「アテネの街に行くと、おまえ、必ずミトロポレオス通りにある店でジェラートを買ってたろ。その店で待ち伏せして、あとをつけてたらしい。写真も、その時に隠し撮りしてたんだろうな。おまえが可愛すぎて、どうしても声を掛けられなかったとか、ギリシャ男にしちゃ暗いこと言ってたけど、ありゃ、尾行や隠し撮りがばれて、おまえに変質者と思われるのが恐かったんだと思う。で、着々と おまえの写真を撮りためてたんだけど、ある日、金髪の男と親しげに連れ立ってるのを見て、大ショック。しかも、おまえは その日を境に、ぷつりとアテネの街に姿を現わさなくなった」 「で、おまえと顔馴染みらしいジェラート屋の店主に探りを入れたら、店主は おまえが日本に帰るようなことを言っていたと、教えてくれたらしい。それで、いても立ってもいられなくなって、おまえの写真を抱えて、おまえを探しに はるばる日本にやってきた。旅費は、友だちに借金して作ったらしいぞ」 「な……何が『変質者と思われるのが恐かった』だ! 正真正銘の変質者、奴がストーカーでなかったら誰がストーカーなんだっていうくらい立派なストーカーじゃないか! 邪神の手先より質が悪い!」 アテナが同席していたから、そして、何より 馬鹿息子のために日本までやってきた馬鹿息子のママのために、懸命に怒りを抑えていた氷河が、ついに我慢ができなくなったらしい。 彼は、サントリーニ島の火山とエトナ火山が同時に噴火したような勢いで、派手に爆発することになった。 「あ……でも、お母さんと一緒に すんなりギリシャに帰ってくれたということは、ストーカーみたいなことはやめてくれたってことだよね?」 怒髪天を衝いている氷河を落ち着かせ なだめるために、瞬は そう言ったのだが、馬鹿息子がストーカー行為をやめたことさえ、氷河は怒りの種にした。 「おまえよりママの方が大事だったんだ! ストーカーとしても根性なしの薄っぺら野郎! 見下げ果てた男だ!」 ディミトリオス青年のストーカー根性が強靭なものだったなら、氷河は 彼を見下げることなく、尊敬していたのだろうか。 どちらであっても 腹を立てるに決まっている氷河の怒りを、沙織は グラード財団総帥の貫禄で きっぱり無視した。 そして、知恵の女神アテナの知恵で、瞬時に 氷河の爆発を鎮静化させた。 「彼のしたことには確かに問題があるけれど、最愛のお母様に叱られて しょんぼりしている彼に、『あなたが恋い焦がれている瞬は 男の子です』と本当のことを言って 追い打ちをかけるのも気の毒だったので、瞬は、子供の頃から愛を育み合っていた婚約者の許に嫁いで シベリアに渡ったと、言っておいたわ」 「なに?」 『それは立派な追い打ちなのではないか』とは、氷河は思わなかったようだった。 嘘も方便。 しかも 実に優れて粋な方便――と、氷河は かなり気を良くしたらしい。 彼は、沙織の言を聞いて、それ以上 怒声を発するのをすぐに やめた。 が、瞬の方は そうはいかなかったのである。 言うに事欠いて『嫁いだ』とは。 瞬が男子だということをディミトリオス青年に知らせないためだったとしても、瞬はまだ十代半ば。 ギリシャの法律でも 日本の法律でも、まだ婚姻可能年齢に達していないというのに、ディミトリオス青年は それを信じたというのだろうか。 瞬は ぽかんとした。 何に ぽかんとしているのか、瞬自身にも よくわからなかったのだが、それでも 瞬はぽかんとした。 「シベリアと聞いて、さすがに絶句していたわ」 「場所が シベリアでは、どれだけ気合い入ったストーカーでも、追いかけていくのは無理だもんなあ」 「いや、彼は追いかけていたかもしれないぞ。『嫁いだ』と言われたのでなかったら」 紫龍は 氷河とは異なり、ディミトリオス青年のストーカー根性を かなり強固なものと評価しているらしい。 そして、どうやら、沙織の評価も、星矢や瞬のそれよりは 紫龍のそれの方に近いようだった。 「彼は、あなたが幸せなのかどうかを、とても気にしていたわ。『大好きな人と一緒なのだから、とても幸せそうでした』と言ったら、気の毒になるくらい肩を落として――」 「あ……気落ちされていたんでしょうか……?」 「あなたが幸せなら、それでいいそうよ。死ぬ思いで諦めると言っていたわ」 沙織が笑顔なので、瞬も ほっと安堵した。 「悪い人ではないんですね。聖域のしか――いえ、邪神の手先なのかもしれないなんて疑って、悪いことをしてしまいました……」 自分以外の人間の幸福を願い 受け入れることのできる人は、瞬の価値観では“いい人”だった。 が、氷河の“いい人”の判定基準値は、瞬のそれほど低くはない。 「悪い人じゃない !? おまえは 何を言っているんだ! 普通、追いかけてくるか? 名前も住所も知らず、手掛かりは写真だけなのに、こんな東の果ての国まで! あの男は、十分に凶悪な犯罪者だ! まともな判断力を欠いていて、何をしでかすか わからない、危険この上ない男だ!」 瞬にとって ディミトリオス青年は、“ただのストーカーなのに、聖域からの刺客と誤解された気の毒な人”だったのが、氷河にとって 彼は“聖域の刺客より不届きな凶悪国際ストーカー”であるらしい。 とはいえ、ディミトリオス青年が実際に行なった行為は、瞬の肖像権を侵害したことだけ。 現在の日本国の法律では、それは犯罪ですらなく、せいぜい 民事で賠償請求を行なえるくらい。 ディミトリオス青年の場合は、無断で撮った瞬の写真を個人で所有していただけなので、賠償請求どころか差し止め請求すらできないだろう。 それを、国際的な凶悪犯にまで持ち上げる(?)氷河の主張に、星矢は呆れた顔になった。 もし彼が本当に凶悪な犯罪者だったとしても、ほぼ一般人にすぎない彼が アテナの聖闘士である瞬に対して、いったい何ができるというのだ。 「日本人ってことを知ってたんだから、名前くらいは知ってたんだろ。沙織さんと一緒の写真も撮ってたから、二人の会話を盗み聞きすれば、名前くらい すぐにわかる」 「ギリシャの10倍の人口の中から どうやって瞬を見付け出すつもりだったんだ。雲を掴むような話じゃないか!」 「沙織さんの顔を ニュースか何かで見たのではないか? 全く当てがなかったわけではないだろう。だから、ここの最寄り駅で記憶を失う羽目になったのだろうし」 「紹介状もなく、グラード財団総帥に会えると思ったのか! 無謀もいいところだ。どう考えても、まともな判断力を欠いている!」 ディミトリオス青年のママの料理が よほど美味だったのか、星矢と紫龍は 妙にディミトリオス青年(の判断力)の肩を持つ。 それが気に入らなくて、氷河は ますます いきり立ってディミトリオス青年を ののしることになっているようだった。 「雲を掴むような話でも、好きなら、追いかけてくるだろう」 紫龍が、そんな氷河の怒りを静めるどころか、更に煽るようなことを言う。 実際、氷河は眉を吊り上げたのだが、その意見に対しては、彼は反駁に及ばなかった。 自分自身に照らし合わせて――氷河は、反論できなかったのかもしれない。 代わりに、口を開いたのは瞬だった。 「紫龍が そんなことを言うなんて、ちょっと意外。そんな無茶、紫龍なら……」 が、瞬は、そこで言葉を途切らせた。 普段は 常識人の振りをしているが、切れると星矢より無茶をする。 それが紫龍という男。 仲間の本性を知るがゆえに、『紫龍なら そんな無茶はしない』と言い切ることが、瞬にはできなかったのだ。 瞬が言葉を途切らせた理由を察したらしい紫龍も、自分の墓穴を掘る事態を回避すべく沈黙する。 ここで言葉を重ねないから、瞬と紫龍は、(アテナの聖闘士たちの中では比較的)常識人という評価を得ていられるに違いなかった。 星矢が、ここぞとばかりに、(アテナの聖闘士たちの中では比較的)常識人(ということになっている)二人を攻撃してくる。 「おまえや紫龍はさ、いつも俺と氷河のことを、無茶だとか、無謀だとか、滅茶苦茶だとか、常識がないとか言うけどさ。俺に言わせれば、聖衣 脱いでからの おまえと紫龍の方が、俺たちより よっぽど非常識だからな!」 「そんなことないよ」 さすがに、星矢や氷河と同列に語られるのは不本意だったので、瞬は やんわりと星矢の言を否定したのである。 だが、(アテナの聖闘士たちの中では比較的)常識人ではない(ことになっている)星矢は、更に彼の言葉を重ねた。 「そんなこと あんの! おまえだって、氷河を追いかけて、シベリアまで行ったじゃん。十二宮戦のあと。住所なんて、ないようなとこに」 「あれは、氷河が心配だったからで……。コホーテク村に行けば、氷河の家は わかると思ったし」 「だからさ、おんなじだろ? おまえは、逆走にーちゃんと大同小異の五十歩百歩なんだよ」 言われて、瞬が頬を朱の色に染める。 氷河が、 「俺も追いかけるぞ。そこが たとえ海の底に沈んだアンドロメダ島であっても、地獄の果てであっても」 と言い切ったのは、決して自分が凶悪な国際ストーカー男と大同小異だと認める気になったからではなかっただろう。 そうではなく――氷河は、自分も瞬と同じだと言いたかったのだ。 それでなくても赤味を帯びていた瞬は、更に その頬を上気させた。 「そういうこと。あの逆走にーちゃんが普通だとは言わないけど、逆走にーちゃんだけが変なわけじゃないんだよ」 星矢の理屈でいくと、この世界に変でない人間は ほとんど存在しなくなる。 それは かなり乱暴な主張だったのだが、その場にいる者たちは誰も、星矢の主張に異議を唱える資格を有していなかった。 「ジシスさんは、瞬の幸せのために、死ぬ思いで瞬への思いを断ち切ってくださったのよ。あなた方は、ジシスさんと違って片思いなわけでもないのだし、ジシスさんのためにも、そろそろ どうにかなってしまった方がいいのではなくて?」 常識のない、変な人間だらけの地上世界。 その頂点に立つのは、もしかしなくても彼等の女神――人間の愛の力を信じる女神アテナだった。 法律上の婚姻可能年齢も、恋し合う二人の性別も、彼女は実に軽やかに無視してのける。 なにしろ、彼女の愛する人間たちが生きる地上世界では、愛は常識より強く重いのだ。 Fin.
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