輝がいたなら、彼は呆然としている時間も惜しいとばかりに、即座に聖域に見切りをつけていたかもしれない。
あるいは、問答無用で教皇に向かって渾身の拳を放っていたかもしれない。
そして、星矢たちは、教皇の命を守るために、瞬の兄の暴挙を止めることになっていたかもしれない。
幸か不幸か 一輝が ここにいなかったので、星矢たちは、瞬の抹殺命令を出した教皇を庇うなどという不本意なことをせずに済んだのである。
だからといって、その事態を喜ぶことも 彼等にはできなかったが。

聖域の聖闘士たちに 進むべき道を示し、聖闘士たちを導く立場にある教皇が、聖闘士に聖闘士の抹殺命令を下す。
そんなことがあっていいのだろうか。
無論、アテナの聖闘士とて不完全な人間の一人、道を誤ることはあるだろう。その胸に、よくない考えを抱くこともあるだろう。
そういう時、その聖闘士の排除を行なうのは、聖域を統治する教皇の務め。
彼が その務めを遂行することは、間違ったことではない。
長い聖域の歴史の中では、そういったことも幾度かあったに違いない。
しかし、よりにもよって彼が――現教皇が――瞬の抹殺を命じるとは。
それが女神アテナによって下された命令だったなら、星矢たちは これほど驚くことはなかった――かもしれなかった。

現在 聖域に――人間界に――女神アテナは降臨していない。
当然、聖域の統治権は 教皇が一人で すべてを掌握している。
アテナが人間界に降臨していないのは、“今”が――ローマ建国紀元950年になる――アテナと聖域の最大の敵であるハーデスとの間に聖戦が起きないと予測される時代だからだろう。
他の神が地上世界に食指を動かすことはあるかもしれないが、当代の聖闘士たちは 冥界――すなわち“死”――との戦いはせずに済むだろうというのが、当代の聖域の一般的な見方だった。
そのせいもあるのか、現在 聖域を統治している教皇は、歴代教皇の中で最も平和主義で穏健派の教皇と言われている。

同じ戦いの神でありながら、戦いにおける狂乱や破壊を司るアレスとは異なり、戦いにおける知略や名誉を司る女神アテナ。
そのアテナを奉じる聖域の教皇にふさわしく、現教皇は、争いの兆しが見えた時には、それが兆しであるうちに消し去ろうとする。
力及ばず戦いが始まってしまった場合は、知略を用いて なるべく双方の犠牲を少なくするために努める。
現教皇は、戦闘行為に 極めて消極的な平和主義者。
アテナの聖闘士の務めは地上の平和を守ることであって、そのために戦うことではない――というのが、現教皇の聖域統治の指針だった。

そういう考えの持ち主なので、彼は、争い事の嫌いな瞬を 特に可愛がっていたのである。
『聖闘士の力を、敵を倒すためにではなく 命と平和を守るために用いる瞬の姿は、私の理想の聖域の姿を そのまま人間に映したようなものだ』と、彼は常々 公言していた。
その教皇が、瞬を抹殺しろと、瞬の仲間たちに命じてきたのだ。
教皇の間に呼び出された瞬の仲間たちは、あまりといえば あまりな命令に、分を わきまえず――むしろ忘れて――教皇に食ってかかることになってしまったのである。

「言うに事欠いて、瞬を抹殺しろだと !? それは いったいどういう料簡だ! そんなことを命じるために、こんな朝早くに 俺たちを呼び出したのか !? 聖域の教皇は気でも狂ったか! 瞬は、あなたに従う聖闘士の中では、いちばんの あなたの信奉者、あなたの理想に最も深く共鳴していた聖闘士だぞ。聖域を統べる教皇として、あなたほど優れて素晴らしい人はいないと、瞬は いつも言っていた。そうして血の気の多い聖闘士たちを、いつも なだめていたんだ。あなたも、争い事が嫌いで 心根の優しい瞬を ことのほか 可愛がっていた! その瞬を抹殺しろだと !? 聖域の教皇は、何か悪いものにでも取り憑かれたか!」

教皇弾劾の口火を切ったのは、教皇が瞬を特に寵遇することに批判的で、事あるごとに不平不満ばかり洩らしていた氷河だった。
もっとも、彼の教皇批判の主たる理由は、教皇が 特定の聖闘士に特別の厚意を示すことではなく、その対象が瞬であることだったので、氷河の教皇批判は いつも――これまでは、『はいはい、焼きもち、焼きもち』で片付けられていたのだが。
多分、氷河は、教皇の寵遇相手が瞬以外の誰かだったなら、不平や不満を口にすることはなかった――その事実に感情を動かされることすらなかった――だろう。
可愛がるにしても 抹殺命令を出すにしても、その対象が瞬であることが、氷河にとっては 大きな――そして、唯一の――問題なのだ。

尤もらしい理屈で教皇を責めたてる氷河の根底にあるものを知っている星矢が、男の見苦しい嫉妬に肩をすくめる。
「教皇が悪いものに取り憑かれるって、さすがに それはないんじゃないか。何か悪いもんでも拾って食ったんだろ」
星矢の推察は、氷河の糾弾ほど激しくはないが、失礼である。
「星矢、自分を基準に考えるのは失礼だ」
紫龍が たしなめると、
「俺、さすがに拾い食いはしねーぜ」
星矢は、もっと失礼なことを言った。

礼を失した星矢の この言動に立腹するどころか、機嫌を損ねた様子すら見せないのだから、現教皇は度量の広い大人物である。
紫龍は、常々 そう思っていた。
とはいえ、教皇が氷河の一方的非難にも、星矢の礼を欠いた物言いにも、不快の念を示さずにいるのは、今に限って言うなら、そんなことより はるかに重大な問題で 彼の頭がいっぱいだったから――のようだった。
教皇が、彼を苦しめている事柄を 苦しそうに口の端にのぼらせる。
それは、あろうことか、
「悪いものに取り憑かれたのは私ではない。瞬の方なのだ」
というものだった。

「は?」
「ここのところ 星に妙な動きがあって、よくない兆しなのではないかと、聖域の天文府の者たちに調べさせていたのだ。そんなところに、昨夜 デルポイの神託所から連絡に報告があった。地上で最も清らかな魂が 邪悪に侵されようとしている――と」
「デルポイの神託所から連絡? デルポイって、アテナとは何の関係もない神託所だろ。なんで、そんなところから 聖域に連絡が来るんだよ。それって、信じていいことなのか?」

デルポイは、予言の神アポロンが守護する予言所にして神託所である。
オリュンポスでは どうなのか知らないが、地上世界では、神は他の神のテリトリーを侵さず、関わらないのが不文律となっている。
そんなことをすれば、必ず どちらかの神の権威が損なわれることになるからで、聖域とデルポイも、神話の時代はいざ知らず、ここ数百年ほどは、完全に没交渉だった。
そう、星矢は聞いていた。
星矢の疑念に、教皇は、
「デルポイの神官が聖域に その情報を運んできたのは、地上で最も清らかな魂が 聖域にあるからだろう」
と応じてきた。
苦い口調で、言葉を続ける。

「私も、瞬に邪神が宿ったと――私も、確かに、瞬の中に不吉な暗いものを感じるのだ。それは まだ瞬の意思や感情を支配してはおらず、瞬の中に 静かに潜んでいるだけのようだが、いずれ それは己れの正体を現わすことになるだろう。地上の平和を守る聖域の教皇として、私は瞬を放置できない。そなたたちが瞬を倒さなければ、私が瞬の命を絶たなければならなくなる。私に そんなことをさせないでくれ」
だからといって、瞬の仲間たちに“そんなこと”をしろと命じるのは、人の上に立つ者として どうなのだと、星矢は言い返そうとした。
紫龍が、さりげなく右の手を伸ばして、そんな星矢を押しとどめる。

「このような時に、アテナは地上世界に降臨していない。人間には、瞬の命を絶つこと以外に できることがないのだ。アテナなら――何らかの対処方法を ご存じかもしれないが、アテナは今は 人間界には おられぬ……」
仮面の下の教皇の表情を窺い知ることはできないが、その声音には苦渋の響きが滲んでいる。
自らの理想の賛同者を失うこと以上に、聖闘士を一人 失うこと以上に、瞬を失うことを、彼は嘆いているだろう。
平和主義者の教皇にとって、瞬は、理想の聖闘士である以上に、理想の人間だったのだ。

教皇の悲嘆は、星矢にも わかった。
彼の命令に従う気にはなれないが、その気持ちは わかった。
さすがに 紫龍が、
「承りました。我々が、責任をもって――この命にかけて、この地上から争いの芽を排除します」
と、教皇の命令を受け入れるのを 黙って聞いていることはできなかったが。
「紫龍!」
星矢が上げた非難の声を、教皇が、日頃 穏やかな彼にしては強く厳しい響きの声で遮る。
「頼んだぞ! 私は、これから追討軍の手はずを整えなければならない」
「はい」
紫龍の首肯を確かめて、教皇は その心を少しだけ安んじたようだった。






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