瞬の手に しがみついていたナターシャの小さな手は、今は瞬に触れていない。
ナターシャはいつのまにか、再び海に視線を投じ、その姿に見入っていた。
「ナターシャちゃん、海を見るのをやめて」
「ウミを見るのをヤメロだと?」
「……!」
ナターシャを抱き上げようとしていた瞬の手が凍りつく。
ワダツミは、既に そこに来てしまっていたらしかった。
ナターシャの身体が奇妙に揺れ、それは少しずつ歪み始めていた。

「アタシに命令するんじゃねぇ! アタシには もうこの目しかない。てぇめぇらぁがぁ、アタシを あんなちっぽけな氷球に封じて、アタシを動けなくしてくれやがったんだろうがぁ!」
「ナターシャちゃんっ」
「フザケんじゃねぇ。ナニが なたーしゃチャンだ。勝手に 訳のわかんねぇ名前をつけやがって!」
「あ……」

氷河にナターシャという名を与えられた時、どんな抵抗もなく、嬉しそうに、その名を自身のものとして受け入れたナターシャ。
その時の様子を、ナターシャより嬉しそうに語った時の氷河を、瞬は鮮明に記憶していた。
見た目は いつもと同じように無表情だったのだが、氷河の瞳の奥の深い喜びが、瞬には わかった。
こんなにも氷河は“ナターシャ”を欲していたのだと、あの時 瞬は、ほとんど泣きそうな思いで思ったのである。
そして、あの時、瞬は、何としても 氷河のナターシャを守り抜くのだと――ナターシャを守り、氷河の幸福を守り抜くのだと決意したのだ。

その名をナターシャに拒まれたら、それだけで、氷河は どれほど傷付くことか。
瞬は、ナターシャの口を――ナターシャの身体を使って 氷河を傷付けようとしているワダツミの口を――ほとんど反射的に封じようとしたのである。
だが、その時にはもう、ナターシャはナターシャではなくなっていた――瞳を輝かせて“マーマ”の胸に飛び込んでくるナターシャではなくなってしまっていた。

「どれだけ力が残ってるんだ、アタシには」
ナターシャの身体が宙に浮く。
水色のサンダルが脱げて、それは海に落ち、波に弄ばれ始めた。
「試させてもらうぜぇ。この海を使って」
そう言って、ナターシャは 海を持ち上げた――ように見えた。
海神乃暴怒。

少ないとはいえ、この浜には人がいる。
彼等を巻き込むわけにはいかない。
瞬は結界を作り、氷河とナターシャとワダツミと、そして海を、その結界の内に閉じ込めた。
閉じ込められたことが わからなかったわけではないだろうに、ナターシャの姿をしたワダツミは怯む様子もなく勝ち誇っている。
「まだ 力はある。海を作ることはできなくても、そこにある海を自在に操れる程度には」
海神乃荒魂。
「アクエリアスの氷河! よくも アタシを 散々コケにしてくれたねぇぇぇ。あの時の恨みを晴らしてやるぜぇぇ!」

確かに、力はある。
だが、それは バルゴの瞬が作った檻の中での力にすぎない――と、瞬はワダツミに告げようとした。
瞬が告げようとした言葉が、ナターシャの口から出てはいけない言葉で遮られる。
「アクエリアスの氷河! 死ねえぇぇ!」
氷河のナターシャが言ってはならない言葉。
それは、ワダツミが起こそうとしている水蒸気爆発より強い力で、氷河の胸を傷付けただろう。

途轍もない熱量を持った水蒸気が、瞬の結界の中の浜辺全体を覆う。
ナターシャの姿をしたワダツミは、その強大な力を 己れの小さな手の内に集め、氷河に向けて ぶつけようとしていた。
そんなことをしても無駄なのに。
ここは、バルゴの瞬が作った庭の中なのに。
無駄だということが、復讐心に狂ったワダツミには わからないのだろうか。

ワダツミに それをさせないために、瞬は小宇宙を燃やした。
その小宇宙は、もちろん ワダツミの手の中にある力より大きい。
瞬は、ワダツミの力を消すしかなかった。
「ナターシャちゃんっ、やめてっ!」
「瞬、やめろっ。ナターシャは俺が――」
「駄目っ」
氷河に『倒す』と言わせるわけにはいかない。
氷河に、その言葉を言わせるわけにはいかない。
瞬は、氷河の言葉を自身の叫びで遮った。

氷河にナターシャを倒させるわけにはいかないのだ。
もう二度と、氷河に、彼の愛する人の命を奪うようなことはさせられない。
これ以上、氷河の瞳の悲しい色を濃くしてはならない。
暗殺者のギルド“顔の無い者”の殺戮者ワダツミ。
邪悪な意思の塊り。
どうせ調べることはできない。
その存在を消さずにおいたところで、どんな情報も得られない。
消滅させるしかないのだ。
氷河の命を守るために。
氷河の命を守るために、瞬は氷河の幸福を壊すしかなかった。
悲しいことに、瞬には その力があった。

「氷河、ごめんなさい!」
「瞬、駄目だ。ナターシャは、俺が――」
どうして氷河は、その言葉を口にしようとするのか。
その言葉を行動にしようとするのか。
氷河に その言葉を言わせないために、瞬には躊躇する時間も与えられなかった。
瞬は、その小宇宙でワダツミを消去するしかなかったのである。
だから――瞬は消去したのだ。
それが氷河の幸福を消し去ることだと わかっていたのに。






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